いきて、いました
まだ明け方の、薄暗い部屋に、ぽかりとラテは目を開けた。
眠りの余韻はない。ふと、瞬きをして、目蓋を上げた。そんな感じだ。
そっと身体を起こして、その軽さに驚いた。
半地下で目覚めたときには、身体は冷えて痺れて、なかなか動かなかった。身体は重たく、頭も絞られるように痛んで。仕事を始める前に母親の世話をするのにも、指がうまく動かず、痛むのを我慢して必死にさすったものだったのに。
体は強張ることも、痛むこともない。
そのかわり、飢えが身体の芯をぎゅうっと掴んでいた。胃が引き絞られるようだ。
——たいしたことではない。
ラテは寝台から降り、吊るしてあった昨日の服に着替えて皺を伸ばし、髪を手で撫で付けると、洗い換えか、足元にたたんであった前掛けを付けた。夜が空けきっていなくとも、もう眠れそうにない。じっとしているなんて、とんでもなく悪いことをしている気がして落ち着かない。
何かできることを探して、部屋を出ることにした。
廊下も、食堂も、朝と夜の青い狭間に沈んでいた。
なんとなく足を忍ばせて、玄関にも行ってみたが、誰の気配もなかった。
二階に上がって、どこかで休んでいるのであろうアルを邪魔するのはとんでもないことだったので、困り果てて、ふたたび食堂に戻った。
ラテが幼い時のある日から母と過ごした屋敷では、ラテや母は、屋敷の外の存在だった。屋敷の中のことは、もっと綺麗な身なりをした偉い使用人たちの仕事で、ラテたちのようないつも汚れた存在は、屋敷の外回りの掃除や、汚れ物の運搬の手伝い、庭の猛犬の糞の始末や、虫、蛇などの退治など、きつい仕事ばかりだった。母は早いうちから身体を壊して、半地下の部屋からでなくなっていたし、ラテは特別な用事で主人の馬車に同乗することもあったので、比較的汚れにくい仕事をまわされていたが。何人かの大人の男の人が、ぼろぼろの身体を引き摺るように、仕事をしていたのをいつも見ていた。
比較的身ぎれいだったラテは、かわりによく、水汲みを命じられた。飲み水を運ぶ者が、近寄ることも憚られるほどに汚いのは、嫌だったのだろう。零さないように気を張って、大きな水瓶をかつぎ歯を食いしばって何往復もするのは、ラテにとっては、一番きつい仕事だった。
けれどここで、アルのために水を汲むのは、嫌ではない。セリという女中だって、とてもあの身体では水を運ぶことはできないだろう。
手伝えそうなことを見つけられて、ラテは心底ほっとした。
食堂から厨房らしき場所を覗く。広い厨房にも関わらず、使われているところはほんの一部のようだった。
(そういえば、食事は外から運んでもらってる、って言ってた)
それでも、隅には水瓶が置いてあり、半分以下に減っていたので、ラテは厨房から外に通じる扉の閂を外し、そっと開いたのだ。
外は、靄がかって一層青く、庭の木立すらあやふやだ。おそらくはそう離れていないところに井戸か、上水道が来ているのだろうが、息をすると青を吸い込みそうに濃い夜の気配のする知らない庭に、ラテは気後れした。
一度、扉から出していた頭を引っ込めて、水瓶を確認する。床に固定して使っているようで、びくともしない。とすると、水を運んでくる容れ物が、どこかにあるはずなのだが。
戸棚を開けるのは憚られて、うろうろと限られた空間を探しまわる。と、廊下を急ぐ気配がしたと思うと、厨房に駆け込んで来たのは、アルだった。
「ア、アル様?」
「——ラテ」
軽く息を弾ませたアルは、髪もあちこちもつれ、寝間着らしき薄ものの上に、羽織物をいい加減に巻き付けていた。足下のサンダルも、つっかけてきただけという様子に、ラテは呆気にとられた。
「ど、どうされたんですか? 何かあったんですか?」
ドキドキして尋ねると、アルは大きな息を吐いて、にっこりと笑った。朝から、ラテの心臓がうるさく鳴る。
「何もないよ、ラテ。ちょっと、悪い夢を見て、驚いて起きちゃったんだ。ラテこそ、どうしたの?」
言いながら、ラテの横から手を伸ばして、そっと扉を閉めた。ラテは逆らわず、ただ、困って眉を寄せた。
「あの、水を汲んでこようかと思ったんです」
「水? ああ、そうか。この屋敷には、建物内に水道が通ってる。こちらから、いつでも水は汲める。その水瓶は、非常用。セリにも無理な仕事だから、ここには定期的に、力自慢の使用人が運んでくれる」
「そ、そうですか」
アルが壁から出ていた金属管の栓を引き抜くと、そこから水が流れ出て来るのを見て、ラテはぽかんと口を開け、すぐに、まともに自分の仕事も見つけられないなんて、と顔を俯かせた。その頭に、アルがぽんと優しく手を置いた。
「ありがとう、セリを気遣ってくれたんだね。大丈夫、ラテに助けてもらうことは、きっとたくさんあるから、ゆっくりみつけていったらいい」
「……はい」
「身体が、ラテの年相応に健康になるまで、屋敷の中で養生して。動かなすぎも落ち着かないのなら、屋敷の中でなら、簡単な手伝いをしてくれたらいいよ」
「……はい」
