第三話 雹
翌日は水曜日だった。仕事がひけたあと、町の中心部にあるファミリーレストランへ向かう。このさびれた町にぽつんとやってきたこの店は、町人のいこいの場所になりつつあった。昼夜問わずいつも混みあっている。
この日は平日のせいか比較的すいているようだった。店員に待ち合わせのむねを言いおいて、香弥乃は史織の姿をさがす。窓ぎわの席にみつけて、近づくと、史織はかるく手をふってみせた。香弥乃もならう。
「ごめんね、遅くなった。史織、はやかったね。今日はいそがしくなかったの?」
「そうねぇ。今とりかかってる仕事は、いそがしさにムラがあるから。香弥乃は残業ね」
「そう。なんだかんだで、やらなくちゃならないことがたまっちゃう」
香弥乃は席につくなりさっさとメニューをひろげて、ひと目みてすぐに注文するものを決めたようだった。史織は、これもおいしそうねぇ、などとつぶやきながらゆったりと選んでいる。
ようやく決まって、注文をする。しばらく二人は会社のことや身内のことで話に花を咲かせた。夢中になっているところに、ふと香弥乃は思いだす。
「ところでどうしたの。史織が仕事中にメールをくれるなんて、めずらしい。昨日のこと?」
香弥乃は話題をかえることが苦手で、いつもつぎめが不自然になってしまう。いまの切り替えもうまくなかったと自分に小さく後悔しているところだった。
史織は気にしたようすもなく、ああ、そうなの、と言ったとたん、表情がかげった。少しの間ができる。慎重に言葉を選んでいるようだった。そして、おもむろに口をひらいた。
「昨日、いろいろとやってみたの」
「いろいろ?」
「つまり、あの霧と意思疎通をはかったってこと。コンタクトはとれたんだけれど、けっきょくなにもわからなかった」
香弥乃はそれをきいてすぐに昨日のあの瓶を思い浮かべた。それだとしても、まったくクエスチョンな話だった。とりあえずひととおり聞いてみることにした。
「それで、もっと調べなくちゃいけない。そのためにはもっと資料が必要だけれど、なにをどうしたらいいのかわからなくて」
史織は絶望的だというように声をおとした。香弥乃のほうは、頭をかかえた。
「ねぇ、史織。わたしにはなんのことだかさっぱりわからない。いや、わかる。わかるけれど、理解がついていかないっていうか」
史織は気がついたようにああ、とうなずいた。
「そうねぇ。香弥乃にとってはそうだと思う。つきあわせてごめんなさい。信じてくれなくてもいいの。でも、香弥乃に協力してほしいの」
うったえる史織のまなざしは切実そのものだった。香弥乃は苦しそうにものごとの整理にかかる。
「いままであいまいにしてきたけれど。史織はものの――自分から意志を表現しないものたちの言葉がわかるの?」
「言葉というとちがう。伝わるというほうがあってると思う」
それから史織はそのことについてわかりやすいように丁寧に説明してくれたけれど、香弥乃は相づちをうつのが精いっぱいだった。
史織は昔から、現実的な香弥乃とは逆で、どこか現実ばなれした不思議なところがあった。それだから、今回のことも衝撃というほどではないけれど、香弥乃にはとうてい理解しがたいものではある。
香弥乃はともかくうなずいて、わかった、と小さく言った。
「そのあたりのことはくわしく聞くのはやめる。わたしが心底わかるとは思えないから。つまり、神道の八百万の神々論に近い考え方でしょう」
史織は香弥乃のその言葉をじっくりと考えてから、うん、それでいいと思う、とうなずいた。それから、「そのもののことをはっきり知りたいと思うと」 と続ける。
「ものすごく体力をつかうの。その対象にふれるのが一番いいけれど、今回は霧だったから」
史織はそう言ってつかれたようにため息をついた。香弥乃は、とにかく話をすすめなければと、いくつかある疑問を口にする。
「そもそも、その災いとやらはどこからでてきたの」
「そうねぇ。この団地ができるとわかったときだったと思う。突然、ほんとうになんのまえぶれもなく、とんでもなく重たい不安をどっしりと感じたの。そうしたら、おやめなさいっていう声が、ひたひたとひびいてきたの。ほんとうにこわかった。そのときのわたしは、対象にむかってとくに意識をしてなかったから、いったいなにがわたしに伝えかけたのかわからなかった。それは、いまでもわからないまま」
まったくまるで、荒唐無稽の小学生がかいた脚本のようなはなしだと香弥乃は思う。
