めを、とじました
お待たせしました。
玄関ホール脇の細い通用路から、アルが姿勢良く立って、執事のアルバに短く指示を出しているのが見えた。
ラテの小さな胸が、誰かが中から叩いたように、とん、と鳴った。
広いホールの奥まで、扉からの冷気が忍び寄ってきた。外はもう暗い。冷え冷えとする時間帯なのに、アルの格好が薄いのが気になったが、その向こうで誰かがよろめいて倒れたので、紛れてしまった。
倒れたのは、黒づくめの小柄な人だ。そして、その傍らに立ち尽くす、こちらも大きくはない、フードをかぶったままの人。アルより扉寄りに立っていたので、いま伴ってきた客だろうか。
ふと、ラテの足から、震えが上ってきて、首に抜けた。
なぜか、わからないままそっと声を抑えていると。
アルが、倒れた人の横に跪き、やさしく身体を支えてやった。おそるおそる、といった様子で身体を起こした拍子に、黒づくめのフードが外れる。
そのとき、重たく耳障りな音が、ラテの耳の真横で打ち鳴らされたようだった。
それは、みすぼらしい髪とかさついた肌と、ぎらつく目をした、痩せた中年の女だった。
女、いや、母だ。
——いや、母かと思う間に、女はアルの指示で、もう一人のフードの人物に担がれ、どこかへ運ばれていった。顔を見たのは一瞬。定かではない。
戸惑う間に、アルも付き添うようにホールをあとにしたので、ラテはよろよろと食堂へ向かった。
歩みは重い。
粘ついた冷たい手が、足にすがりついて来るようだ。
どこか、暗く深いところへ誘うような。
(あれは、母さん? アル様は約束を守ってくださったの?)
自問する声は、到底喜んではいない。そのことが、ラテを激しく打ちのめした。
唯一の母。母の手は、ラテを支えてきた、暖かなもの。そのはずなのに。
(どうして私、苦しいの?)
悲しく問いかけた、その意識もふと消えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ラテが目を覚ましたのは、軽いノックに促されてのことだった。
はっと起き上がれば、与えられた部屋だ。扉を向けば、ちょうど女中が手桶を持って入って来るところだった。
「気がついたかい? 廊下で倒れていたんだよ。ちょっと、働きすぎたかね」
にこりともしないが、ラテの額に皺の深い手を当てて、熱をみてくれた。
「うん、少しあったまったかね。さっきはひどく冷たくなってたんだ。今、暖かい飲み物をいれるよ。少しでいいから、飲んでみな」
「……はい、ありがとうございます」
そういって出ていったから、次にノックがあった時も、ぼんやりとしたまま、はい、と答えたのだ。
だが入ってきたのは、初めて見る青年だった。珍しい、茶金の髪。肌は滑らかな濃い茶。湯気の立つカップを持っている。
ラテは、青年の美しさに、ぽかんとして、動けなかった。
単に美しさで言ったら、アルの方が完成されている。青年は、整っているというには目元が鋭すぎ、唇も薄すぎだ。だが冷たくも見える顔に蕩けるような甘い笑みを浮かべている、そのアンバランスが、恐ろしいほどの引力を産んでいるのだ。
「起き上がらなくていいよ。僕は、ファモリカ。セリさんから、暖かい飲み物を持っていくように言われたんだけど。大丈夫? 起きられる?」
ファモリカは、にこにこと笑顔のまま、いつの間にか寝台まで近寄って、ラテの顔を覗き込んだ。綺麗な琥珀の目が、やさしく様子を見ている。
ラテはびっくりして跳ね起き、そして、ひっく!と大きなしゃっくりをした。
「ご、ごめんなさい。……ひっく! 急になんでか。あの、大丈夫、ひっく! です」
抑えようとして治まるものでもない。恥ずかしさで真っ赤になりながら、ラテは口とお腹をぎゅっと抑えて縮こまった。
ぶは、とおかしな音がして、ファモリカが笑い出したのは、すぐだ。
「あ、はは。ごめんね、驚かしちゃったみたいで。大丈夫、ちょっとお腹がびっくりしただけ。ほら」
カップを置くと、ファモリカはすらりとした腕を伸ばして、ラテの背中をさすってくれた。温かくて大きな手が、骨張った身体を宥めてくれる。それにじんわりとほぐされながら、ラテは息を忘れていた。
