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第一話 はじまり

 その朝、目を覚ましたとき香弥乃は、あれ、と思う。なにかが、変わった。

 起きあがって、ふとんを畳んでいるときには、気のせいのような気もした。しかし、坐禅をくんでいるとき、やはりなにかが昨日とはちがうと、ぼんやりと頭のすみに響くものがある。

 その生じたらしい変化は、感覚的なものなのか、物理的なものなのかどうかも、わからない。

 坐禅のあと、空手の形をするのが、香弥乃の起きぬけの習慣だった。形が終わるころ、やっと寝起きのもやが晴れてくる。そのまま、いつもどおりたんたんと仕事に出かける支度をしているうちに、香弥乃はその感覚のことを忘れてしまった。


「行ってきます」

 香弥乃が台所に向かって声をかけると、香弥乃の母、梅子の声が、廊下をこだまして響いてくる。

「ちょっと、かやちゃん。急ぐのはよくない。事故になるからね」

「はいはい。承知しました」

 香弥乃は小さくつぶやいてから、玄関を出る。

 ポーチに立ったとき、香弥乃は再び、あれ、と思う。

 ポーチのわきに、薄雲色の石で囲われた一画がある。梅子がはりきって花壇をつくった跡だった。熱をあげていたころは、季節折々の草花でにぎわっていたその場所も、いまではすっかり荒廃してしまい、すきま風だらけの土と雑草が生えているだけ。そう思っていて、しばらく気にとめなかった。

 その花壇だった場所に、違和感の正体を見つける。

 草と草のかげに、木の芽がひょこんと生えている。木の枝先がそのまま土に埋もれているような芽。

 いつのまに。

 その存在に気づいたのは、いまがはじめてだった。

 どうしてこんなところから。

 香弥乃は少し考えてから、あ、と思いあたる。

 でも、まさか。

 たしか初夏のころだった。梅子が近所から瑞々しい枇杷の実をもらってきた。香弥乃はそれまでどうしたわけか枇杷に縁がなかった。そのときに初めてその実を見た。梅子が真面目な顔つきをして、今日がいちばんの状態だと見てわかる、食べるなら今日しかない、と脅迫のようにすすめるので、香弥乃はこわごわと枇杷をほおばったのを覚えている。

 あとには、ころんとしたかわいらしい種が残ったから、見つめているうちに遊びごころがわいて、つい土に埋めたのだった。

 そのときの芽よりほかに考えられなかった。


「ということは、枇杷の芽なのねぇ」

 史織がつぶやくように言って、ちょこんと生えた芽をいとおしそうに見ている。香弥乃にも史織のその気持ちがよくわかる。

 史織と香弥乃は、ものがわかるようになったころからの付き合いだった。ふたりが生きてきた歳月の半分以上は、時間を共有していることになる。それだから二人のあいだの空気はつねに自然に流れている。世間では幼なじみというらしい。家が同じ団地内のため、幼いころからいつも一緒にいた。その習慣がぬけず、お互いが社会にでた今でも、予定がない休日はどちらともなく会うのが常だった。

「今年の夏を越したってことでしょ。たしか日照りが続いたときもあったと思ったけど。水もやらなかったのに、どうしてだろう」

 香弥乃が不思議そうに言う。

 この年の夏は猛暑日が多く、雨も例年より少なかった。夏場はそのせいで農作物もふるわなかった。母の梅子が、これじゃモヤシしか買えないわ、とぼやいていた記憶がある。

「そうねぇ。芽がでるときって、それぞれの条件がととのったときなの。発芽に適した気温になったり、栄養の加減がちょうどよかったり。ほかにももちろんいろいろなことがあるけれど。きっとタネが、あれ、って思ったのね。もうそろそろかも、もうでなくっちゃって。それで、ぽって、でたのね」

 史織が芽のまわりの雑草たちをつみながら、おだやかに答える。

 香弥乃もまねて、草むしりをはじめる。

 史織は農業の研究センターに勤務している。交配させて新種をつくったり、農薬使用を最小限におさえることができるよう強い品種を研究するという業務をおこなっているので、作物のことには多少の心得がある。

 もっとも、史織はそういうことを積極的に話したがる性質ではなかったから、香弥乃もその業務について、くわしいことは知らなかった。

「ふぅん。それじゃつまり、ここがそれくらい居心地よかったってことかぁ。ねぇ、きっと芽を出すとき、ものすごい力をつかったんだろうね」

 香弥乃は感心したように言ってから、再び芽を見つめる。ずっと見ていたって、あきない。

「そうねぇ。きっとものすごい力。一気に放出して地上にでてきたのね」

 史織がしみじみと相づちをうつ。

 この芽に満ちるエネルギー。芽を出す。それほどまでの力をつかって、どうして植物は芽を出すのだろう。本能にほかないけれど、しかし、どんな植物も、なにか使命のようなものを抱えている気がする。史織がそのようなことをぽつぽつと話すと、非科学的なことはいっさい信じない香弥乃も、めずらしく同調した。

「わたしもそんなことを考えてた。史織のわけのわからない感性にうなずけるくらい、この芽の存在は偉大なことだと思う」

 二人はしばらくまた芽を見つめる。


 ずっと見てられるね。

 うん、ほんと。

 かわいらしいねぇ。

 ねぇ。


 実際、枇杷は比較的発芽しやすいといわれている。この芽の発芽も決してめずらしいことではなかった。

 しかし、そんなことは二人にとってはどうでもよかった。ささくれ立っていた心が、この芽の存在を知っただけでつやつやとまるくなったような気がする。この芽がもたらす平穏はとても尊い。

 ふたりは、思いもよらなかったところで命を授かったような気がして、不思議な気持ちになった。それは、親心というものかもしれない。


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