謎の感情
「あ、あぁ…」
無意識のうちに、呻き声を上げる。
意識が遠くなっていくのを感じ、視界もぼやける。体を起こそうにも、その体が言うことを聞かない。手はかろうじて動くが、グーとパーを繰り返すのが精一杯、何もできないに等しい。
ゆっくり、そして確実に、私は私を失っていくのを実感する。まるで頭の中に雨が降ったかのように、私という概念が洗い去られ、デタラメに書き換えられていく。
体を揺すられるのをかすれていく意識の中で微かに感じる。さっきまで隣にいた人、おそらくその人だが名前が思い出せない。
「だ…れ…」
また無意識、それこそ誰に言ったかわからない。言葉の受取手は、今私の体を揺すっている人かもしれないし、もしかしたら現在進行形で消えている私かもしれない。どちらにせよ、答えは返ってこない。
強く拳を握る。石の壁が削れ、床に落ちた砂と一緒に。
頭に響く冷たい声、ザザッ、というノイズ混じりに微かな私に語りかける。
『おまえ…もう、お前……ない。たった……からわた……なる』
今さっき聞いたような台詞、耳を通していないという違いはあるが、残った意識でもこの状況を誰かに説明するには十分すぎた。統率の操り人形、私が消え、姉さまになっていく。
消えゆく私、記憶が捏造され、精神は冷酷なものとなる。
どうして私を…
『簡単なこと、コモモを支配したところで、おまえにおとなしくされるだけだからな』
ノイズが消え、さっきよりも鮮明になり、頭で考えたことに答えが返ってくる。なんとも便利なことだが、冗談にも今は便利など言ってられない。
打開策を考えようにも、すでにほとんど消えてしまった私で、いったい何を考えられるのだろうか。そもそもこの状況から抜け出す、という考えさえ思い浮かばないのではないか。
もともと冷たく、静かだった地下はより一層静かさを増す。けれどもそれは、落ち着きをサポートせず、逆に不安感を煽る。
どうすれば…
私は心の中の机を思い切り叩く。怒りでも焦りでもない、謎の感情。
『悔しいか。だがもう逆らうことはできん』
脳が締め付けられる感覚、苦しさのあまり私は再び呻き、言葉に、姉さまに侵される。
『所詮落ちこぼれの考えた逃亡計画なぞ、風の前の塵同然。全て時間の無駄、成功すると考えていたおまえの姿は実に滑稽だった』
言葉責めにされ、私はもう崩れる直前にある。計画を否定され、それを手伝ってくれた誰かを否定され、自分を否定された。私とは何なのだ。
悔しい、見返してやりたい、でも何もできない。消えゆく私では何も。
「わたし…は…」
ゆっくりと口が開く。けれども、私は動かしてなどいない。いや、すでに私、ハレン・リンドウが動かしているのかも。
「わたし…は、わたしは…!」
寒いわけでもないのに体が震える。もう限界だ。私はもう残っていない。かけらほども、針先ほどもない。統率の支配から逃れられない。
流れてくる全ての情報に全てを委ね、私は私を失う。
最初から全て決まっていた、こうなる運命だと決定づけられていた。ならばそれを受け入れるのが世の摂理、悔しいなんて考えるのがそもそもの間違い。
流れてくる情報がプツリと止まる。私はまだ完全に消えていない、微々たるものだが残っている。
(悔しい…?)
さっきまで普通に使っていた感情を表す言葉、私にとって、それは謎の感情だと気がつく。




