よくばりに、なりました
「おおごとにしたくない、ね。ディスから、そんな言葉を聞くことになろうとは」
何かが気に障ったのか、アルの声が硬くなった。
驚いて、ラテは口を閉じ、そっとアルを覗き込む。それは失礼だとわかりながら、心配で仕方なかったから。そして、眉を吊り上げ、目元に朱を佩いて鋭く男を見据えるアルに、言葉も息も、止まってしまった。
突然、アルも感情を持っているのだと、怒ることもあるのだと、思い出す。ラテにはとてもとても優しいから、忘れかけていた、当たり前のこと。
怖いわけではない。けれど急に触れてしまった生身のアルはとても熱くて、ただただ、ラテは驚きを重ねた。
「保護する対象を横取りなんて、驕った言い方をするものだ。守られるべきものを守るのに、誰がどう手を下そうと、関係ないじゃないか。王立軍の理念は、手柄を立てることではなく、市民の安全を守ることだろう? そもそもおおごとになるのなら、それだけの膿みが溜まっていたというだけのこと。それを避けようというのは、罪を見過ごそうとするのと同じだ」
アルの白皙が、苛烈な怒りを露にすると、若く華奢な姿ながらもかなりの迫力だ。
しかし、ヒゲ男は我関せずと近寄ってきて、しげしげとラテの顔を覗き込んできた。ラテは、アルの顔ばかり見上げていたけれど。
「……聞け」
アルが苦言を呈すると、ようやく、ごつい手のひらで顔をごしごしとこすって振り向く。
「聞くに値する事を言えよ、坊主。そんな癇癪で、守るべきもんを本当に守れるのかよ。
お前さんは、仮にも男爵家に力ずくで乗り込んで、囚われの奴隷を解放した。騒ぎは大きくなり、言い逃れのできなくなった男爵は捕らえられた。だが、混乱した現場で、男爵の私兵が何の罪も無い下働きたちを傷つけて、さらに男爵家の財産を略奪して逃走。奴隷売買への関与を睨んで監視していた商人たちも、速やかに姿をくらました。
悪人が逃げ果せれば、いずれまたどこかで悪事を働くだろう。大立ち回りをして大満足なのはいいが、取りこぼしだって、見過ごせない」
アルは押し黙り、ゆっくりと息をした。その細い肩が、静かに落ちた。顔を俯けて、躊躇うような間の後に、傷ついたものがいるのか、と尋ねる。
「下働きが3人、切られて熱を出してる」
しばらく動かなかったアルに、ヒゲ男は、横柄な口ぶりをほんの少し、改めた。
「命には別状はないそうだ」
至近距離で二人を見上げていたラテには、上背の差ゆえ、男にはアルの表情はまったく見えていないことがわかった。背を丸めて俯くアルは、上から見下ろす男には、悄然として見えたことだろう。
だが。
少し下から見上げていたラテに、アルは気づいていなかったのだろう。そうでなければ、きっと隠していたはずだ、とラテはなんとなく思った。
奥深くから燃えるように、花咲くように色づいた頬は。夢見るように、どこか遠くを見てうち笑む、その目の艶は。
それはまるで、無力な男たちを手玉に取って嗤う、少女神のようで。
びりびりと、うなじが痺れた。触れてはいけない、人にあらざる美しさ。息が浅くなる。苦しくて、目が回りそうだった。
もしもその濡れたような黒い目が、ほんの少しでもラテを映したのなら、ラテはすぐにでも、魂ごと消え入ってしまうだろうと、そう思った。
ふいに、笑みを掻き消して、アルは至極まじめな顔を作って、ヒゲの男に向き直った。
「そうか、それは悪い事をしてしまった。確かに屋敷の使用人にまで手を出すとは予想していなかった。その点は、私のミスだ」
非を認めたアルだが、男は険しく顔を歪め、その腕を掴んだ。
「おい、その言い草、気になるな。……ここは、逃げ出した私兵や奴隷商のことだって気に病むとこじゃないのか?」
迫る男に、アルは、にっこりと笑顔を浮かべた。さきほどの、妖艶なものではない。正面から挑みかかる、まっすぐな笑みだ。
ヒゲ男が、それを近距離でまともに見て硬直したのが伺えた。固まって、ただ、高い位置からアルを見下ろしている。
まるで見つめ合うかのような対峙を静かに見るしかなくて、ラテの胸の奥が、ぎしぎしと軋んだ。
やがてアルが細い腕を振るうと、男の腕は力無く外れた。掴まれたところが痛むかのように、反対の手で押さえながらも、笑いを悪戯げなものに変えた。
「でも、優秀な王立軍が速やかに包囲網を展開させて、逃げ出した私兵、奴隷商まで、一人残らず捕らえただろう? そのために、乗り込むと同時に知らせを届けたんだから」
「お前……」
「国の優秀な人材は、使ってこそ、だから」
「あの文鳥はやっぱりお前か。……いい加減にしろ。王立軍は、坊主の手頃な駒じゃない」