かけてもらえる言葉が優しすぎて、ラテは目を回しそうだった。
ちょうどセリがやってきて、昨夜遅かったと言うアルが部屋に戻るのを二人で見送った。
ふと気がつくと、横顔に女中の視線を感じて、ラテは慌てて、おはようございます、とそちらにも腰を折った。
「ああ、おはようさん。いや、何もないんだけどね。アル様は、とことん、朝に弱い方でね。こんな時間に起きていらっしゃるのを見たのは、久しぶりだと思ってさ。……きっとあんたのことが、心配でならないんだね」
「……え? 私を心配して、起きてこられたんでしょうか?」
「さてね。私から見ても、あんたはひどく細っこくて危なっかしいからさ。さ、アル様がもう一度休まれたとしても、朝食の時間は決まってるんだ。もうすぐ運んで来るはずだから、今のうちに湯を沸かして、飲み物の用意をしようかね」
「は、はい」
手早く火をおこした竃に、鍋をかけ、湯を沸かす。
その間に、茶器を並べた女中は、ほら、とラテに小さな丸いパンを渡した。
「まずはアル様の朝食からだからね、少しお腹に入れときな。朝、焼いてきたんだよ」
女中の言う通り、パンはまだ、人肌ほどに温もりを残している。いただきます、と断って、ラテはパンをちぎって口に入れた。
あまりに美味しくて、気がつくと、最後の一口を、ごくりと飲み込んでいた。
いつの間に食べてしまったのか、よくわからなくて、じっと自分の手を見る。そして目を上げると、女中がもうひとつを差し出していた。
「若いんだからね、食べときな。これを食べたからって、朝食が喉を通らなくなったりもしないだろ。どうしても、届けられる食事は冷めてるからね、たまには温かい物をと思って、焼いて来るんだ。温かいうちに食べた方がいいに決まってるよ」
「あ、ありがとうございます」
アルのために焼かれたパンを食べることに抵抗があったはずなのに、身体の内側にしみ込む温かさを断ることはできない。ラテは夢中でパンを食べ、沸いた湯を、ふうふう冷まして飲んだ。
そうして人心地がついた。ついたなら、気になることが出てきた。
母だ。
あの屋敷にいたのなら、母は冷え切った身体で、食べ物もなく、ひとりで半地下にただ寝転んでいただろう。思うだけで、身震いがする。
だが、ここに連れて来られているのなら。母にも、こんなにおいしいパンが配られるのだろう。
ほっとするようでいて、なぜか息苦しい。
どうしても、母のことを口にすることができず、ラテはパンのお礼を言って、セリを見習い、ワゴンに食器を並べていった。
「アル様は、朝食だけは部屋に持って行って差し上げるんだ。あんたも客分だからね、きちんと朝食が来るよ。カトラリーだけ、食堂に並べておいで」
「わ、私の分も?」
「ああ。客人は、離れに滞在されるのが普通なんだけどね。あんたには特別に、アル様が手配なさったようだよ。一人では味気ないだろうから、昼と夜は、なるべく一緒に食べようと、アル様がおっしゃっていたよ」
「ご、ご一緒に、ですか?」
そんなことはできない、と首を振ると、セリは不思議な笑みを浮かべた。
「言ってなかったが、大事なことだよ。このお屋敷の決まり事でね、当家の方々以外は、お屋敷の中で飲食をしてはいけないんだ。お客人にも、お茶だって出さない。私も、昼は離れでいただいてるよ。
今、お屋敷には当家の血筋はアル様だけ。毎日お一人で食事をされていて、つまんないだろうと、正直いつも思っていたのさ。あんたが、アル様直々に、特別食事も許される、って聞いて、よかったな、と思ったもんだよ」
よかった、なんて、おこがましいけどねえ。
とセリは顔をくちゃりと皺だらけにして笑うと、ほら、さっさと並べておいで。食卓も、よく拭いてからだよ、とラテを急かした。
食堂で、巨大な食卓をせっせと拭きながら、ラテの中でぐるぐるとセリの言葉が回っていた。お屋敷では、アル以外は物を食べない。ということは、
(私とアル様以外は、離れにいるんだ)
それはラテが、特別アルの近くにいるかのようで。じんわり、お腹があったかくなった。
同時に、昨日の青年、ファモリカと母とは、離れにいるとのだ、と思い至り、今度はどくどくと血が巡りすぎて、胸を押さえた。
(でも)
アルが母を助けてくれたのだとしたら、それはラテが母を気にしてあの屋敷に戻ると言っていたのを気にしてのことだろう。だが、昨夜も今朝も、アルはひとつも、母のことを話題にしない。
(あれは、違ったのかな)
アルが連れた他の人物を、母と見間違ったのだろうか。そうすると、母は今、あの屋敷で冷え切っていることになる。もう、気付くこともできないほど連れ添った餓えだけを傍らに。
ぐっと喉が詰まり、視界が暗くなった。
(やっぱり、今日戻ろう。アル様が、起きて来られたら。——ううん、アル様にお食事を運んで、お礼を言ったら)
ぐぐっと食いしばった歯が、きり、と鳴った。目の奥が熱くなった。
振り切るように厨房を振り返ると。
ちょうど、食事らしき盆を手にした美麗な青年、ファモリカがそこから入ってきて、目が合った。