おはなしを、ききました
ラテには、母だけだ。記憶に有る限り、暖かい、と思ったのは母の手だけだった。暗く澱んだ嫌悪すべきたくさんの記憶の底の底に、その母の手があったから、ラテは歯を食いしばって生きてきた。
けれどその手すら、あれほど求めた時には思い出されることはなく。ラテの中には冷たく、暗いものしかなかった。
それが今、ラテの眠る寝台は暖かく、お腹は満ちて確かな温もりを持っている。
明日には屋敷に戻らなければならないから、一夜だけ。たった一度だけだけど、こんなにもあたたかなものを与えてくれたのは、あの少年。この記憶だけで、屋敷に戻ってもなんとか生きていけるのではないか。
救われた心地でラテが目を覚ましたのは、すでに日の高い時刻だった。
ラテは覚醒前の高揚から一転、蒼褪めた。
あたたかな食事をとり、寝心地のよい寝台で、若い体は常日頃極めて不足している安眠を貪った。それは、身体の疲労や傷を癒すために当たり前のこと。だが、ラテにとっては、自分に許されたことではなかった。
まして、冷たい石床に寝ている母のことを思えば、昨夜促されるままに寝入ってしまった自分を自分で殴りたい気持ちになった。
ラテのほかに、屋敷のはずれの今にも崩れそうな半地下の部屋に、だれも足を向ける者などいない。母はきっと、昨日の朝から何も口にしていないだろう。小用も、寝返りすら、できていないかもしれない。今の母の体力を考えれば、それは致命的だ。
いてもたってもいられずに、寝台から滑り出て、ラテは自分の体の状態に初めて気がついた。そして、その恩人である少年のことも思い出した。
「あーるのーと、さま」
「うん、なに?」
応えを期待しないつぶやきだったので、ラテは飛び上がるほどに驚いた。
そして、すぐさま床に体を折り畳んだ。
「ラテ?」
「もう、申し訳ありません。お名前を勝手に呼んでしまって!」
母のことも、頭から消し飛んだ。あれだけ恩を受けた人に、なんという失礼を働いたのだろうと、ラテはぶるぶると震えて顔も上げられない。
少年がそっと動く気配がして、ラテは自分のざんばらの髪に触れる手を感じて驚いた。さらには手を取って立ち上がらされた。ぎくしゃくと、促されるままに立ち上がったラテは、だが少年を見上げることはできなかった。
「ラテ、私は何も怒ってはいない。だから、顔を上げて?」
そう言って、少年が頬に手を伸ばしてきたのに、ラテは過剰なほどに体を強張らせた。不意に振り下ろされる張り手や拳骨の幻影が、いつもラテを縛り付けるのだ。それは体に染み付いた条件反射で。少年に対してラテが抱いている感情は、母に対するそれと変わりがないほど盲目的な好意ばかりとなっていたのに、治まるものではなかったらしい。
ラテはいつも、幻影に体を固まらせる。奥歯を食いしばり、目を閉じて、せめて打撃以外の被害を小さくしようと。でも決して、手や腕でかばったりはしない。それをすればさらに折檻がひどくなることを、身に染みて知っているからだ。
少年は、やはりラテを打ったりはしなかった。
ただ、黙って両手でラテの頬を挟み、そっと顔を上向けた。さすがに拒めずに、そっとラテが少年を見れば、まるで痛みを堪えているような顔をしていた。
「いい子だ。ね、ラテ。私のことは、アルと呼んで」
「え、そんな」
「アルだよ。呼んでほしいんだ」
「……アル、さま」
命じられれば、逆らうことはできない。ラテはおそるおそる名を呼んで、代わりに与えられた微笑みに真っ赤になった。
「うん。上手だ。さて、いろいろと急くのだろうけれど、まずはこれを食べて。私にも、ラテに話さなければならないことがあるんだ。しっかり聞いて、よく理解してもらいたい」
取られたままだった手を引かれ、もとの寝台に座らされたと思えば、すぐに目の前にごちそうが広げられた。
焼きたての湯気を上げたパン、数種類の果物、小さく切られた山盛りの肉に、昨夜のものとは違うスープ。
