第八話 山の主
史織は、香弥乃と別れた後も考え続けていた。山の主、とは、山で権力を握っている動物のことにもとれるし、山の神の存在ともとれる。
古くから、山の神は女性であり、亡くなったひとがなるともいわれている。真偽は不明だけれど、その説はなぜかしら史織の概念のなかに根づいてしまっている。
史織の亡くなった母は、史織と同じ能力を持っていた。そして、この地に生まれ、この地に生き、この地で土に帰った。
史織は、母が山の神ではないか、と考えていた。反面、それは飛躍しすぎだろうと、自分をいさめてもいた。
しかし、どうしてもその考えが頭から離れない。最初に感じた印象というものは、なかなか消えてはくれない。
もし、本当にそうだとしたら、母がこの災いを……
史織はそう思ってから、頭をふる。これはさすがに考えすぎだ。それなのに、このからみついてくる暗くて湿ったような感覚はなんなのだろう。
その日の夜、香弥乃と梅子は、ふたり慎ましい夕食を終え、のんびりとお茶をのんでいた。ほの明るくテレビがついている。ふたりの視線は、なんとなくテレビの方角に向かっている。香弥乃は、梅子が漬けた茄子をつつく。
「ねぇ、かやちゃん。ここ最近のこの団地は、どうしちゃったのかしらね」
梅子がぽつりとつぶやいた。
香弥乃は、ふと梅子に視線をうつす。梅子はこの異常気象に大した興味もなさそうだったけれど、やはり気になっていたのだろうか。
「さあ。史織は、山の主の仕業かもしれないと言っていた。わたしにはよくわからないけど。山の主は、動物なのか、それとも神なのかって。そこが史織にとっては、とても重要みたいだった」
梅子は、香弥乃の返答に興味をひかれたようだった。
「調査はすすんでいるのね」
「さあ、どうだか。史織はあっちにこっちに、いろいろやってるみたいだけど」
それを聞いて、梅子は面白そうに笑う。それから立ちあがって、厳かに湯呑みをかかげた。
「この地の運命はふたりの娘にたくされた」
梅子は、重々しい声を出して香弥乃をからかい、さっさとダイニングを出ていった。風呂に湯を張りにいったのだろう。
ずいぶん楽しそうだな、と思いつつ、香弥乃は母を見送る。
翌日は猛暑となった。もう初冬といってもいい頃だというのに、この団地の気温は三十九度を記録した。あいかわらず、団地から一歩でると、きゅうに涼しくなる。
「暑い、というだけでは、なんの証言もとれない」
史織はぼやいた。
香弥乃は、たしかに、と納得する。
あの濃霧の日から、仕事を終えて帰宅したあと電話で連絡をとりあうのは、ふたりの日課となっている。
「こんな熱帯夜じゃ、クローゼットにしまいこんだ扇風機をまたださなくちゃいけない」
「ほんとねぇ」
史織は穏やかに返してから、ねぇ、香弥乃、と呼びかけた。香弥乃は反射的に構える。史織がこういう口調のときは、なにかある。
「なに」
「明日の夜に、また地主神のところに行ってみましょう」
「夜?」
「そうそう。だって、昼間はお互い仕事でしょう」
「それはそうだけど。地主神は、なにも話してくれないのに、また行くの」
不思議そうに返す香弥乃に、史織は熱のこもった口調で言った。
「彼はきっとなにか知っていると思う。しつこく通っていたら、なにかを思ってくれるかもしれない」
香弥乃は、唯一の手がかりだと思われる山の主について聞こうとする。けれど、何者かがそれを言葉にするのを制止しているかのように、言いだせない。史織もそれについての言及は、どういうわけか避けているという雰囲気がある。
とにかく香弥乃は、わかった、と返事をする。
ふたりは明日の夜の約束をしてから、受話器を置いた。