第二話 濃霧
それから一週間ほどすぎた朝。
香弥乃は梅子の声でうっすらと目をあけた。この体の重みは、まだいつもの起床時間には余裕があるはず。香弥乃は自分の体内時計を信じている。
時間を確認すると、やはりいつもより三十分ほど早かった。
「かやちゃん、起きなさいな。外、出られないから。はやめに会社に電話したら」
梅子が部屋の扉をあけて、普段どおりの口調でつげた。
香弥乃は、起きたばかりで頭がのんびりと動いているので、言葉の意味がとっさに判断できない。聞きまちがったかと思い、母の言葉をゆっくりと繰り返してみた。
外に出られない。
香弥乃は言葉とその事態がつながらない。出られないって、それはいったいどういうことだろう。
「なにごと?」
「外に出てみればわかるわよ」
梅子が落ちつきはらって言った。
香弥乃は言われたとおりに階下に向かい、玄関の扉を開ける。それから、なるほど、と思う。
これは濃霧だ。
玄関のポーチに立った香弥乃は、さらに驚く。あまりの濃さに自分のつっかけを履いた足先すらも見えない。手を伸ばしてみる。二の腕あたりから、その幻想的で深淵な白さにすいこまれるように消えていった。
香弥乃は「なに、これ」とつぶやく。未だかつてみたことがないくらいの深い、深い……
これは闇だ、と思う。あかるい色をしている闇だ。
香弥乃はそう思うとぞっとした。
家のなかに戻ると、梅子が気づいてタオルを持ってきてくれる。
「かやちゃん、あなた霧だからって油断しちゃいけない。飛沫みたいなものだからね」
香弥乃は自分の髪や服がしっとりぬれていることに気づく。そうか、不覚だった。
梅子のはなしによると、おそろしいほどの霧の濃さはこの団地周辺にかぎったことで、となりの地区などはうすく霧がかっている程度らしかった。自治体に警察から連絡がはいり、霧がうすくなるまでは、自宅待機と指示がでたらしい。
こんなことははじめてで対処に困っているんでしょう、と梅子は他人ごとのように言ってから、味噌汁をすする。おや、今日のはしっかり出汁をとったから、異常においしくできたわ、とうれしそうに言う。
梅子はすでに勤め先に連絡をしたらしい。
とにかく香弥乃も会社に連絡をいれ、事情を話した。今日は急ぎの仕事はなかったはずだったから午後からでも問題ないと、ひとりうなずいた。
思わぬところで空いた時間。外のあのようすでは懐中電灯の力をもってしても、安心して歩くことすらむずかしそうだった。
梅子は台所に立って、鼻歌をうたいながら朝食の片付けをはじめている。香弥乃も部屋に戻ろうと二階へつづく階段に向かった。
朝方しそびれてしまった坐禅をすることにする。
香弥乃は深く息をすってから、体勢をととのえた。いつも、この姿勢になるたび、これは坐禅をしているふりなのだと思っている。本当に修行をしているひとは、いまの自分がみえているものとは、まったくちがうものを、みているのだろう。それでも、香弥乃はこの時間が好きだった。
外は、しんと静かだった。
だんだん自分と、自分のまわりをつつむ空気がはなれていくのがわかる。水面がこおりつく瞬間のような、ぴりりとした緊張がおとずれる。
「かやちゃん」
遠くから呼ぶ声がする。
「かやちゃん、しいちゃんが来てくれたわよ」
突然の母の声に、香弥乃はふっと戻ってくる。そして、母の言葉をひとつひとつつなぎあわせてから、ええっと驚く。
史織が?
