5 闇の内通者
宮殿の中庭は、見事な芝生と植え込みに季節に応じた花々が咲き誇り、美しい絵画のような様相をなしている。
週に一度、この庭園を散歩しながら菜園の野菜や果物を収穫するのが女帝ダイナの楽しみである。
しかし、今日は違った。ダイナは石畳の小道を軽やかに歩きながら、フワリと護衛の青年に振り返った。
「ねえ、アルス……」
「はい」
「私に隠し事してるでしょ?」
それまでご機嫌だった筈の女帝の顔からは笑みが消えている。
「いつ話してくれるか待ってたのに。……どうして何事も無かったかのように振る舞えるの?」
アルスは顔を顰めて天を仰いだ。やはり知っている。隠し通せることなど出来る筈もないのだが、何も今、ここで自分に聞かなくてもいいではないか。
「お父様から口止めされているの?」
「……」
「分かったわよ」
ダイナはプイと踵を返し、本来の散歩道とは異なる方向に歩みを進め始めた。その先には北の兵舎がある。
「陛下! そちらは……」
アルスは焦ってその後を追う。
「何? たまには兵士達の顔を見てもいいでしょ?」
ダイナはスタスタと歩いて行く。本当に急いでいるなら歩く必要などないのだが、どうやらアルスについて来て欲しいようだ。
アルスは助けを求めるようにキョロキョロしながらその後を追うが、こんな時に限って誰も気付いてくれないものだ。すぐに北の兵舎に到着してしまった。
兵舎からは次々と遺体が運び出されていた。担架に乗せられて毛布で覆われてはいるが、一見してすぐにそれだと分かる。
「……ねぇ、どうして私に知らせが来ないの?」
何処まで知っているのだろう。アルスにとって、この女帝の能力は強大すぎて想像すら出来ない。
額に汗を浮かべて、必死に言い訳を考える。
「……昨夜の賊による襲撃については、フィアードの分析でおおよその検討はついたので……」
「でも、報告くらいあってしかるべきでしょ?」
「……そうですね」
彼女の姿を見て恐縮する家人達を尻目に、ダイナはズカズカと兵舎に入り込み、階段を上がる。
その先には、あの大部屋がある。
「陛下! いけません!」
アルスは回り込み、大部屋の扉の前に立つ。これだけは見せる訳にはいかない。
「どいて、アルス」
何か気になる事があるのだろう。ダイナの色違いの双眸は扉の向こう側に向けられている。
「どきません!」
「どきなさい!」
ダイナの気迫にアルスは完全に気圧され、渋々扉の前から下がった。
ダイナの手が扉に掛けられ、血塗られた部屋が視界に広がる。
この部屋の遺体はもう運び出されているが、おびただしい血痕はそのままだ。そして何よりも……。
「……陛下……」
ダイナは食い入るように部屋の中央を見ている。その顔からはどんどんと血の気が引いて行き、やがて彼女は自らを抱き締めてその場にうずくまってしまった。
「陛下……、大丈夫ですか?」
アルスが戸惑いながら、その肩に手を触れようとした。その手が触れそうになった瞬間、ダイナはガバッと身を起こし、怯えたような目を向けた。
「……あ……アルス……」
何を見てしまったのか定かではないが、その目には明らかに男性に対する恐怖がある。
アルスはこの場にサーシャがいないことを呪った。他にも女性の影を探すが、出入りしているのは男ばかりである。
「陛下……、もうよろしいですか? 戻りましょう」
とりあえず声を掛けてみると、急にダイナの姿が薄れ、フッと消えてしまった。
「……あっ……!」
まずい、転移されてしまった。アルスは慌てて部屋の隅にある伝声管に駆け寄って紐を引いた。
『何事だ』
ダルセルノの声だ。アルスは朝顔型の口に怒鳴りつける。
