第五話 混沌
香弥乃の家のリビングにパソコンがおいてある。梅子はでかけていて留守のようだった。
香弥乃も梅子も、そう頻繁にはつかわないので、パソコンはうっすらとほこりをかぶっている。香弥乃は電源をいれてから、かるくはたいた。それから、お茶をいれに台所へむかう。史織は座椅子にすわって、パソコンがたちあがるようすをおとなしく眺めている。
香弥乃が戻ってくるころ、ちょうどパソコンがたちあがる。さっそく調べてはみるものの、該当する記述が思うように見つからない。横でのんびりとお茶をすすりながら見ていた史織が、専門分野のことなら図書館だと、口をはさむ。
香弥乃は、史織があんまり熱心にいうものだから、避雷針についてのことは専門知識なのだろうかと疑問に思いつつ、けっきょく出かけることにする。
「今日はこんなに空がきれいだし」
史織がうたうように言った。ふたりは自転車で連れだってでかける。車もあるけれど、休日は可能なかぎり体をうごかすようにするのがふたりのあいだの無言の決めごとだった。
ここ数年で建てかえられた町の図書館は、白と深い群青が基調のモダンな外観をしている。香弥乃は建てかえられてから一度も来館したことがなかった。
史織はなれたように駐輪場に自転車をとめている。常連らしいそぶりだった。
なかにはいると、史織が専門書はこっち、と香弥乃を誘導してくれるので、あとをついていく。その途中、蔵書の整理をしているらしい男性職員に史織が話しかけた。事情を簡単に説明して、専門書のところでいいのか確認しているようだった。それにしても、その男性と史織のようすは親しげにみえる。香弥乃は、おや、と思いつつ、視線を泳がせてそしらぬ顔をする。
「避雷針というより、導雷針らしいの」
史織が香弥乃のところに戻ってきて言った。
「導雷針?」
香弥乃が聞きかえすと、
「こっちの棚だよ」
さきほどの男性が声をかけてくる。案内してくれるらしかった。史織は気がついたように、紹介をする。
「こちら、ここでアルバイトをしている飛石さん」
どうも、と言って、飛石は快活そうに笑った。香弥乃もあわてて名前をつげて、よろしくお願いしますと頭をさげる。
飛石は颯爽と科学工学の棚に案内をしてくれる。
「ここになければ、専門書のところかな」
飛石は、それじゃがんばって、と言いおいて、あっさりと去っていく。香弥乃はその姿を見送って、つぶやいた。
「なんていうか、健康そうなひとだね」
「そうねぇ。屋内は似合わないタイプねぇ」
史織も小声になって言った。紙一枚をめくる音がひびくほどに、静かな空間だった。子どもたちのいる絵本のスペースは、それでも少しにぎやかではある。専門書のコーナーが近づくにつれて、音がなくなってくる。ふたりはひっそりと資料を探して棚からとりだしては、めくってみる。これだろうかという記述はあるけれど、読んでもよくわからないものばかりだった。
けっきょくふたりは、図書館をでることにする。なんの収穫もえられなかったと肩をおとしているところに、飛石が声をかけてくる。
「見つかった?」
「よくわからなかったんです」
史織がこたえると、飛石は、そうか、と言って考えるようにして視線をおとす。
「おれも専門外だからよくわからないけど。傘なんかは導雷針になるっていうよね」
冗談めかして言った。史織はそれをきいて、なにかひらめいたようだった。史織の表情があかるくなる。香弥乃はそのようすを見て、いやな予感しかしない。
「まさか史織ちゃん、本当に実験するわけじゃないよね」
飛石はそう言って笑った。
「まさか。いくらなんでも」
史織はすずしい顔をして言ってから、おっとりと笑う。香弥乃は薄目になって史織を見つめた。それからふたりは、飛石にお礼をいって、図書館をあとにした。
「ねぇ、史織。やめてね」
「なにを」
「傘に雷を落とすとか考えてるでしょ」
「そうねぇ。いちばん身近な方法だから。木のてっぺんかなにかにくっつけてみようかと思ってるの」
史織がひょうひょうと言うので、香弥乃は目をほそめる。
「あぶないよ。雷はあきらめよう。まだ落雷の日がくるとは決まってないし」
「それもそうねぇ。その日がきたら、考えましょう」
坂道にさしかかり、ふたりは自転車をおりて押していく。
「あ、椎の実」
香弥乃が声をあげる。自転車をとめて、ひょいとちいさなつぶをひろう。
「ほんとねぇ。もうそんな季節なのね」
史織もおだやかに言って、歩をとめる。こうしてうつる季節に気をとめて立ちどまるのは、どれくらいぶりだろう。
「むかし、一生懸命あつめて、炒ってたべたね。皮をむくのにコツがあって」
「そうだったねぇ。香ばしくっておいしかった」
しかし、このところの悪天候で椎の実だけではなく、木の枝や落ち葉が散乱していて、風情があるとはいいがたい。災害のあとのあきらかなつめあとがある。ふたりは同時にしんみりとして黙った。
「ちょうどいい時間だし、うちに寄っていかない? お茶しよう」
香弥乃が言って、ふたりはふたたび歩きだした。
「飛石さんは大学院生なの。いまは三年目と言っていたから、年齢はわたしたちよりひとつ上ねぇ」
史織がたんたんとはなしだす。部屋でくつろいでいるところに、香弥乃がつい史織にきいたのだった。梅子がもってきてくれたお茶が、ほそく湯気をたてている。
香弥乃はあまりこのようなはなしを面白半分に言及したりはしないのだけれど、話題がふと途切れた拍子にうっかりきいてしまった。
