さよなら、しました
石畳に刻まれた模様のひとつひとつを覚えるほどに往復した道を、ラテは目をこすりながらゆっくりと移動していた。
油断すると、涙が視界を塞ぐ。日差しの角度は小さく、空気は茜色から紺色へじわじわと染め直されていく。地表を滑る冷気が裸足をちりちりと締めてきて、骨の芯まで引っ掻かれるようだ。
精緻な刻印に飾られた傷ひとつない石畳の継ぎ目を追っていた視線から、やがて輪郭線がぼやけて失われ、焦点の合わない影絵を見るようなあんばいになってきた。立ち尽くすうちに、足下は満潮のような勢いで闇に呑まれていく。
ラテは、細い体を震わせてため息をついた。
「もうだめ。とても見つけられない」
主人の命で、この旧神殿区に落し物を探してもう二刻近くなるが、その間ラテは一言も口を開かなかった。
初めてこぼしたのは、苦渋の深い、しゃがれた声。とても十をほんのいくつか過ぎた頃の子供が発したものとは思えない。
ラテは涙をもう拭いもせず、緩慢に空を見上げた。
星明かりで、空はわずかに明るい。だが、星は滲んで溶け出している。
頬が冷え、しずくが顎から首へと伝ったが、ラテはただ呆然と、首が折れるほどに上を向いて、立っていた。
このところ、失態が重なっている。このままでは、厳しく咎められるだろう。もしかしたら、打ち据えられるかもしれない。
「かもしれない、じゃなくて、ぶたれるよね」
ラテの左頬は少し腫れぼったく熱を持っている。先日殴られたときに口の中がひどく切れたせいで膿をもち、なかなか治らないのだ。
打ち据えられた日は食事が与えられない。痛みと腫れがひどく、与えられたとしても食べられないので、自分はそれでもいい。だが、病を得て寝たきりの母は。
「お母さんをどこかへやってしまわないだけ、旦那さまはいい方よ。だから、もうちょっと探してみないと」
もう日は暮れた。時間がかかり過ぎだと責められるのは避けられない。でもせめて探し物を見つけて戻るならば、慈悲をかけてもらえるかもしれない。
自分を奮起するために思いを巡らせるが、ラテの体は少しも動こうとしなかった。
探し物が見つかる見込みはない。自分の手すら見えなくなっているのだ。灯りも持たされていない。
まして、本当はわかっているのだ。慈悲にあずかれる望みなど、今の星の明かりほどにはかない。
「……でも、お母さんはこのところとても辛そうだもの。せめて一日一度のご飯は食べてもらわないと」
ぼろぼろと、涙と一緒に言葉は力無く闇に吸い込まれていく。
母を思っても、頑張れる気はしない。
音もなく舞い降りてくる死者の使いの翼のように、密やかに、残酷に、夜が地表を冷やしていく。腕や足や顔が冷気にひりひりと痛み、鼻を通る空気が体内の熱も奪って、頭が川船に乗ったように揺れた。手足の先から感覚は遠ざかり、もう二度と、動かないのではないかと疑わせた。
このまま、朝までここにいれば、何も考えず、お腹をすかせる事も殴られることも無くなって、自由になるだろうか。
心はそう願っていたかもしれないが、ラテの痩せた体はぶるぶる震えて縮こまり、乏しい熱でなんとか生き抜こうとしていた。
「とにかく、も、もどらなきゃ」
もう、うまくしゃべることもできない。かさ付いた頬で涙が乾いてひび割れた痛みも、よく分からなくなって来た。
「みち、見えない……」
雲に紛れた星明かりはひたすら暗い。地から足を離すのが怖くて、ラテはすり足で道の両脇に聳える石壁を探した。
足裏が石畳に貼り付いて、足を進めるたびにひどい衝撃が襲う。痛いのか冷たいのか熱いのか、もうわからないが、つらい。
ラテはがたがたと震える体を壁に寄りかからせた。そのまま、目を閉じる。
できれば、この短い人生の最期にできるならば、せめて暖かな何かを思い浮かべたかった。
そう、例えば母のあたたかな手、あるいは一杯の透明なスープ。
だが、朦朧とする意識は、暗く痛みに満ちた記憶ばかりを反芻する。その記憶は鮮やかに過ぎて、久しく味わっていない母の温もりなど、簡単に黒く塗りつぶしてしまう。
冷たさが、敵意のようだった。
石畳が、旧神殿区が、空気が、世界が、ラテをいらない、と言っている。
膝がくたりと萎え、ラテは氷のような石畳に倒れ込んだ。心の臓が止まりそうな、冷えと、寂しさ。意識の奥まで冷えて。かなしくて。
ぼんやりと、瞬いた、つもりだったが、目蓋はもう開かない。
眠い、気がした。
眠ってしまえば、何もかもうまくいく気がした。
「お母さん……」
さいごの、白い息が洩れて、ラテは世界にさよならを告げた。
◇
闇にぼんやりと、黄色い光。
目が慣れると、それはランプの踊る火であり、その横でやや下向きに書物の頁をめくる人影があることも見えてきた。
