第七話 地主神
その家は、香弥乃が住んでいたころとほとんど変わっていなかった。外壁や屋根もリフォームした形跡はない。当時、ささくれて穴がいくつもあいていた網戸も、そのままだった。懐かしく思ったのはふたりとも同じだったようで、自然と目が合う。
「ねぇ、このガラスのひび割れたところ、史織が自転車でころんでぶつけたんだよね」
「そうそう、そうだったねぇ。ひどい風の日だった。ふたりで、自転車に乗ってどこまで風に立ち向かえるかって、必死だったねぇ」
香弥乃と史織は、同時にくくっと声をたてて笑う。
「子どものそういう好奇心への貪欲さってすごいよね」
「ほんと。事情を知った父が梅子さんに修理代をださせてほしいと言ったけれど、梅子さんがそんなものいらないって言って」
「あのときは困った。母さんもだけど、史織のお父さんも頑としてゆずらなかったよね。何時間もこう着状態で」
「たしか三時間くらい」
「はらはらしたねぇ。けっきょく史織のお父さんが根負けして、折れてくれたんだよね」
「そうだったねぇ。『この傷は、しいちゃんとかやちゃんが仲良しだったっていう大切な思い出になるから、直すつもりはありません。だから、本当に修理代なんていらないんですよ』」
史織が梅子の口真似をしてみせる。香弥乃は、全然似てないよ、と言って笑う。
梅子は、幼いころの友情がとても儚いものだということを知っていたから、こう言ったのだと香弥乃も史織も今ならわかる。今になってもふたりの関係があいかわらず続いていることは、真に幸いなことだった。
くるりと周りを見渡してみる。
ああ、ここは本当に懐かしい。香弥乃にじんわりとした感情がおしよせる。
それでも、やはり他のひとのものだとも思う。
他所のものだと知るには、ささやかなものが目に入るだけで十分だった。それは犬走りに置かれた二層式の洗濯機だったり、巨大に伸びたハーブたちの傍に放られた如雨露だったりした。それらは香弥乃が生活していたころには、なかったものだった。
家主は留守にしているそうで、勝手に入ってくれていい、とのことだった。けれど、そうはいっても他人の敷地に勝手に上がりこむのも気が引ける。玄関先で一応声をかけてから、裏山へ向かう。
母屋のとなりに納屋のような小屋がある。そのすぐ横から、背丈の低い竹がぱらぱらと生えだし、竹林がはじまっていた。
少し奥に踏み入ると、そこはもううっそうとした竹藪だった。ひんやりとした空気が、不思議そうにふたりをそっとさわる。しばらくこういう場所に足を踏み入れていなかった香弥乃は、息苦しいような気分になる。
竹林と言っても、手入れされた美しいものではない。枯れゆくもの、枝が数本を残しておれているものがほとんどの、放っておかれた竹藪だった。
史織は躊躇することもなく、群生した季節外れのイタドリをかき分けながら進んでいく。
香弥乃はよろけそうになり、すぐ近くにあった竹の節をつかむ。
ここは記憶がある。香弥乃はぼんやりと思った。幼いころ、このあたりまでは史織と来た。家のすぐ裏にあった山の、それも入口付近だったのに、この非日常的な空間に入り込んだとき、とても遠くまで来てしまったような気がした。小さかったわたしたちには、なおさらそう思えた。
でも、ここから先に進んだことはない……
つかんだ竹をみつめて、香弥乃はふと、この木は何年生きているのだろう、と考える。もう老木だろう。
それから、なにかしらの違和感が香弥乃にふれ、過ぎ去っていったような感覚がした。
この枯れ方は……
そのとき史織に呼ばれて、香弥乃はあわてて史織のあとを追う。
史織に追いつくとすぐに、草木があまり生えていない、ひらけた場所に出る。そこには、何かの儀式かと思われるような、藁をしばって立てかけたようなものが、ぽつりとあった。
「ここ?」
「そのようねぇ」
史織が淡々とかえす。
香弥乃のなかに小さな驚きがひろがる。
「わたし、昔ここに住んでいたのに、こんなところがあるのを知らなかった。どうしてだろう」
「そんなものね、きっと」
史織は穏やかに言って、リュックサックから手際よくミネラルウォーターを取り出す。史織は完全に登山家の体でいるらしい。
「香弥乃ものむ?」
「いや、わたしはいいよ。ありがとう」
香弥乃は、気温が低く、まったく汗をかいていなかったから遠慮した。
史織は軍手をした手で、落ち葉を軽く集めて均してから、とり出したシートをてきぱきと敷いた。香弥乃にそこに座るよううながす。さらにリュックサックからおにぎりやスナック菓子が出てきて、シートの上にぽんぽんと置かれた。
香弥乃は言われるがまま、腰をおろす。
史織はひととおりのものを用意し終えて、満足したようすだった。
「香弥乃はここで待ってて。わたしは今から少し話してくるから」
史織は、これも飲んで、と水筒にはいった温かいお茶を置いてから、地主神の祀られているらしい藁の場所に向かって、風然と歩いていった。
香弥乃は史織の姿をぼんやりと見送る。
遠足?