「史織、ごめんね。わたしにはやっぱり理解できない。根拠の根の字もないし。それに、今日はなにもなく平和な一日だったでしょう。史織の思いすごしじゃない?」
香弥乃はすっかりとりあう気をなくしている。
史織はそんな香弥乃のようすを見ても、おっとりとかまえている。
「でもねぇ、香弥乃。今日はまだ終わってない」
史織は意味ありげな言葉を口にした。
その声は、地中にもとどくかと思われるくらい、深く、重々しかった。史織の声ではないように。
香弥乃は思わず史織を見つめる。先ほどまで細めていた目を、まんまるとどんぐりのように見ひらいて。
史織はいつもどおりおだやかな表情をうかべている。
香弥乃はほっと息をついた。
そのときだった。
不穏な音がとどろいた。上だ。なにかがいきおいよくぶつかって、金属がこすれるような音。それをかわきりに、何度も何度も大小さまざまな音がひびきわたる。店内がざわつきはじめた。
香弥乃と史織は窓の外の光景に釘づけだった。
かたまり。空からおちてきては、地面にたたきつけられて、ごろごろところがる。ひとつぶの大きさは、大きいものでこぶしほどにみえた。すっかり陽がおちた暗闇のなかに、店舗の灯りが反射していて、その姿を確認できた。それが雹だと気づくまで、二人はしばらくかかった。
「あれは雹だね?」
香弥乃はぼう然と、確認をするようにつぶやいた。
「そうねぇ。たいへん」
史織はまばたきをして、ちっともたいへんではなさそうにゆっくりと言った。落ちつこうとしているらしかった。
「この場所でこの調子なら、あの団地はもっとひどいことになってると思う」
史織はぞっとするようなことを言ってから、息をひとつはいた。
「はやくなんとかしなくちゃ」
「あなたはあくまでこの現象がその災いだと信じているのですね」
香弥乃は狂言さながらの抑揚のない声で、ぽつぽつとつぶやく。
史織は、もちろん、とうなずいた。
少しざわついていた店内はすぐにおさまり、いつものようすにもどっていた。人の反応とはそんなものだ。だれもが日常を日常として、かたくなに過ごしていたい。それをのぞんでいる。けが人はいないようだった。ほとんどのつぶが小さいものだったから幸いだった。
雹がおさまるのをまってから、二人は店をでる。史織が地面にころがっているつぶを、そうっとつまんで、また例の瓶にいれる。ことん、と音がした。香弥乃はわかってはいても、いちおう聞いてみる。
「どうするの、それ」
「サンプルです」
まったく科学者みたいなことを言う。香弥乃はため息をついた。
「ねぇ、ところで昨日の霧はなんて言っていたの」
香弥乃の質問に、史織は少し考えるそぶりをみせてから応じる。
「自分はよばれたからきただけだって。なにに、と聞いたら、さあ、って。よくわからなかったの」
ふうん、と香弥乃はつぶやいた。科学的に霧の発生条件をみたしただけではないのかと思うけれど、史織の言うことはまったく別の、ちがう次元のはなしなので、香弥乃はますます混乱してくる。史織の言っていることを受けいれてしまえばいいのだけれど、それにはまだ時間がかかる。しかし、そうしなければなにも進めないだろう。
香弥乃は自分をだますしかなさそうだと決意をして、それを史織につたえる。
史織は、それでまったくかまわないとおだやかにほほえんだ。
香弥乃は真面目ねぇ。
だって史織に失礼でしょう。
そう? 信じろっていうほうが無理なのはわかっているし、あきらめているから、いいのに。
そういうわけにはいかない。とにかく信じているふりだけれど、それは許してほしい。
うん、もちろん。
二人は家路につく。団地の惨状にあっけにとられながら、いつものわかれ道で、ふた手に別れた。この瞬間、いつもそれぞれが孤独になる。
香弥乃は、ごろごろと透明なかたまりがひしめきあっているアスファルトを注意深くふみしめていく。ふと枇杷の芽のことを思いだし、気になって足早に家へ向かう。
枇杷の芽は無事だった。まわりにはいくつも氷のかたまりがころがっている。何度かぶつかったにちがいない。香弥乃はあわてて、日差しにあたりすぎてぱりぱりになったポリバケツをもってきて、すっぽりとかぶせた。こころなしか芽もほっと息をついたように思える。
未だぱらぱらとふりつづけるかたまり。香弥乃はバックを頭上にもちあげたまま、急に不安になる。ほんとうに人の叡知と科学をこえたものの仕業なのだろうか……