第四話 迷走
翌日は強風が吹きあれていた。
家々の損傷は、昨日の雹被害につづき、当然のことながらまた悪化しそうだった。突風のなによりおそろしいのはあれこれかまわず飛んでくるところだった。屋根の瓦が、まだ築年数のあさい家のこじゃれた窓にささることはしょっちゅうだったし、簡単なつくりの小屋には売土地の看板が風穴をあけていた。
車も風にあおられて若干浮きあがっているありさまで、さすがに団地のなかはひっそりとした恐怖がただよっていた。
団地をぬけだすと、風が少しやわらかくなるのも不思議だった。
夜になって風の勢力がひいてきたころ、香弥乃と史織は例によって連絡をとりあう。
「今日は盛大に風が吹いてたね」
香弥乃が言う。史織は受話器の向こう側からゆったりと返事をかえす。
「まったくねぇ」
「風のサンプルはどうするの」
「そうねぇ。あれは実体がないから、霧のときのように苦戦すると思う」
史織は、昨日の雹もなにも語ってくれなかったの、と残念そうに言う。それから思いだしたように続けた。
「雹といえば、空気がきゅうに冷やされてかたまる瞬間というのが、実はとってもぴりぴりとして痛いらしいの。それなのに、どこかにぶつかってわれてしまったり、欠けたりするときなんかは痛みがないようなの。むしろ自分の分身ができたように嬉しく思うらしくて」
史織は、おもしろそうに少し声をはずませた。香弥乃はうたがわしげにきいている。
「彼らも生きている、というとちがう気がするけれど、でも生きているのねぇ」
史織がしんみりと言うので、香弥乃はそんなわけはないと、心でつぶやいた。八百万の神々論なら、植物や物ならまだうなずけるかもしれない。しかし、気象現象はまったく許容範囲をこえている。生きる、というのは死があるということで、彼らには死がないではないか。いや、でも生まれて消えてしまったら、それは死なのだろうか。
香弥乃はまた混乱してきて、頭をふった。そうではない。そもそも史織の世界はそういう理屈ではないのだ……
週末まで団地の異常気象は猛威をふるっていた。ある日は雪がふっていた。比較的温暖な気候の土地だから、真冬だって雪がちらつくことすらめずらしい。ところが今はまだ晩秋だ。
また、ある日は朝がこなかった。一日じゅう、夜中だった。たしかに太陽はでているようにみえた。しかし、地上からみて小規模の、底なしに思えるくらいもったりとした厚い雲が、太陽のまえからまったく動かなかった。そこを自分の場所だとすっかり決めこんでいるようだった。これにはさすがにみなおどろいた。なにかがおかしいと、団地の住人たちは口ぐちにささやきあった。
史織は異常気象のたびに関係者、つまりその気象現象たちから証言をとることに奔走していたけれど、ほとんど世間話でおわるらしく、収穫はなさそうだった。けっきょくなにもできないまま、週末をむかえた。
「五里霧中とはこのことねぇ」
史織はめずらしく投げやりに言った。
今日は秋らしくすっきりと晴れて、空はどこまでも青く、すんでいる。
香弥乃と史織は団地のなかをのんびりと散歩しているところだった。
子どもたちのあかるい声があちらこちらからあがっている。ひさしぶりに外で遊ぶことができてうれしいのだろう。
井戸端会議をしている中年の奥さまがた。
どこかの家から出かけていく車のドライバーは煙草の吸殻を路面に投げすてる。
庭にでて草木の剪定をしている高齢の男性は玄関に向かってなにごとか怒鳴った。
香弥乃と史織は知った顔に会うと軽く会釈して挨拶をする。そのたびに二人は笑顔をつくらなければならず、なんだか落ちつかないね、と言いあった。
この団地には公園が四か所ほどあって、遊具がある公園は子どもたちに人気がたかく、休日の昼間はとてもいずようがない。それで二人は、団地の一番はしにある、ベンチと広場があるだけの閑散とした公園に腰をおちつけた。
「なんていうか、混沌としているというか」
香弥乃がつぶやくように言うと、史織も相づちをうった。
「つかれちゃったねぇ」
もともと、この団地は景観整備地区ではないから、当然のように家のかたちや色はさだめられていない。そのせいか、雑然としてみえる。
山をけずってこのニュータウンができてから十五年ほどたった。いまでは、ほとんどの区画が、さまざまな様式の家で埋めつくされている。周辺が山々や田園ばかりという、のどかな土地柄のせいか、この団地だけ人間くささがあつまっているようで、みょうな閉塞感さえ感じることがある。
それは香弥乃と史織の共通の認識だった。
「ねぇ、あの家のおばあちゃんったらねぇ」「えー、そうなの」「あんなにいいところに決まったの。すごいじゃない」「そんなにはしったらあぶないだろう」「うるさいっ、静かにしなさいっ」「おい、なんだこれは」「ママー」……
団地の喧噪をながめていると、ひとの思惑や感情があつまると、こんなにも息ぐるしさを感じるものなのだと思わずにはいられない。
とくに意識したわけではないけれど、二人は自然と押しだまった。ぼんやりと、とりとめのないことを考えていると、侘しさをはらんだひとすじの風が、芝のうえにおちた枯木をゆらした。
「闇、かあ」
香弥乃はぽつりとつぶやいた。
かぎりなく濃い水煙のようなあの霧をみた朝、たしかに思ったのだ。ああ、これはひとの闇だ、と。
史織はだまっている。しばらくのっぺりとした時間がながれた。突然、史織が落ちついた声音で言った。
「避雷針をつくろうと思って」
香弥乃は冷静に史織をみつめて、どういうことか無言で説明をもとめる。
「この調子だといずれ落雷がはげしい日がくる気がするの。雷を集中的に集めることができたら、話をしやすいかもしれない」
香弥乃は少し考えてみて、それはそうかもしれないけれど危険すぎやしないかと口にしようとする。しかし、すでに史織は立ちあがり、歩きだすところだった。
香弥乃もあわててあとをおう。
「図書館?」
香弥乃は聞きかえした。史織は、資料を調べるのなら図書館へ行くと言いはる。
「どうして。インターネットで調べればあっというまでしょう。史織のこだわりは知ってるけど、効率を考えると」
香弥乃の言葉に史織はうーん、とうなった。葛藤しているらしい。
史織はインターネットという世界に嫌悪感をもっている。その徹底ぶりはなかなか極端だ。香弥乃のほうは、史織の言い分もわかるけれど、利用できるものは利用したらいいという考え方だから、調べものは基本的にインターネットですませる。
史織は人生最大の決断をせまられたような深刻な顔をして、わかった、とうめくように言った。決意のまなざしだった。香弥乃はあきれて目をほそめる。
そんな大げさな。
大げさなことでしょう。
インターネットを利用することが?
そう。