いったいこれを、何人で食べるのだろうと、目を白黒させてアルに尋ねれば、たくさん食べて大きくなって、と返された。アルはにこにこと傍らで見ているだけで食べる様子はない。
呆然と自分の細い腹と食事とを見比べていたが、急激に高まった飢餓感に、いつの間にか何も考えずに食べ始めていた。
美味しいものが、どしり、どしりと腹に積もっていくのを感じながら、そうか、とラテは気がついた。
飢えは、慣れ親しんだものだ。毎日毎日、いつもお腹がすいていた。慣れっこになっていた。それが。昨夜のスープとパンで、ラテの体は贅沢を覚えたらしい。いつもより軽いはずの空腹感が、堪え難いものに感じられているのだ。
ラテは、あっと言う間に朝食を平げた。
二人分のお茶を手ずから淹れてくれて、アルはしばらく、お茶の香りを楽しんでいるようだった。ちらちらとその姿を見ながら、ラテも真似をするように、カップを持って鼻に近づけてみた。花の香りのような、熱くてさわやかな空気がすっと鼻を通って、頭の中が澄み渡るようだった。
一口飲もうとして、熱すぎることに気がつき、そおっとそおっとソーサーに戻した。無事に置けて、ほっとすると、くすり、とアルが笑う気配がした。
「慌てないで。話の順序を考えているから、ゆっくり飲んで」
夢中だった食事時はどこかへ行っていた緊張感が、最大の振り幅で戻ってきて、ラテは息をするのすら憚られ、軽い酸欠になった。
なんのお話があるというのか、ラテにはまったく見当もつかない。
だがなんであれ、ラテの言うべきことは決まっているのだ。『助けていただいて、ありがとうございました。もう大丈夫ですので、ひとりで帰れます。このお礼は……』そこで、ラテは途方に暮れた。いったい、自分にどんなお礼を返せるというのだろう。
本来なら、主人にアルのことを伝えて、主人からお礼をしてもらうべきなのだろう、とぼんやりラテは考えた。なぜなら、ラテは主人に雇ってもらっている訳ではなく、主人の所有物らしいので。だが、主人はラテの存在を他人に知られることを忌避している。まして、ラテ自身、どんな理由があろうと、主人にアルを関わらせたくはなかった。
主人が、よいひとではないことは、ラテとてわかっていたのだ。
どうにも解決策は見いだせない。となれば、素直にお礼ができないことを詫びるべきだろう。たとえ、それでアルの怒りをかおうとも。ラテにはほかの選択肢が思いつかなかった。
意を決して顔を上げれば、こちらを見ていたアルと目が合って、柔らかく微笑まれた。それだけで、こころがとろとろになる。
「そうか。ラテにも、尋ねたいことがあるかもしれないね。おさきにどうぞ」
「はっ、はいっ」
そんな風に優先されたことの無かったラテは、頭に血が上って倒れそうになった。
「はい……あの。あの、助けていただいて、ありがとうございます。このお礼は必ずしたいのですが、どうしたらいいのか……」
「お礼なんて」
「はい、いえ、でも屋敷にはすぐに戻らないといけなくて」
「うん、後で送るよ」
「い、いえ、それはご主人様が……」
「……ラテ」
ふとアルが紅茶のカップを置いた。
「率直に聞くけど、ラテは『ゴシュジンサマ』の屋敷に住んでいるんだね?」
「……はい」
「働いているの?」
「……はい」
「……お給料、いや、対価はもらっている?」
たいか、とラテはぽかんとしながら呟いて、はい、と頷いた。なぜだかアルの表情がだんだん険しいので、どこかでいい返事をしたかった。これなら、嘘をつかなくても、少しはいいことが言えそうだった。
「失敗をしなければ、ごはんをもらえます。あと、母を追い出さないでくれます」
そのごはんも、今朝の食事に比べれば味はおろか、量も到底満腹には至らない、貧相なものだけれど。でも、命は繋げる。
ラテは心から、満足していた。
昨夜からのことは、一生のうちに一度だけの、夢なのだ。
そっと仕舞い込むように胸を押さえていたラテは、アルが一瞬眉間にしわを寄せて、すぐさま消したのを見ていなかった。
「そうか。ラテはいつからその屋敷にいるの?」
「……五年です。とても寒い日に、屋敷の裏口から入って、お湯を飲ませてもらったのが、最初です」
