第六話 訪問
翌日、お昼近くになって香弥乃はやっと起きだした。食事をとりに階下におりていく。頑丈につくられた階段は、ふみしめても木鳴りすらしない。踏み板のすみに落ちついたほこりでさえ、香弥乃の気配をかんじても、少しの動揺もみせなかった。
香弥乃は、今日も平和な日曜日になるといいのに、とぼんやりと思った。
どこかにでかけたのか、梅子の姿はなかった。かわりに、食卓に茶碗がぽつんとふせられている。香弥乃は白飯をよそい、それからみそ汁に手をかけた。そのとき、扉があく音がして、梅子が帰ってきた。
「ちょっとしたさわぎよ」
梅子は言いながら、持っていた旧式のデジタルカメラを香弥乃にさしだした。
「なあに」
香弥乃はあわててみそ汁をすくってお椀によそってから、カメラを受けとる。画面をのぞくと、香弥乃の目にあざやかな無数のきらめきがうつった。
「虹?」
香弥乃がほうけたようにつぶやくと、梅子が機嫌よさそうに、そうよ、と鼻うたにのせる。
「もう消えてしまったけどね。ご近所じゅうで撮影会だったわ」
くっきりとしたもの、うすくかすんでいるもの、大きいもの、小さいもの。何章にもわたる音楽にも似て、それぞれの物語をひめてつらなっている。
梅子によると、今朝方から滝のような激しい雨がふりつづいていた。そろそろ危険ではないかと住民が察知して、情報ほしさに軒先にちらほらと出はじめたころ、それがわかったかのように豪雨はひいていった。すぐに暗くおおっていた雲がわれはじめた。
雨はさらさらとした霧をふいたようなものにかわり、やがて消えていった。
家々の樋や群生した草から、水晶のようなまるい珠がこぼれおちるなか、白くひかる南の空にゆっくりと虹があらわれた。
そのころの香弥乃は、外でおきている神々しい出来事など知るよしもない。すっかりねむりこけていた。
「異常気象も悪いことばかりじゃないものね。そのときばかりは、この世にあるなにもかもを信じてもいいような気になったわ。となりの奥さんなんて目をうるませていた。すごいわ、なんて。いつもの嫌味ったらしさは、どこへ行ったのやらねぇ」
梅子はおもしろそうに目をほそめた。
香弥乃は、史織はこの現象に立ちあえたのだろうか、とふと思った。
その日の午後一番で、香弥乃と史織は団地の入り口で待ちあわせる。地主神を訪ねるためだった。香弥乃の方が早くついてしまったらしく、史織の姿はなかった。周りをながめてのんびりと待つことにする。
車道をはしる車を数台見送ったところで、すぐに史織の姿がみえた。香弥乃は軽く手をふる。それから、史織の影が近づくにつれ、香弥乃は自分の目が次第にほそくなっていくのがわかった。
あらわれた史織は、冒険家を思わせる格好をしていた。生活の匂いに満ちたこの界隈に、あきらかに異質だった。
「おまたせ。遅くなってごめんなさい」
史織はいつもどおりの穏やかな声であやまる。それから、あきれ顔の香弥乃の様子に気づいたようだった。
「香弥乃、ブルテリアになってるよ」
「うん。いったいどうしたの、その格好は」
「え?」
史織は不思議そうに自分の服を見まわす。軍隊さながらの深緑の帽子に、作業服のようなつなぎ。迷彩柄の仰々しいリュックサックは何がつまっているのか、とても重そうだった。
「どこかへん?」
「うん、とても」
「そう? 香弥乃こそ、そんな軽装で大丈夫?」
史織は香弥乃の言葉など気にした様子もない。
「軽装って……」
香弥乃は自分の服装を確認する。長袖のシャツに、パーカーにジーンズ。
「竹藪に行くくらいなら大丈夫だと思うけど」
史織はそれを聞いたとたん、目を見開いた。
「だめだよ、香弥乃。なにがあるかわからないでしょう」
香弥乃は、過剰に反応する史織を見つめて、よりいっそう目を薄くする。
とにかく、雨があがったばかりでぬかるんでいるから長靴にした方がいい、と史織が切実にうったえるので、香弥乃も、それはそうだ、とうなずいて、いったん家に戻ることにする。
香弥乃はここ何年も長靴をはいていない。どこにしまったかと探していると、さわがしい玄関に気づいた梅子がやってきた。梅子はなにも聞かず、ひと昔まえ園芸用に使っていたらしい古びた、けれど機能性あふれる長靴を貸してくれた。
史織は長靴にはきかえる香弥乃を見て、満足そうにうなずいている。香弥乃は史織のその様子を横目でとらえ、ため息をついた。
ねぇ、史織。
なあに。
楽しんでいるでしょう。
え? なんのこと?