「駒だと思えていれば、もっと安心できたんだけど。まあ結局は思った通り、おおごとになってでも、しっかり捕り物をしたようで、よかったよ。失望せずに済んだ」
一瞬。ほんの一瞬だけ揺らめいたアルの夜の瞳が、ラテの目に焼き付いた。
声も、口元も、意地悪そうな色を纏っているのに、その瞳だけが、嬉しくてたまらないように潤んでいるような。
さわさわと、ラテの胸が鳴る。
アルのめまぐるしく変わる表情に、片端から捕われていく。もっと、もっと近づきたかった。その側に寄り添って、その心を共有したかった。
気がつけば、ラテは男から顔を背けて笑うアルに、ぴったりと寄り添って、ヒゲ男をぐっと見上げた。
「アル様は、私を助けてくださいました。私の前で、アル様を否定しないで下さい」
ヒゲ男とアル様が、二人揃ってきょとんとして、ラテをまじまじと見つめてきた。
アルの顔からは、さっきのようなキラキラとした感情のかけらは消え失せてしまったようだ。——ラテは、何か酷い間違いを犯したような、居たたまれない気持ちになった。
「ちびっこ、それとこれとは別だ。だいたい、あんな強硬手段を当たり前に思っていたら、こいつの身にも、危険が及ぶ」
「ちびっことは、失礼だ。彼女はラテだ。けど、気楽には呼ばないでもらおう。減るからね」
ぼやきながらも距離を取り直した男と、そんな男に文句を言いながらも、蕩けるような優しい笑みを向けてくれたアルに、ほっと息をつく。
「聞いてるのか、お前は無茶苦茶だ。この問題は根が深い。男爵は使い捨てだ。首謀者かその使いと、定期的に密談していることは掴んだ。その相手方を掴めそうだという時に、この騒ぎだ。——もう繋がる糸は切れてるだろう」
「ディス、糸は、そんなに簡単に蒸発しない。必ずまだある。問題は、違うところだろう? どうして、そこは認めないんだ」
「うかつなことは言うなよ、坊主。お前は、自分を過信しすぎだ」
ラテに向けられていた柔らかな笑みは、再び引っ込んでしまった。
自分には、とラテは思う。自分には、唇を突き出したり、眉をしかめたり、舌打ちをせんばかりの顔など、見せてはくれない。
その鮮やかな心のままの表情を溢れるほど与えられる。いったい、この男はアルにとって何なのか。身の内を搔き毟りたいような衝動に、ラテは自分でも戸惑って、少し怖くて、助けを求めて視線をぐるりと転じた。
セリは、食堂から姿を消していた。
ファモリカは、男を案内してきたまま、扉のすぐ横で控えて、静かにこちらを見ていた。
目が合って。
その琥珀の目は今は静かで、ラテの焦る心もわずかに宥めてくれるようだ。と、ふとその目が、細められ、小さな頷きをよこした。
「過信しているつもりはないよ。私自身のことも、そして貴方のこともね。でも貴方はどうなのか。近頃は、見たくないものを見ないようにしていて、どうにも歯がゆいものじゃないか。過信を恐れて、己を小さく無力な檻に封じ込めようとはしていないか?」
「お前はお前の心配をしろ。俺と王立軍との問題だ。横から気まぐれで手を出すんじゃない」
ヒゲ男は歯を剥かんばかりだ。アルも眉間に深く皺を刻み、拳を握りしめていた。ラテは、もはやおろおろとするばかり。
そこへ。コツ、とファモリカが、一歩二人へ近寄った。
「たとえ気まぐれであろうが、あるいはなかろうが。アル様が手を出された意味は、ありましたよ」
意外なところからの反論に、二人は鋭い目線をそのままファモリカに送った。だが若者は、怯まない。むしろ優雅に一礼してみせた。
「差し出た口をお許しください。アル様は、偶然、あの屋敷の不正を知った。そして多少無茶でも、その日のうちに動いてくださった。あの屋敷に捕われていた当事者でもある私は、その偶然と行動の速さに感謝しなければなりません。たとえ部隊長殿から見て浅はかに見えようとも。明日では間に合わない命もありました。——いえ、間に合わなかった命だって」
最後の言葉は、人知れぬ池の底に降り積もった落ち葉のように、しん、と寂しい響きだった。
彼は、誰か大切な人を亡くしたのだろうか、とラテはその心を思う。思えば、不思議な人だ。一体、彼は何者なのだろう。
男は、ファモリカを睨んだまま、大きな口をへの字に閉じた。
そこへセリが、大振りのカップに濃色の香り高い飲み物を持ってきた。珈琲だ。男の目から、力がすっと抜けて、思いがけず柔かな眼差しになった。
一度カップを礼をして受け取り、食卓へ置く。
そして、改まってファモリカに向き直り、かちりとした姿勢で、王立軍の部隊長は、頭を下げた。
「悪かった。確かに、被害者から見れば、救助が遅れる正当な理由なんてのはないな。それは、俺らの勝手な事情だ。許せ」