15 反撃の狼煙
ダルセルノ達が火山の向こう側に出発してから三日、彼の代わりに国費の管理をする事になったフィアードは、執務室で帳簿を見ながら首を傾げていた。
彼は特に記帳に詳しい訳ではないが、なんとなく不自然な気がする出費が多い。
彼は引き出しから領収書の束を取り出して、帳簿の金額と照らし合わせ始めた。
「……おかしいな……」
領収書が足りない。
まだ通貨が制定されて間も無いので、ある程度は仕方ないのかも知れないが、金額が多すぎる。
「……ダルセルノは、影で何をやってるんだ……」
フィアードが目を細め、探りを入れようとした時、扉を叩く音がした。
「フィアード……」
声を聞いて耳を疑った。
「ダイナ様、どうなさったんですか?」
もう夜も遅い。
フィアードは驚いて壁に設置された水時計を見た。時刻は十一時を回っている。
「ごめんなさい、少し……話したくて……」
追い返す訳にもいかず、フィアードは右手をスッと動かして扉を開けた。
寝巻きの上に肩掛けを羽織り、豊かな髪を軽く纏めただけの少女は、銀製の盆を持ち、そこに白磁の茶器を乗せていた。
普段の彼女とは違う雰囲気に、フィアードは思わず視線を彷徨わせる。
「珍しいですね」
ダイナが座卓に盆を乗せて長椅子の端に腰を下ろしたので、フィアードは執務机を離れて彼女の向かいの肘掛け椅子に腰を下ろした。
「少し、気になる事があったの……」
立ち上がって慣れない手つきで茶を淹れながら、頬を赤く染める。
何か話があるならば昼間の執務中で構わないのに、わざわざ人気のないこの時間に来る理由は限られているだろう。
茶を淹れると長椅子の中央に座り直して、やや上目遣いでフィアードに茶を勧めた。手が少し震えている。
「……気になる事……ですか」
フィアードはあえてダイナの意図を無視して、言葉尻を捕まえる。
ここが執務室でよかったのかも知れない。フィアードは美しく成長したダイナを直視しないように、視線を落とした。
「……お父様のお部屋に行ったことある?」
ダイナは溜め息をついて要件を切り出した。フィアードは少しホッとして首を振る。
「いえ。宮殿の猊下の部屋には行ったことがありません」
一瞬、ダイナに嫌な記憶が蘇った。違う、あれは違う時代のことだ。軽く頭を振って、フラッシュバックした映像を払い除ける。
「今、ちょっと見てみてくれる?」
「今、ですか?」
「ええ」
フィアードは言われるがままに目を閉じてダルセルノの自室を見ようとするが、何かが引っ掛かって上手く見ることが出来ない。
「どう?」
「何か……邪魔が入ってますね」
「そうなの」
ダイナは身を乗り出した。
フィアードは眉を顰める。
「……遠見を阻害する何か、ですか……」
「それでね、直接部屋に行ってみたら、扉が開かないの」
フィアードはゴクリと息を飲んだ。
「……ダイナ様に開けられないんですか?」
「そうなの。おかしいと思わない?」
神の化身である彼女を寄せ付けない仕掛け。そんな物がこの世に存在するのだろうか。
「……帳簿にも不自然な所があったので、今、調べていたんです」
フィアードは渋面になった。明らかにダルセルノは水面下で何かを企んでいる。
ダイナはふらりと立ち上がる。
「私、間違えたかしら……。経理と外交なんて……、一番危険な事をお父様に任せてしまったのかしら……」
ダイナの顔色が優れない。
今回の外遊もいそいそと出掛けて行った。宮殿の外で何かをしようとしているのではないか。
少女はゆらりとフィアードが座る肘掛け椅子にもたれかかった。白く細い手がフィアードの肩に置かれる。
「……ダイナ様……」
フィアードの声が掠れ、慌てて茶を飲む。若葉のような爽やかな香りがフワリと鼻腔をくすぐった。
「フィアード……」
ダイナはフィアードの膝に身体を預けるようにその場に崩れ落ちた。
フィアードは慌ててその細い身体を受け止める。
「……!」
そのあまりの軽さに驚く。以前は柔らかかったその少女の身体はガリガリに痩せていて、そして桃色だった唇は色を失っている。
「ダイナ様?」
そう言えば、遷都してからは仕事以外の話はしていなかった。身体に触れる事もなかったので、彼女がこれ程痩せてしまっていることに気が付かなかったのだ。
「フィアード……ごめんなさい。ちょっと目眩がしたの……」
「お部屋まで運びます」
フィアードはダイナを抱き上げた。まるで羽根のように軽い。
転移をしようと魔力をためるとダイナの細い腕が彼の首に回された。
「……歩いて行って……」
ダイナの言葉にフィアードは溜め息をついた。逆らえる筈が無いのに、どうしてこの少女はこうも不器用なのだろう。
扉を開け、家人に気付かれないように消音の結界を張りつつ、長い廊下を歩く。
彼女がその気になれば全てを思い通りに出来るのに、わざわざ逃げ道を作ってくれる。それが彼女の気持ち故である事には気付かず、フィアードは妹のように思い大切にしてきたダイナに語りかけた。
「ちゃんとお食事を召し上がって下さい。……貴女が倒れたら、皆が路頭に迷うんですよ……」
「ごめんなさい……」
ダイナはフィアードの胸に顔を埋める。久しぶりの彼の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、目に涙が浮かぶ。
