まって、いました
なんだかわからないうちに視界が塞がれ、暖かいものに絡み付かれて身動きが取れない。
アルが自分を抱きしめていることに気がついて、ラテは心底驚愕した。身体は凍ったように固まった。驚いたとしても、騒いだり拒絶したりしてはならないのだ。だが、もったいなさ過ぎて、恐れ多くて、ラテはびくびくと上を盗み見た。
「ああ、ごめんね、いきなり。つい」
そっと、壊れ物を扱うように、そっと放されて、ラテは詰めていた息を、はふっと出した。アルの香りを吸い込んだまま、自分の息をかけるわけにはいかないと、必死に止めていたのだ。
苦しくて、顔には少し血が上っていたから、おかしな顔だったのだろう。自分の顔を見下ろして、アルが目を見開いたのに、ラテは恥ずかしくて俯いた。
「……ラテ、君のやさしい心配はよくわかったよ。だから、少しここでゆっくりしていて。これは、お願いだから」
「は、はいっ」
アルにお願いと言われれば、ラテは断る術はない。それが奴隷というものなのかと自問したが、アルに酷く失礼なことのように思えて、打ち消した。
(アル様は、助けて下さった方だから)
ラテはそう納得して、部屋を立ち去るアルを見送った。
しばらくぼうっとして、やがて頭が回り出す。屋敷には、戻らなくていいという。まだ、現実のこととは思えない。母のことも、思い切れたわけではない。だが、待てと言われたのだから、待つしかラテにはできない。
ならば、と、ラテは部屋の隅の床にちょこんと座った。どうしても、柔らかくて気持ちのよい寝台や、細かい花の織り込み生地が張られた椅子には、座る気にならなかった。
膝を抱えて、目頭を両膝に押当てる。視界を塞ぐと、小さな頭に何故か失われることなく積み重なって行く情景が延々と繰り返されるのが常だったのだが、その時真っ先に思い出したのは、ぼんやりとした視界に揺れた、小さな灯りだった。アルを神秘的に照らし出していた、優しい火。記憶の情景を仔細に見つめてみれば、あの時アルが座っていたのは、今目の前にある、小花模様の椅子だった。
ここは私物らしきものがまったくないので、おそらく客間だろう。では、アルは、ラテが目を覚ますのを待って、ここに居てくれたのだろうか。
ラテは長く深い息をついた。
誰かに思いやってもらうこと。それがこんなに、くらくらするほど甘美な気持ちをもたらすとは、想像もできなかった。
だがその吐息が部屋にするりと解け消える時には、ラテは嫌な予感にぎゅっと胃の底を掴まれたようになった。
——そんな幸せなど、幻でしかない。
そう、しわがれた声が聞こえる。
アルは、どう見てもまだ成人したての年齢だ。とすれば、この屋敷を所有している人物が、アルの後見にいるのだろう。薄汚れた奴隷娘を拾って、手厚く世話をする行為は、きっと貴族には受け入れがたい奇行だ。アルが、叱られたりしないだろうか。
追い出されるのはいい。それは、予想できることだし、当然だ。それよりも、ラテには、アルが不利益を被ることのほうが、恐ろしかった。
やがて部屋の扉が叩かれラテは慌てて立ち上がったが、入ってきたのは、白くなった髪をひっつめ、お辞儀をしているかのように腰の曲がった女中で、首だけを起こしてラテをしばらく見つめた後、こっちにおいで、と促してきた。
「やれ、まだ寝間着のままとはね。ほら、ここに着替えがある。そんな格好でいつまでもいるもんじゃないよ。まずはそこの扉奥に洗面室があるから顔を洗って、髪を梳かすんだ。そう、さっさと着替えて。……着替えはできるんだね。じゃあ、すること無いのもつまらないだろうから、寝台を整えるのを手伝っておくれ。掛布を除けて、敷布を取り替えるよ。……そっちから放ってよこしておくれ。そう、で、台の下に端を入れこむ。うん、わかってるね」
女中は淀みなくしゃべって、ラテをくるくると動き回らせた。初めは簡単なことを、ラテがひととおり動けることがわかってからは、こき使う、という表現がまさに正しかった。ラテと一緒に女中も無駄の無い動きで部屋を整えたりしていたが、時に腰をさすって休む。
ラテがおずおずと、辛いなら休んでいて、と言うと、埋もれたようだった目をかっと見開いて、そんなのはなんにもならんよ、と鼻を鳴らされた。
「これはね、怪我や病気とは違うんだ。年だからね。辛いからって動くのをやめてしまえば、もっと動けなくなるんだ。つらくても、ちょっとずつでも動いていないとね」
そう言って、またラテをしばらく見ていたが、ま、まだわからないよね、と一人で頷きながら、ラテの食事の盆を捧げるように抱えて扉へ向かった。
「あの、運ぶの手伝いましょうか」
ラテが申し出ると、ちょっと思案したようだった。
「今はいいよ。この部屋にいなさいって言われただろう? でも部屋にばかりいたって不健康だからね。手伝いたいって言うなら、手伝ってもらうよ。あんたからも、ちゃんとそう申し上げておくれ。私も、手伝いをお願いしたら楽だと、申し上げるからね」