暗い色の髪の影から、すっと通った眉に、頬に濃い影を落とす睫毛、形良い鼻の下にきっちり結んだ口元が見えた。
女性か、あるいは少年か。ゆったりとした濃い色のローブを纏っているので、ラテには判然としない。いや、書物を乗せた足を組んでいるのがわかる。ローブから出た足がズボンを履いているので、少年だとわかった。
部屋には少年が頁をくる音と、灯の燃える微かな音しかしない。
体は首までホカホカとして、何度か入った公衆浴場の湯の中のようだった。
(夢、かな。いい夢)
呟いたつもりが声が出なかったので、やっぱり自分はまだ寝てるんだと、ラテはそのまま、ローブの人を見つめ続けたのだが。
意識が徐々にはっきりしてくると、気がついてしまうのだ。記憶にある限り、ぼろぼろだった自分。洗い替えがないために与えられてからは着たきりの薄い服、公衆浴場にすら数えるほどしか入ったことのない身体に、マメと傷だらけの素足。
そんな状態で、どうやら整えられた室内の、上質な寝具に入っている。それが、後になってどれほど過酷な罰となるか。
打たれる痛みと、食事を抜かれるひもじさをありありと想像できて、ラテはゆったりと伸ばしていた四肢を強張らせた。
(ううん。ランプを灯すようなお部屋だもの。高貴な人のためのお部屋だ。そんなところで、呑気に寝て……)
想像を超える罰が下されるに違いなかった。一度だけ、主人の道案内を間違えて、殴られるのではなく、蹴り飛ばされたことがある。あっと思う間に地面が視界を斜めに流れて、額と肩から石の壁に激突した。あの時は何日も高熱にうなされ、目眩が残ってひと月まともに歩けず、回復しても額にひどい痣ができて半年消えなかった。さすがの主人が、その後は蹴ることはしなくなった。ラテがあまりに脆いこと、そしてその後使い物にならないことがかえって自分の手間を増やすことに気がついたのかもしれない。
だが、今回はどうだろう。
主人は、ラテが人前に出ることを嫌う。異臭を放つはずのラテを、道案内に使う時に顔を顰めながらも馬車内の隅、荷物室に置くのはそのためだ。もしも馬車が誰かに呼び止められても、荷物の間に隠れて出てくるなと言いつけられている。
おそらくラテを助けてくれたのだろうこの少年は、きっとラテの身の上を尋ねるだろう。ラテの主人のところに知らせをやったりするかもしれない。もし、少年がラテのことを知ったとわかったら。
目を吊り上げ、額に青筋を浮かべ、口角に泡を溜める主人を思い浮かべて、ラテの強張った体が、細かく震え始めた。
(はやく。はやく戻らないと。お礼を言って、もう大丈夫だからって、ひとりで戻らないと!)
身の内からわき起こる衝動に、ラテは一度強く瞑った後、目を見開いた。
そして、目の前でかがみ込んでいた人に驚いて、はっと息を詰めた。
いつの間にか歩み寄っていた少年が、ローブを頭から外して、そっと覗き込んで来ていたのだ。艶艶と輝く暗い色の髪が、真っ直ぐに流れ落ちていた。対比を成すように煌めく明るい薄青の瞳。成長途中の細い顎から首の線が、危うい美しさを強調していた。
圧倒された。
さらに薄青の目が細められて、淡い唇が柔らかな弧を描いたので、ラテはますます、ぼうっとしてしまった。
「気がついたね。私はアールノート。君は?」
「あ、の……は、はいっ。すみません。私はラテです」
返事が遅いと、小突かれる。咄嗟に謝ったラテに、少年はそっと首を振った。
「何も謝ることはないよ。……ラテが倒れているのを、見つけたんだ。意識がなかったから勝手に運んだ。でも申し訳ないけれど今屋敷に人手がなくて、ラテのお家に知らせるのは朝まで難しい。
今はまだ夜だ。少しお腹に何か入れて、朝までお休み。朝になったら、起こしてあげるから」
寝台の横の小机には、いつの間にか、優しい湯気を立てるスープとパンがあった。
ラテはそれを見るなり、釘付けになってしまった。いつ以来の、まともな食事だろうか。恥ずかしいのに、目を離せない。よだれも出そうだ。
促されておずおずと起き上がり、手に皿を渡されれば、もう夢中で貪った。
きれいな寝台にパンくずが散らかるのも、いつの間にか手足や顔がさっぱりしていることも、痛んでいた足や頬に薬が塗られていることも、着ているのが見たことがないほど柔らかな布の服なことも、そして知らぬ間に体の強張りがすっかりなくなっていることにも、気づく余裕はなかった。
そして腹が満ちると強烈な眠気に襲われて、ラテは赤子のように、食べながらウトウトと船を漕ぎ始めた。
少年が、皿を引き取って就寝を促す。
「すべて、明日にしよう、ラテ」
まるで呪文のような。
ラテはその言葉に導かれて、すとんと夢のない眠りに落ち込んだ。