香弥乃は温かいお茶をありがたくいただきながら、思った。けれど、史織が用意してくれたものが、いちいち快適だったから、こういうのも悪くないと思う。もし、次の機会があったら、わたしも何か用意してこよう。
「どうして最初からこの道をこなかったの」
香弥乃が憤然として言った。
「冒険みたいで、なんだか懐かしかったでしょう?」
史織があっさりと返す。
香弥乃は目を細めて、史織を見つめる。
つい先ほどのことだった。史織が、帰りはこちらから帰りましょう、と言って、なんのことかという顔をしている香弥乃を尻目に、先頭をきって歩きだした。史織は来た方向とは逆の繁みに向かって、さっさと進んでいく。それがこの道に続いていた。
地主神が祀られているあの場所へは、香弥乃の旧家の北側から細い通用路がのびていて、そこから難なく行くことができたのだ。わざわざうっそうとした竹藪を抜けることはなかった。
「ここに住んでいたわたしでも知らなかった道を、どうして史織が知っているの」
香弥乃は当然ながら浮かんでくる疑問を口にした。史織は、意味深にほほえむ。
「小学生のころ、わたしが遊びにきていたときにね、香弥乃がお昼寝をしていて。ヒマそうにしているわたしに気づいた梅子さんが、ちょうど今から地の神様にお供えをしにいくからと言ったの。それで、わたしを連れていってくれた」
「なるほど」
それにしても、何年もここに住んでいたのに気づかないなんて。
香弥乃は信じがたいことだと思う。たしかにわかりにくい場所にある道だけれど、まったく見えないというわけではない。
――いや、ちがう。わたしはきっと気づかなかったのではない。気にしなかったのだ。気づいていたけれど、気にならなかった。
香弥乃はそう思いあたり、愕然とする。そういうことがいくつもあったとしたら。自分はこれまで、いったいいくつの物事を素通りしてきたのだろうか。
史織は史織で、思いつめたような顔をしてなにごとか考え込んでいる。ふたりは思い思いの思考の渦のなかにいて、しばらく言葉を交わさずに、もくもくと歩みをすすめた。
「それで、なにかわかったの」
香弥乃は心なしか疲れた顔をしている史織が気になり、声をかけた。そろそろ団地の入口にさしかかろうとしている。
「そうねぇ」
そうつぶやいて、史織は少し間をおいた。
「地主神はとくになにも語ってはくれなかった。のらりくらりとかわされてしまって」
ぽつりと口にする。
「じゃ、進展はなしってことね」
「そうねぇ。けれど、気になることを言っていた」
「気になること?」
「『山の主なら大抵のことは耳に入れているでしょうねェ。いや、むしろこの出来事の糸をひく帳本人かもしれませんがねェ』って」
山の主?
そう。
ねぇ、史織。
なぁに。
ちょっとそのあたりはわたしには無理かも。
そうねぇ、わかってる。ねぇ、香弥乃。
なに。
今までにないくらい目が細くなってるよ。