長い廊下から、迷路のように入り組んだ通路を経て、彼女の自室の扉を開ける。
飾り気の無い殺風景な部屋に、フィアードは目を見張った。とても思春期の少女の部屋とは思えない。
「フィアードは始めてだったわね……」
ダイナはその様子に苦笑した。
「すみません、あまりにも何も無いもので……」
壁一面の書架と寝台。そして机と椅子が二脚。花すら飾られていない。
「この部屋は寝るだけだから……」
フィアードはゆっくりと彼女を寝台に下ろし、その肩掛けを外した。
寝間着の襟元からは鎖骨が覗いている。魔力もすっかり弱ってしまっているようだ。
フィアードは部屋の結界を補強して、彼女の薄緑色の髪を撫でた。
「ご無理はいけません。今日明日はゆっくりなさって下さい」
「フィアード……」
ダイナは縋るような目付きでフィアードを見つめた。
彼はダイナをゆっくりと寝台にねかせると、優しく毛布を掛けてやり、その額に口付けした。
「おやすみなさい、ダイナ様。お父上の事は、俺が調べておきます」
労わるような口調が切ない。ダイナは毛布に潜り込み、彼に背を向けて泣きそうになる顔を隠した。
フィアードがそっと扉を閉めた途端、ダイナの目からは涙が溢れた。
「……フィ……アード……」
切なくて苦しい。こんなに近くにいるのに想いが届かない。ダイナは嗚咽を上げて毛布の中で泣きじゃくった。
◇◇◇◇◇
都は宮殿を取り囲むように家屋や商店が立ち並び、区画整理された大通りが宮殿を中心に放射状に広がっている。
どの通りもしばらく行くと、徐々に建物が質素になり、やがて貧困層の居住地になる。
その居住地の外側には田園風景が広がり、手が足りない時には地主である農夫達が貧困層の若者を駆り出して農作業にあたっている。
貧困層の居住地にはかつて奴隷だった者も多く紛れ込み、犯罪まがいの事をして生計を立てている者も少なくない。
その中でも活気に溢れる地域を都の住民達は「貧民街」と呼び、恐れて近付こうとはしなかった。
そこには独特の厳しいルールがあり、それを元に自治めいた事が行われているらしい。帝国の軍部が目を光らせているが中々行き届かず、その実態は謎に包まれている。
そんな貧民街の一角に人集りができていた。血気盛んな若者が多く、皆目をギラギラとさせている。
「神の名を借りた独裁を許してはならない! 我々の血税を、私利私欲に使っている帝国に制裁を!」
一人の青年が伏せた木箱を演台にして、その上で大声を張り上げていた。柔らかい茶色の髪を無造作に纏め、頬には大きな傷がある。その青緑の目には強い意志が宿り、集まった群衆一人一人に訴えかける。
「我々は何の為に働いている! 神の為か? 帝国の為か? 違うだろう! 家族の為に働いている筈だ! なのに何故、家族が飢える? 薬が買えない?」
青年の熱弁に、若者達の興奮が高まる。
「帝国に制裁を!」
「制裁を!」
一斉に拳を振り上げて叫び出した時、灰金髪の青年が息を切らして駆け込んで来た。
「憲兵だ!」
その一言で、群衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
ドカドカと靴音も高らかに武装した兵士達が数人走って来て、闇雲に剣を振り回す。
逃げ遅れた者達を何人か捕縛し、兵士達は演台になっていた木箱を蹴飛ばした。
「ちっ! 逃げ足の速い奴らめ!」
貧民街での深追いは危険だ。兵士達は深追いを諦めて捕らえた者達を突き飛ばしながら引き上げて行った。
「……行ったな……」
壁の隙間を登り、兵士達の死角で様子を伺っていた茶髪の青年はヒラリと身体を踊らせた。
転がった木箱を元に戻していると、仲間がパラパラと戻ってきた。
青年によく似た女性がハシバミ色の目で憲兵が去った道を見やる。
「ちょっと取り締まりが厳しくなってきたわね、兄さん」
「そうだな」
「レイ兄、ちょっと派手にやりすぎだよ」
偵察を担当していた青年は肩を竦めた。
「まあ、相手の出方も見ないとな」
兄弟三人で喋っていると、他の仲間が大きな包みを抱えて戻ってきた。
「武器を手に入れた。これで少しは戦えるだろ」
包みを開けると、短剣や長剣がごっそりと出てきた。一体どこでかき集めたのか、かなりの量である。
男はその中で一番派手な装飾の剣をリーダーに手渡した。
「お前にはこれなんかどうだ?」
「あれ? この剣……どこかで……」
受け取った青年は首を傾げる。
なんとなく見覚えがある。それに他の武器もやたらと出来がいい。簡単に手に入るような代物では無いのが一目瞭然だ。
「おい……こんな物、どこで手に入れたんだ?」
仲間は武器を配りながら、リーダーの質問に答える。
「遷都のドサクサで、荷をすり替えたんだ。どうせ宮殿の武器庫の隅で眠る予定だったんだ。俺達が使っても罰は当たらないさ」
大胆な事をする、と呆れながらも、その剣の出自を確認できて満足する。
「へえ……、やっぱりな……」
青緑の目に郷愁が浮かぶ。
青年は唇の端を吊り上げると、その剣の柄に手を掛けて一気に抜き放った。美しい白刃がキラリと太陽の光を反射した。
「いいな、その剣。お前によく似合うぜ、レイモンド」
仲間の言葉に、青年はニヤリと笑った。