「アルスです。陛下が消えました!」
しばらくゴソゴソと何か調べる音が聞こえ、再びダルセルノの声が聞こえる。
『……そこは北の兵舎の大部屋か! 何故そこにいる!』
ダイナの散歩コースとは違うではないか! と怒鳴りつけてくる。
「陛下がどうしてもと仰ったので……!」
『馬鹿者!』
だからと言って、連れて来ていい訳がない。
「申し訳ありません!」
こうなってしまってはアルスは自分ではどうにも出来ないことを知っている。素直に謝るしかないのだ。
ダルセルノは溜め息をついた。何人たりとてダイナの要求を完全に却下することは出来ないことは分かっている。
『……仕方ない。フィアードに探させる』
◇◇◇◇◇
夕陽を受けて金色に輝く石造りの宮殿。その北の塔の屋根の上に、一人の少女がぼんやりと座っていた。
自分が見てしまった事が怖くなり、平静を保てない。ふとした切っ掛けで能力が暴走しそうだ。
「……ダイナ様……やっと見付けましたよ」
ここにいる筈のない第三者の声に、ダイナはピクリと肩を震わせた。
声を掛けた人物は溜め息をつくと、彼女の隣に腰を下ろした。手を伸ばせば届く、絶妙の距離感だ。
「……皆が心配しています」
「……分かってるわ……」
そこにいるのが誰かなど、考える必要は無い。ダイナは膝を抱え込んで顔を隠した。
「……アルスが見せたくなかった意味が分かったの……」
「そうですか」
「私が悪いのよ。でも……気になったんだもの……」
「そうですね」
ダイナは少し移動してその人物に近付き、泣きそうな顔を上げた。
「フィアード……、怖かった……」
フィアードは黙ってその頭を抱き寄せ、トントン、と優しく叩く。
小さい時からいつも、自分の能力で怖い思いをした時に慰めてくれるのが彼だった。
兵舎であの惨状を見て男が怖いと思った。でもフィアードは違う。フィアードなら大丈夫だ。
ダイナは静かに頭をフィアードに預け、その鼓動を聴きながら目を伏せた。
「……ダイナ様……」
「フィアード……」
「……大丈夫ですか?」
「ん……もう少し……こうしていたいの……」
どれ位そうして宮殿を見下ろしていただろうか。夕闇がゆっくりと空を染め始めた頃、微かに羽音が聞こえてきた。こんな時間に珍しい、とフィアードが顔を上げると、一羽の小鳥がこちらに向かって飛んできていた。
「あら、凄い人たち見つけちゃったわ……」
小鳥は人語を話しながら塔の尖端に舞い降り、瞬く間に白髪の少女の姿を形作る。
「……!」
ダイナはすぐに身を起こすと少女に向き直った。あの少女だ。おぞましい光景がフラッシュバックし、吐き気が込み上げる。
屋根は傾斜が急なので足場が悪く、フィアードは振り向いたまま立ち上がれない。その目は驚愕に見開かれている。
「なんだ……皓の魔人じゃないのか……?」
鳥の姿になれるのは碧の魔人の筈だ。目の前の少女は一体何者だ……そう考える頭がだんだんクラクラとしてくる。
「神の化身ご本人と、薄緑の欠片持ちさん。こんな所でお会いするなんて、奇遇だわ」
少女の赤い唇がニイッと笑った。
◇◇◇◇◇
西の兵舎は騒然としていた。
一晩で北の兵舎の同僚が全滅したのだ。その処理から部隊の再編成など、追撃に備えて武装して一日中ずっとバタバタしている。
荷物を運びながらその様子を見ていた赤毛の男の肩を一人の兵士が叩いた。
男はギクリとして振り返り、他の兵士とは違う鎧の青年を見てホッと息をつく。
「……なんだ……ヨタカか……」
彼の従兄である黒髪の青年は意外な人物を見付けた、という顔で首を傾げている。
「今晩からこっちなのか?」
「念のためな」