「ふぅん。それじゃ、週末だけアルバイトしているのね」
「そのようねぇ。わたしはひんぱんに図書館にいくから、それでなんとなくはなすようになったの」
史織はゆったりとこたえる。香弥乃はうなずくだけにして、はなしをきりあげようとした。なんだか野次馬のようで気がひけたのだ。
「半年ほどまえに告白されたの」
史織がいつもどおりの表情でおだやかに言った。香弥乃は、ええっ、とおどろいてしまう。
「それで、どうしたの」
「おことわりしました」
ええっ、と香弥乃は再びおどろく。
「そのわりには、ふたりとも自然だったじゃない」
史織は不思議そうな顔をする。
「そうねぇ。なにかが変わったわけではないでしょう」
「それはそうだけど」
ふたりの関係という事実だけをみれば、変化はないだろうけれど、飛石は失恋したのだ。しかし、香弥乃も恋愛の経験が豊富というわけではないから、なんともいえないところがある。史織も飛石も、「大人」ということなのだろう。
「どうしてことわったの」
「そうねぇ。いまはまだ時期じゃないと思ったから」
史織はそう言って、ゆったりとほほえんだ。香弥乃は、それはマイペースな史織らしいと納得する。史織の優先順位のなかで、恋愛は下のほうにある。それは、香弥乃も同じかもしれない。
少しして、香弥乃はトイレにたった。途中、梅子が「ああ、かやちゃん、いいところにきた」と声をかけたので、少しながびく。しばらくして部屋にもどってくると、史織が真剣なまなざしで、茶器の底をみつめている。
「底になにかあるの」
香弥乃はつい先ほど梅子がくれた茶菓子の盆をおきながら、からかうようにきいた。
「ねぇ、香弥乃。わかったの」
史織が思いつめたように口にする。香弥乃は経験上、思わず身構えて、史織をみつめる。
「地主神のところにいきましょう」
「じぬしじん?」
「地の神さまのこと」
はあ、と香弥乃は気のぬけた返事をする。
「突然どうしたの」
「茶がらのおかげねぇ。このお茶、梅子さんがいれてくれたものでしょう」
史織があたりまえのように言う。香弥乃は目をじっとほそめる。
史織と梅子は、むかしからどことなく似ているところがある。香弥乃は、自分の母ながら、梅子という人物は不思議で謎がおおいひとだとおもっていた。史織と梅子は、口にだしたりするわけではないけれど、なにか得体のしれない秘密を共有しているような雰囲気がある。
しかし香弥乃はつねに、そのひとの領域はそのひとのものだと考えている。だから、たとえ身内であったとしても、そのことについて詮索をしたことはないし、その気もなかった。
香弥乃は、茶がらがことの先ゆきをしめすという、まったく新しい事態をあいかわらず受けいれられない。戸惑いをかくさず、うたがいのまなざしで史織を見つめている。
史織は、香弥乃のようすに気づいて、わかっている、というように目でせいした。
「とにかく明日、地主神のところにいってみたいの」
香弥乃はブルテリアの目になったまま、わかった、とうなずいた。
「いくのはわかったけれど、場所はどこなの? 地の神さまってそれぞれの家の土地にまつられているものでしょう。この団地の神さまっていうのは、いないんじゃない?」
史織は少し考えてから、こころあたりがある、と言う。
「香弥乃がむかし住んでいた家の裏は、いまでも少しだけ山の名残りがあるでしょう」
「うん。ほかのご近所さんはコンクリートでかためてしまっていたけれど、うちは引っ越しが決まっていたから」
「そこにまつっていたはずなの。いまでもそうだといいけれど」
史織は思案げに言ってから、でもきっと梅子さんならないがしろにはしないと思う、とひとつうなずいた。
香弥乃は、それならいいけれど、という目線を史織におくった。そして、そういえば、と思いだしたように言った。
「さっき母が、ごはんを食べていったらって言ってた。もし史織のお父さんがおそくなるなら」
史織の家は父子家庭だ。史織がまだ二才にならないころ、母親は病気でなくなった。
香弥乃の家も両親がはやくに離婚している。香弥乃は母にひきとられたから、母子家庭だ。
それで、ふたりの境遇は似ている。そういう環境も手伝って、ふたりの仲は深まったのかもしれない。
「そうねぇ。ありがたいけれど、今日は父がめずらしくお休みで、はりきってつくっていると思うの。せっかくだけれど、ごめんなさい」
史織は申しわけなさそうに言った。
ふたりは玄関にむかう。その途中、香弥乃はリビングで熱心に新聞をよんでいる梅子に声をかける。
「史織かえるから」
つたえると梅子は残念そうな顔をする。
「そう。食べるにも、ふたりじゃさみしくってね。しいちゃん、また今度ね」
「せっかくだったのにごめんなさい」
そんなやりとりをして、香弥乃と史織は玄関先にでる。
まだ早い時間なのにすでに陽はおちかけている。しめやかに藤色をたたえた空は、平坦でおだやかな毎日そのものに見える。
「今日はなにもないといいね」
香弥乃が言った。史織もこっくりとうなずく。
「ほんと。きっと今日は台風の目みたいな日ねぇ」
香弥乃もそんな気がしてならなかった。まだ史織がいうところの災いというものは続くという予感がした。
そう思ってから、香弥乃は、すっかり史織のペースにのせられているということに気づく。これではこの奇妙な現象が災いのせいだと信じているようではないか。
史織は香弥乃のようすに抜けめなく気づいて、にこにことほほえんでいる。
なに、その笑いは。
ううん、なんでもない。