「は、はい」
女中が出て行って、扉がぱたりと閉まった。
寝台はきっちりと整えられて、窓も曇り無く、家具のすべてが磨き上げられ、部屋は完璧だ。そこに取り残されて、ラテはまたもぼうっと立ち尽くしていた。
(ああ、アル様のこと、尋ねてみればよかったのに)
すくなくとも、女中からは見下す感じもなかった。息つく間も無く用事を言いつけられていたが、関係ない話を振っても、怒ったりはしなかったかもしれないのに。
着替えた服は、元いた屋敷では上級女中しか着られない制服のように滑らかな生地で、赤茶の地に、襟元と裾には簡単ながら色とりどりの刺繍も入っている。丈はくるぶしまであって、まるで街で垣間見た女の子のようだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あのとき、ラテは馬車の荷物室に縮こまり、周囲から見とがめられないように息をひそめていたのだが、あまりの悪路に小さな体が跳ね上がり、外から荷物を入れるための小さな穴に、半身落ち込んでしまったのだ。焦って元に戻ろうともがくのに、いたずらにあちこちを酷くぶつけるだけで、馬車から落とされそうな恐怖と、それを咎められる恐怖とにがちがちと歯が鳴った。そんなときに、耳を打った高い声。
「たすけて、お兄ちゃん!」
荷物にしがみつきながら、視線だけを動かして見やれば、泥の溜まった道の窪みを越えられず、往生している女の子が、先に行った兄を呼んだらしい。
ありふれた光景なのだろう。世間では何も特別ではない一場面。
すぐに女の子の姿は過ぎ去って、ラテはなんとか、主人に気づかれないうちに再び身を隠すことができた。額や手足は打ち身で痛み、爪の際がじんじんと痛んだし、跳ね上げられた拍子に口の中も噛んでいた。痛い所だらけ。
「たすけて、お兄ちゃん……」
呟いてみて、女の子の赤い服を思い出したが、それだけだった。
それだけで、やめた。
なにを想像してみても、よけいに辛くなるだけだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ぽつんと、ただそこに立っていたラテを動かしたのは、いきなり入ってきた、さきほどの女中だった。
「急な御用で出かけられたよ。戻られるまで、あんたがいいのなら仕事を手伝ってもらっていいとさ。いいかい、頼むよ」
「は、はいっ」
物思いから覚めて、ラテは慌てて女中の後を追いかけた。
アルの屋敷は広かった。一階部分だけでも、部屋数は二十を越えそうだ。
「二階はまだあがらないでおくれ。一階なら、あとで見て回ってもかまわないさ。ここで働いてるのは、私と執事のマクバさん、男手のスバだけ。あとはたまにディンの小僧が来るくらいだね。使う部屋も少ないから、そこだけ掃除をすれば良い。洗濯は洗濯屋に頼んでいるし、食事は仕上げる段階のものを届けてもらってお出ししてる。ま、そんなんだから、私でも何とかなってるってもんだ。マクバさんは通いでね。仕事があるときだけ来るのさ。さて、ただね、わたしにゃ高いところの掃除はきつくてね」
まず、手渡された前掛けを身につける。それから、ラテは一階をくまなく歩き回り、窓の上の桟の埃とりと、燭台のロウ削りを延々とやることになった。いつ終わるとも知れない単純作業は、気持ちを空っぽにしてくれる。ラテはただ無心に、汚れと格闘し、手元の汚れが見えにくくなって初めて、日が落ちようとしていることに気がついた。
「おや、随分きれいにしてくれたね」
ぼんやりと窓の外を眺めるラテを、いつのまにか隣に立っていた女中が労ってくれた。一度合間に声をかけたのに、まるで気づく様子が無かったと、呆れまじりに笑われた。確かに、まったく記憶に無い。ただ、肩の後ろがぱんぱんに張って、酷使に抗議していた。
「そろそろお帰りだろう。さ、今日の手伝いは仕舞だよ。食事はすぐに用意できるから、さっさと顔と手を洗って着替えてから、食堂においで」
立ち尽くすラテから、前掛けと掃除用具を奪うと、女中はさっさと立ち去った。
食事、と聞くと、急に空腹感が高まって、ラテは切なくお腹を押さえながら急いで一度部屋に戻り、用意してくれてあった水で身支度を整えた。体は疲れきっていた。柔らかな寝台に身を投げ出したい気持ちを押さえつけて、よろよろと部屋を後にする。と、空気が動くような気配がして、アルの大きな声が聞こえた。
「戻った!」
玄関からはかなり距離がある。アルには似付かわしくないような、大きな声だった。
ラテはぴょん、と飛び上がるように姿勢を正すと、少しだけ思案した後に、足を早めた。走りはしない。万が一転んで、そこらの調度品を損ないたくはない。玄関に向かうわけでもない。ただ、食堂へ行く途中に、玄関に繋がるホールを通り抜けるから、もしかすると、少しは姿を見られるかもしれない、と思ったのだ。
結果は、大正解だった。