「へぇ……」
ヨタカが纏っている鎧は親衛隊のものである。
「……そうだ、お前にちょっと話がある……」
アルスはふと何かを思い出して黒髪の青年に耳打ちした。
「俺の部屋に来いよ」
アルスは荷物を担ぎ直し、部屋に向かった。今晩から空いている個室を使うことになっている。
部屋に入ってすぐ、アルスは扉を閉めて、厳しい顔でヨタカに向き直った。
「どうした?」
ヨタカは口元にうっすら笑みを浮かべて佇んでいる。
「お前、あっちの方とも連絡取ってるのか?」
アルスの言にヨタカは空色の目を伏せた。それを肯定と取ったアルスは深い溜め息をつく。
「お前、そのせいで北の兵舎は全滅だぞ。何人死んだと思ってる」
「……さあな……」
特に否定しないので、やはり何らかの行動は取ったのだろう。
「父親に義理立てする気持ちは分かるけど、お前は今、帝国の軍人だろ?」
「入隊した覚えはないがな」
ヨタカは寝台に腰を下ろし、赤毛の従弟を見上げる。彼はどうやら腹を立てているようだ。
「兵舎に住んで、飯食わせて貰ってるんだ。お前のした事は立派な裏切りだぞ」
「俺を連れて来たのはお前だろ。……村を襲ったらしいな」
ヨタカは静かに言った。
「……そりゃ、まさか魔人と敵対するとは思わなかったからな……」
アルスは頭をガシガシと掻いて椅子に座った。まさかこんな身近に内通者がいようとは。ハアッと吐息をついてヨタカの空色の目を見つめた。
「いくつか聴きたいことがある」
「ああ」
「お前は何を、どうやって伝えた?」
「この宮殿の見取り図だけだ。変身して忍び込んだ奴に渡した」
「変身?」
アルスが首を傾げる。
ヨタカは面倒臭そうに目を伏せた。その輪郭がみるみる縮み、一羽の闇色の猛禽類になった。
「……!」
アルスはその姿を見るのは初めてだった。闇色の大きな羽根を広げ、体勢を立て直すとキロリ、とアルスを見る。
「どんな姿形になるかはそれぞれ違う。俺はこの姿だ。碧の魔人は基本的に鳥に変身できる。……俺みたいな混血でも……な」
ブルリと身震いすると瞬く間に元の姿に戻った。
「それじゃ、今度は奴らの情報を教えればいいか?」
「……お前は誰の味方だ?」
「愚問だな」
「……じゃあ、今回の襲撃に関わってるのは?」
「碧の女が実行。男が薄緑の空間魔術の阻害。それから、俺の姉貴が囮だ。未来見を警戒してそれ以外は何も決めていない」
「……姉貴?」
「母親が皓の魔人だ。風と水の魔術を使えるが……親父と同じ体質らしい……」
アルスが目を見開く。それでは、ダルセルノが言っていた白髪の少女というのがヨタカの姉なのか。
「……こんな胸クソ悪い作戦考えたのは皓の族長だ。自分は安全な場所にいて、いくら同胞を救い出したいからって、まるで使い捨てだ。碧の族長はこの間の襲撃で深手を負ったってのに、酷い違いだな」
ヨタカは吐き捨てるように言った。アルスは彼の置かれている立場を考え、胸が潰れそうな思いで尋ねる。
「ヨタカ……彼等の目的は何だ?」
「皓の族長は同胞の奪還だ。だが、碧は……」
「……違うのか?」
「ダルセルノの命だ」
ゴクリ、とアルスは息を飲んだ。
「これでいいか? 見取り図を流した分くらいにはなっただろ?」
ヨタカは立ち上がると扉に手を掛ける。
「……どこへ行くつもりだ?」
いくら敵の情報をもたらしたとしても、見取り図という具体物を敵の手に渡した罪は重い。
「さてな……俺の居場所なんて他にはないけどな……」
ヨタカは自嘲気味に笑い、扉を開けた。その背中を見て、アルスは一抹の不安を覚えた。
「ヨタカ……死ぬなよ」
黒髪の青年は片手を上げながら扉を閉めた。