第九話 夢
史織は、庭に水をまいている。庭というにはしのびないほど、ほとんど色味がない。いかにも既製品のような砂利が敷き詰められただけの殺風景な地には、不揃いな雑草たちが集落をつくっている。
史織はそれを、いつも穏やかな気持ちで眺めている。
無作為に生まれ、生きる彼らは、ひとの手が入った草木たちよりも、野生が強いように思える。汚れても、少しくらい折れても、それは生きていくうえで大した問題ではない。そういうひたむきさが、史織は好きだった。
史織の父は、この庭の様子をそう気にしない。荒れて、どうしようもなくなったとき、やっと草刈りをするという調子だった。それだから、この庭はつねに土ごと混ぜかえしたような色を維持している。
香弥乃が、何かを植えたらいいんじゃない、と言ったことがある。そのとき史織は、しばらく「何かを植える」ということについて真剣に向き合ってみた。けれど、やはり気がすすまなかった。
史織は仕事柄、毎日のように植物を見て、育ててもいる。けれど、植物と相対することを、ときにふと重いと感じることがある。
それはなぜだろう。
理由はわからなかった。それでも、それは自分が植物を植えない理由にはなる、と史織は思う。
香弥乃は、荒れた庭や、緑がひとつもない史織の部屋を見て、意外だよね、と言った。植物に縁ある史織の部屋は無機質なのに、植物に縁遠いわたしの部屋には鉢植えがいっぱいある、と言って笑った。
それからすぐに香弥乃は、でもきっとそういうものだよね、と納得したようすだった。
ひとの気配がして、史織は顔をあげる。門扉の付近に誰かが佇んでいる。
「梅子さん」
「こんにちは、しいちゃん」
梅子は日傘をさして、門扉の影にわずかでも重なるようにして、こぢんまりと立っていた。
「ここしばらくずっと暑いわねぇ。たまんないわ、まったく」
「ほんと。暑いですねぇ」
史織は言いながら、ホースから噴く水を止め、梅子のところへ走り寄った。
「ごめんなさいね、しいちゃん。作業の邪魔しちゃって」
「いいえ、もう終わるところだったからちょうどよかった。あんまり暑いから、打ち水をしていて」
「そう? しいちゃんのことだから、草に水浴びをさせてあげていたんでしょう。今後いっそう雑草が勢力拡大するわね」
梅子は、にこにことして、けれど真面目に言った。
「ほんと、そうですねぇ」
史織は応じながら、梅子はひとのことに興味なさそうにしているけれど、よく見ている、と思う。表面的なことではない、もっと奥の、根の部分を。
香弥乃にも、少し似たところがある。本人は気づいてなさそうだけれど、と史織はほほえましい気持ちになる。
「今日、父は仕事でいなくて……もしよければ、伝えますけれど」
「ああ、ちがうのよ。今日はしいちゃんに用があってきたんですから」
「わたしに?」
史織は不思議そうな顔をする。
「そう。山の神という存在が、ほんとうにいるかどうかは知りませんけれども、それが誰にせよ」
史織は、梅子の口から突然、山の神という言葉がでてきたことに驚く。梅子は気にせず、抑揚なく続ける。
「しいちゃんが災いだと考えている現象を起こしている存在があるとしたら、それはあなたのお母様ではない。なぜかって、あなたのお母様は断じて、ひとに災いを被せるような人柄ではなかったからね」
梅子の声は、だんだんと山びこのようにふわふわと揺れてきて、聞きとりにくくなる。
史織は、音の波に思考が定まらなくなり、ぼんやりとする。旋律のような声が耳の奥に響いて、言葉が行ったり、来たり。
「わたしはね、よく知っているの。あなたのお母様を。娘のとき、仲がよかったから」
最後のほうは、繰り返し反響する音なのか、声なのかわからず、史織もその波にのみこまれ……
史織は、目を覚ます。暑い。とても。ああ、今日はとても暑かったんだっけ。
暗闇のなか、扇風機のまわる音がじぃじぃときこえる。風がそうっとすぎていく。史織は冷房のリモコンに手を伸ばして、電源を入れる。夏が過ぎたあとしばらく休んでいた冷房からは、湿ったような匂いがもれてくる。
熱帯夜だった。
もうすぐ冬になるというのに、と史織は思う。おそらく朝には、また本来の季節の気温に戻るのだろう。
いま見たものは夢だったのだろうか、と史織は考える。夢にはちがいない。けれど、ただの夢ではあるまい。