ツカマエタ
「物理的にじゃないでしょう。小さいときは擦り傷1つで…」
「昔の話はやめてよ。それに、本当にそんな話してる場合じゃないから」
クルミの手を握り、少年に別れを告げてから扉を出る。できることならこの少年に姉さまを妨害させて、時間稼ぎをしたいが、鎮心は洗脳ではない。故に操ることはできない。
クルミの手を引っ張り、最高速度で走る。とはいえ、腰が痛い所為で最高速度は亀のようだ。まだ若いはずなのに、と再び考える。
真っ暗な一本道、足を止めずにひたすら今来た道を戻る。いくつもある部屋のどれかに入ってやり過ごす、という考えはない。姉さまが統率を遠距離まで飛ばし、少年を乗っ取った事を考えると、隠れても無意味とわかる。
戻っても逃げられるとは限らない、隠れても見つかる可能性が高い、真綿で首を絞められているような気分だ。いじわるな神様の筋書き通りに動かされている。
一度考えたことがある。運命に抗うための行動、それさえもが運命付けられていたとしたら、と。弱い私は、運命には逆らえない。いや、誰も逆らえない。
「あぁダメだ」
走りながら片手で頭を抱える。
「何が、何がダメなの?」
「さっきから、だったら、とか、ナントカない、ばっかり考えてる。こんなんじゃダメだ」
暗闇を背景に、同じような暗いこと事を語る。
「そんなものでしょ」
私に引っ張られているクルミがやや間を置いて言う。私が振り向くと、クルミはゆっくりと縦に振って、
「追い詰められてプラス思考ってのがまず無理な話。人間そんなに強くない」
「でも、あなたは随分冷静みたいだけど」
「そうね。例えば、1時間かけて考えた作戦と、その時に思いついた咄嗟の作戦、どっちが成功しやすいと思う?」
私は困り果てる。天才というものは常人には理解できない。前半は納得したが、話の後半は全くもって理解不能、今この状況に関係があるとは思えない。
今更ではあるが、一本道とはいえ転んだり壁にぶつかったりしてはいけないと思い、「1時間の方でしょ」、とだけ答えて前を向く。
依然、私たちが降りてきた階段は見えない。変わらない景色が感覚を麻痺させそうだ。もう少し、と感覚的に思っても、実際は全然進んでいないに等しい。
「それで」
今度は振り向かず、前を向いて尋ねる。
「答えはどっちなのさ」
「答え? 答えは………」
ズサッ、と何かが倒れるような音。
私の視界はそれと同時で、目の前に床を写していた。
その瞬間、私はクルミの手を離していて、巻き込んでしまうことはなかった。何かにつまづいたわけでもなく、転んでしまう。まだ若いはずなのに、とは考えられなかった。
『ツカマエタ』
耳からでなく、心に直接語りかけられる。優しくて、温かくて、恐ろしい。ハレン・リンドウ。その人の声。