「覚えているの?」
「はい。それからは、ずっと覚えています。でも、それより前のことは何も覚えてません。小さかったから」
アルは、しばらく思い悩むように黙り込んだので、ラテは紅茶に口を付けたり、カップの底のかすかな茶葉の模様を眺めたりしていた。
さっきまでは胃の底がくつくつするほど焦っていたのに、話をするうちに少し落ち着いた。それは、紅茶の効果か、めったにできない人との対話の効能か。
おかげで、アルが真剣な面持ちでこう言ったときも、あまり混乱しないで済んだ。
「ラテは理解が良さそうだから、すっぱりと言うよ。よく聞いて。……ラテ、あなたはおそらく、奴隷という違法な存在にされている」
「……奴隷?」
「そう。言葉は知っている?」
「はい、わかります」
アルは、ラテの顔を見つめながら、国では雇用について最低労働条件が決められていること。ラテの様子を少し聞くだけで、その条件には到底及ばないこと。そして、そんな違法の労働を課すための存在である奴隷を、隠れて所有したり裏で取引したりする犯罪が、この数年問題になっていることなどを噛み砕いて説明してくれた。
ラテは、なぜかどこか晴れ晴れとした気持ちになって、自分で首を傾げた。少し自問して、すぐに気がついた。
どんなに頑張っても、よくなることの無かった毎日。自分が至らないせいで、母まで命を縮めている。自分を責める以外どうしようもなかった日々が、正常ではない境遇のせいだったなら。もう、自分を責めなくてもいいのかしら。そう、かすかに思ったのだ。
だが、すぐさま眼前に、暗く黴臭い部屋の影がよぎる。自我を失いかけた、痩せ細り目ばかりぎょろついた女性——。
そうだ。奴隷としてだろうが、ラテの居場所はあそこしかないのだ。鎖のように絡みつく何かから、ラテは意識を反らせながらも、逃げることはしなかった。
「教えていただいて、ありがとうございます。でも、母もいるあそこが、今の私の戻る場所なんです。母は体調を崩して自分の世話もできません。私がいないと」
「ラテ——」
「申し訳ありません、お礼もできなくて。でもきっと、ご主人様にはアル様のこと伝えない方がいいと思うんです」
「ラテ、それはいいんだ。ーーでも、ちょっと待って」
「は、はいっ。申し訳ありません!」
わずかに硬さを帯びたアルの声に、ラテは再び床にうずくまる勢いで頭を下げた。
「違うんだ、ラテ。責めてはいないよ。そうではなくて、あなたは、もうその屋敷には帰らなくていい。よければ、ここにいたらいいよ」
ぽかん、とラテは口を開けたまま、アルのきれいな口元を凝視した。
つやつやとした淡い色の唇が、キュッと口角をあげた。
「うーん、やっぱり私は単刀直入にしか話が出来なくてすまない。つまり、私のところで働いてみたらどうかと言いたいんだ。もちろん、奴隷なんかじゃなく、きちんと雇用契約を結んでね。その屋敷の人間は違法なことをしてあなたを使っていただけのやつらだ。なにも断りは必要ない。あなたのーー母御、はどうにかして救い出すよ。約束する」
ラテの主人はロクでもない人間ではあったが、その主人に頭を下げて従う人間も多かったのをラテは見てきた。悪い力をたくさん持った人だ。だから、それは叶えられない約束、ラテを慰める言葉にちがいなかった。なにより、ラテはアルに、約束を守ってほしいとは思えなかった。自分との約束のためにアルが危険に近づくことを想像しただけで、気が遠くなるようだ。
ラテは思い切り、首を横に振った。
「とても、嬉しいです。ありがとうございます。できたらお言葉に甘えたいです。ですけど、母を救うためにアル様が危ない目に遭うのは、いけません。もったいないお話ですけど、私は戻ります。いつか、いつかご主人様が罰されて、わたしが解放されることがあったなら、そのときはご恩をお返しさせて下さい。——わたし、それまでは生きます」
「——ラテ」
一生懸命に言葉を綴った幼いラテの体を、さらうように抱きしめた腕があった。