香弥乃はあわてて下におりていく。
史織は着ていた羽織をぬぐところだった。
「おはよう、香弥乃」
と、ずいぶんのん気に言うので、香弥乃もおはようと返す。言ってから、いやいやちがうと首をふる。
「史織、外のあの状況で歩いてきたの? あぶないよ。自宅待機っていわれたのに」
史織は不思議そうな顔をする。
「うん。だから、懐中電灯をつけて、雨合羽をきて、注意深く歩いてきたの。香弥乃もきっと家にいると思って」
ああ、あの派手な色の羽織ものは雨合羽だったのかと、香弥乃はやっと思いあたる。
史織にはこういうところがある。だめだと言われても、自分で考えて大丈夫だと納得すれば、型をやぶれる。正しいと考えれば法だってやぶりかねない。もちろん、常識だと思われる範囲のうちだけれど。
史織のすごいところは、それがなかなかできることではないということを、自分で気づいていないところだ、と香弥乃は思う。
史織のほうは、香弥乃のことを、ふだんはそう感じないけれど、芯から真面目なところがある、と考えていた。それは香弥乃の素直さからくるもので、とても好ましいことだと思った。
とにかく、香弥乃は史織を部屋へつれていくことにする。階段をのぼる途中、梅子が声をかけた。
「しいちゃん、昨日ミートボールをつくりすぎちゃってね。よかったら、持って帰って。玄関に置いておくから」
「いつもありがとうございます、梅子さん」
史織はうれしそうにこたえた。
梅子は昔から「かやちゃん」「しいちゃん」と呼ぶ。それは二人がそれなりに年を重ねても、変わらない。本人たちは、成長すると少し格好つけたくなり、「香弥乃」「史織」になって、それが定着してしまった。
史織は香弥乃の部屋に足を踏みいれてから、じっと耳をすませるようにして、まばたきをした。そして、窓台のはしに鎮座しているサボテンの鉢に視線をそそぐ。
「香弥乃、坐禅をしてた?」
「え、わかった?」
史織はうなずいて、
「空気がキンって、冷えているから。ほら、サボテンさんも緊張してる」
と言う。それから、ゆっくり座ぶとんのうえに座った。香弥乃はサボテンの鉢をちらりと見て、そう、とつぶやく。
香弥乃は、史織のなにやら現実的ではない感覚をあまり信じていない。史織というより、世のなかのスピリチュアルなこと、実体のない力や存在なんかは、話をきいているだけで、目が細くなってくる。
それなのに、坐禅をくむのが日課なのだから、ほんとうに矛盾していると、本人なりに不思議に思うことがある。
史織は、自分のそういった非現実的な発言や行動によって香弥乃に冷たい目を向けられても、とくに気にしたようすはない。香弥乃がそういうひとだということをよく知っているからだった。
香弥乃、目が細くなってるよ。
ああ、うん。ごめんね。
「ところで、どうしたの。こんなときにわざわざきてくれるなんて、なにかあったんでしょ」
気を取りなおして、香弥乃は聞く。玄関であったときから史織がめずらしく思いつめた表情をしているのが気になっていた。
史織はゆっくりとうなずいた。そして、慎重に言葉にした。
「わたし、すぐにぴんときたの。今日の濃霧は、はじまりだと思う」
「はじまり? なんの?」
「この団地がみまわれる災い」
はあ、と香弥乃は間のぬけた返事をする。
災い。
「そんな大げさな。よくいわれる異常気象っていうやつだと思うけど」
香弥乃の軽い調子の言葉に、史織はちがうと首をふる。
「わたし、ずっと前から、こういうことになるって知っていたの。この地が団地になるってわかったときから。とにかく、もしほんとうにはじまってしまったとしたら、それはもう仕方ない。どうにかしなくちゃいけない」
史織は興奮しているわけでも、あせっているわけでもなく、とても冷静に見えた。史織のなかでは、それが真実で、現実だということは、香弥乃にもわかった。けれど、香弥乃の目は細くなってくる。
災いがはじまる。それを昔から知っていた。それこそそんな根拠のないことを、ああ、そうなんですかと簡単に肯定はできない。
「香弥乃、また目が細くなってるよ」
「うん、そうだね。史織がわけのわからないこと言うから」
「そうねぇ。でも、ほんとうのことなの。信じてくれなくてもいいから、協力してくれる?」
香弥乃はぽかんと口をあけた。
「協力って? もし、ほんとうに史織の言っていることが事実だとして、わたしたちにできることがあるってこと?」
史織はおっとりとこたえる。
「そうねぇ。それはやってみなくちゃわからないけれど。それでも、なにもしないよりはいいでしょう」
香弥乃は、あきれて史織を見つめた。史織はそんなことは気にもしていないようすで、すずしい顔をしている。
ねぇ、香弥乃。わたし思ったの。
なに。
目を細めるときの香弥乃、ブルテリアにそっくりねぇ。
ブルテリア?
そう。ブルテリアっていう犬。
犬。ああ、そう。
その日、史織は、お昼ちかくになって霧がうすくなったころに帰って行った。
帰りぎわ、史織はポーチに出ると、忘れてたと小さな声をあげて、バックから透明な空き瓶をとりだした。そのまま腕をいっぱいにのばして、なにかをすくうように瓶をふる。そして、すぐにふたをしめた。
史織のそのようすを、香弥乃は不思議そうにながめていた。瓶のなかは空にしかみえない。まさか、そこに霧という気体がはいっていて、それを調べるつもりだとでもいうのではないだろうか。いや、まさか。
香弥乃はまた薄目になっていることに気づいて、いけない、またブルテリアになっていた、とすぐに自分をいさめた。