「ラテ? ほら、息してね、息」
促されて、はふはふと喘ぐ。しゃっくりが早くも止まったのは、さすってくれたおかげではなく、またもひどく驚いたせいではないだろうか。
咳き込む母の背を懸命に撫でたことはあっても、こんなに暖かく力強く、さすってもらったことはない。
口を開けたまま見れば、ファモリカは甘ったるい笑顔で、ん?と眉をあげた。いつの間にか、寝台に腰掛けているので、ラテの背から手を離していても、肩が触れ合いそうな距離だ。
母以外の他人と、ここまで近づいたこともなかった。
「もう飲めるかな?」
カップを取って、再び寝台に座り直し、ファモリカはまず、カップに自ら口を寄せた。ふうっと冷まして、様子を見る。それからやっと、カップをラテへと差し出した。
「あ、ありがとうございます」
受け取ろうとしたのに、なぜかカップは一瞬止まる。寝台でこぼすことを心配されているのかと、はっとして両手を差し出して受け取った。
中身は、甘くした麦湯だった。両手でカップを揉むようにしながら、ふうふうと冷ましてはちびちびと飲む。暖かくて、ほんのり甘くて、お腹に溜まる。やさしい味だ。
お腹から、肩、腕、足と、じわじわと温もってきて初めて、ラテは自分がかなり冷えていたことを知った。
「人心地ついた?」
問いかけられて、ファモリカの存在を思い出す。なぜか彼はまだそこにいて、じっとラテの様子を見ていたようだった。それは、ひどく真剣な様子で。
「はい、ありがとうございました」
「君は、倒れていたそうだけど」
「……?」
言葉が続かず、ラテは青年をうかがった。彼は言葉を探すように、視線をどこかへ向けていたので、ぼんやりとその通った鼻筋を見つめた。
「その、倒れていたのを助けられたそうだけど、そんな状態なのに仕事をしないといけないと、誰かに言われたの?」
とんでもないことを言われて、ラテはうなじの毛が逆立つようだった。震え上がるように、否定した。
「と…とんでもない。そんなこと、絶対にないです。ないです!」
「ラテ、ちょっと落ち着いて……」
「ファモリカ様、弱ってる子を刺激しないでやってくれませんかね」
現れたのは、女中だった。
女中が青年に対して敬称を付けたので、ラテは一層、身体を強張らせた。
「あの、私が。私がお仕事をさせて下さいと言ったんです。私が……」
「ああ、ごめん、待って、ラテ。お願いだから。……セリさん、申し訳ないが、助けて下さい」
やれやれ、と女中が近づいて、手に持っていたらしい、小さな飴を、ラテの口にひょいと放り込んだ。
「ほら、アル様からの飴だよ。みんな心配していなさるんだ。誰も怒っちゃいない。ゆったりしておいで」
「アルさま?」
アルの名を聞いて、ラテの緊張が緩む。そっと飴に舌をあてれば、乾ききっていた口内が、しっとりと湿ってきた。
「残りは枕元に置いておくけどね、食べすぎちゃダメだよ。普通に食べられるんなら、きちんと食事をしないといけない。いいね?」
はい、という囁きと首肯を確認して、女中は青年に向かって目配せをして。
ファモリカは、神妙な顔で黙って廊下へと従ったのだった。
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結局、麦湯と飴を入れた身体は、するすると眠りに沈んでいった。
仕事をしていた時は、いくらでも動けると思っていたのに、やはり本調子ではなかったのだろうか。
眠りの合間に浮上しては、とりとめなく、終わりのない問答を繰り返す。
そして毎回、いややはり、と続くのだ。
いややはり、あの人を見たから、ではないのだろうか。
ラテの思い出の中で、唯一温かい人。一人きりの、大切な家族。
母。
がつん、と額を殴られたような衝撃があった。
思い出しただけなのに。
瞼の裏で、母はアルに抱きしめられていた。幸せそうに。こちらに、視線も寄越すことなく。
見たくなかった。
だからラテは、ぎゅっと目を瞑った。
いろんなことを、見ないように。
そしてただ、背中をさすった温もりに、額に触れた気遣いに、そして抱きしめてくれた労りに、ただじっと、しがみついていた。
ひとり、夢の中、目を閉じて。