しかし、実際楽しいのは、香弥乃も同じだった。なにか目的があって、調べものをしたり、現地探索に出たりする。相棒もいる。もうずいぶん長いこと忘れていた感覚のような気がした。
せっかく香弥乃の家まで戻ってきたから、と、史織の提案で、ふたりは幼いころに通った小道をぬけていくことにする。団地から香弥乃の旧家に行く近道として、ふたりにとっては馴染み深い道だった。
コンクリートで舗装されていないこのケモノ道のような場所は、荒れ放題だった。それでも、ひとのかよった新しい気配がある。おそらく畑を耕しに向かう老人たちが使っているのだろう。
それにしても、ここを通るのもなんと久しいことか。
露をたたえて豊かにうるおっている草木たちからは、いつの時代にも変わらない営みが見える。生をうける、生きる、咲く、散る、枯れる、また生まれる。
ここは香弥乃が育ってきた土地にちがいないはずなのに、どうしてか郷愁に似た想いにとらわれる。なつかしい故郷。忘れていたのはわたしだけで、こんなに近くにいつもこの道はあったのだ、と香弥乃は思う。いかに毎日を生きるのに必死で、目の前にあることだけを大切にしてきたか、ということに今さらながらおどろいてしまう。
数歩前を迷いなく当然のように歩いていく史織。その姿が目にうつったとき、香弥乃の胸にふと差しこんできた思いがあった。それは雲間をつらぬく日射しのように、まっすぐに香弥乃を照らした。
史織のその姿は自分とはちがう。この道に注がれる優しげな目線や、土や草木を信頼して踏みしめるような足取り。史織は自分が忘れていたことも、きちんと大切にしてきたのだ。大多数のひとが生きるうちに、成長するうちに忘れていくようなことを。
一瞬のうち、香弥乃にそういう思いが去来したけれど、それは散るように消えていった。史織がふと振りかえって、「ねぇ、香弥乃」と話しかけたからだった。
「小学生のころ、よくここを通ったねぇ。香弥乃はどれくらいぶり?」
「もう何年も……それこそ十年ぶりくらい。もうあの家もひとに貸しているし、行くこともないから」
「ああ、そうねぇ。そう言っていたねぇ」
香弥乃の旧家は土地ともども父方の名義だ。離婚が決まったとき、もう小学校にあがっていた香弥乃を転校させるのを不憫に思った父方は、ちょうどその頃にできたばかりの団地に、妻と娘のために新しく家を建てた。
それから父親は遠くの土地へ出ていったから、古い家は住む者がいなくなり空き家となった。
「父方は土地も資産もあったから、そういうことができたんでしょう。お坊ちゃんだったのね」
香弥乃はさまざまな事情の苦さを、さっぱりと言葉におさめた。
史織は、香弥乃の心情をくみとったのか、ひとこと、ありがたいことねぇとうなずいた。
そのあと一年ほど、旧家は空き家となっていた。そのあいだ香弥乃と史織は足繁くかよった。梅子から掃除をすることを条件に、ふたりの遊び場として使うのを許されていた。
季節がひととおり過ぎたころ、父方のほうで取り壊しの話になった。そのとき、ひとりの物好きな老人がなぜかしら住みたいと名乗り出たそうで、いまはその老人がそこで暮らしている。
主だったことは父方のほうで処理されたので、梅子もそのあたりの経緯はくわしくは知らないらしかった。
そういう成り行きでありながら、その老人と梅子は、同じ建物に住んでいた者同士、今でもほそぼそとした親交をもっているようだった。
今回の訪問の件も、梅子が話を通しておいてくれてある。