10 光と闇の奔流
翌朝、玉座のある神の間は重苦しい空気に包まれていた。
女帝の父であり、最高法曹であるダルセルノが導き入れた娼婦達に混じって、兵舎を全滅たらしめた賊が紛れ込んだのだ。
囮役たる少女はその場で殺され、男はその遺体を持ち去った。まだ一人残っている筈だ。
「……フィアードは……何処?」
ダイナは饗宴の余韻でグッタリしている男二人を睨み付ける。
「……さあ……?」
アルスは首を傾げた。あの状態で他に気を配れる訳が無い。
「……恐れながら……」
参考人として列席しているマダム・ヴォルフが口を開いた。
「サーシャ様が処刑された娘が、湖畔の村の白姫という娼婦でして、彼女の紹介でもう一人同行していた筈なのですが……」
「もしかして、空色の髪の女かしら」
ダイナが目を細める。マダム・ヴォルフは頷いた。
「はい。とても魅力的な肉体に美しく染め上げた髪が印象的で、我々としましても、極上の部類に入る者でございます……」
「その女はどうしたの?」
「行方が知れません。扉の前で控えておりましたが、出て行った娘はおりませんでした……」
「……フィアードは扉から出たの?」
ダイナの問いに、マダム・ヴォルフは首を振った。
「いえ……。フィアード様のお姿も拝見しておりません」
フィアードは転移したに違いない。では女はどうした……ダイナは爪を噛む。
「窓は開いていた?」
「いえ、開いておりませんでした。前回の襲撃後、明かり取りの窓、通気口には全て金網を張ってあります」
サーシャが答える。
碧の魔人が鳥の姿で侵入したことが分かり、その侵入経路を悉く潰した筈だ。
「アルス、フィアードを連れて来なさい」
ダイナは険しい表情でアルスに命じた。
考えられる事はただ一つ。フィアードが魔人の娘と一緒にいる、という事。
襲撃の実行犯であると知っての事か、それとも娼婦として部屋に招き入れたのか……。
アルスはあの白髪の娘と随分楽しんでいたらしい。犯罪者と知っていても、そのような事が出来る感覚が理解できないが、それが男というものだとすると……。
ダイナは再び爪を噛み始めた。
アルスは一礼して退室した。身体にはまだあの少女の感触と血の匂いが残っている。あの青年との中途半端な戦闘も身体に燻りを残している。
深く考える事が苦手なアルスでも、ダルセルノのやり方には納得出来ない事が多い。
あの騒ぎの中で、何故、もう一人の少女はダルセルノを殺さなかったのだろうか。あれ程の好機は無かった筈だ。
彼を狙っているという碧の魔人達を影ながら応援していると言うのに、あの男も馬鹿正直に正面から挑んでくるから戦わざるを得なかった。
神が主体で国造りをすれば、争いの少ない世界になる、と思い神族に肩入れしたものの、争いは一向に減る気配はない。
むしろ、くだらないことで兵の命を危険に晒している。
アルスは自分が何のためにこの国で働いているのか分からなくなってきた。
ヨタカは無事だろうか。追手に捕らえられたという報告が無いところを見ると、恐らく無事なのだろうが、やはり落ち着かない。
気が付くとフィアードの部屋の前だった。扉を叩こうとして、ふと耳を澄ますと、部屋の中から悩ましい音が聞こえてくる。
咳払いをして、いつもより大きい音が出るように強く扉を叩く。
「おい! 俺だ。陛下が呼んでるぞ」
ピタリ、と室内の音が止んだ。
何やら話し声がして、ゴソゴソと物音がする。
アルスは扉が開くのを気長に待つ事にした。
◇◇◇◇◇
アルスが扉の向こうにいる。
フィアードはツグミと繋がったまま、ゴクリと息を飲んだ。
そっとツグミから身体を離し、神の間の様子を見ると、ダイナが振り返ってこちらを見た。
「フィアード……?」
背中に冷たい汗が流れる。ツグミはあの襲撃の実行犯だ。見付かればどうなってしまうだろう。
彼女がダルセルノのような加虐的な男の手に落ちれば、公開処刑どころでは済まないのではないか。
「……ツグミ、逃げよう……」
ただならぬ雰囲気に青ざめたツグミを抱き締める腕に力が入る。
「え……でも……」
「俺は陛下に逆らえない。ダルセルノにもだ……」
もし、ツグミを差し出せと言われたら、自分はどうするのだろう。考えるだけで心臓が早鐘を打つ。
「……なんで?」
「名を……握られてる……。漆黒の能力は名を知っている相手を支配するんだ……」
「なんやて……」
ツグミの顔が強張る。なんという恐ろしい能力だろう。
「陛下から逃げられるか分からないけど、他の連中ならなんとかなる。陛下とダルセルノに真近で名を呼ばれなければ大丈夫だ……」
フィアードは寝台から降りて急いで服を着る。ツグミには空中から目立たない服を取り出して手渡した。
ツグミは寝台に腰掛けたまま、その服を握り締めた。
「ホンマにええの? あんたは一応この国では重鎮やろ?」
「無理やり生かされて来ただけだ。それに、義理も無くなった……」
ツグミが服を着たのを確認し、二人は抱き合った。軽く口付けし、見つめ合う。
「ツグミ、行こう」
「フィアード……」
二つの人影は一瞬にしてかき消えた。
◇◇◇◇◇
「遅い!」
「陛下……!」
アルスはいきなり後ろから怒鳴りつけられて振り返った。
ダイナはツカツカと扉に歩み寄り、コンコン、と扉を叩いて甲高い音を立てた。
「フィアード、私よ。入るわよ」
彼女にとっては鍵などあって無いような物だ。無造作に扉に手を掛けて一気に開け放つ。
むせ返るような男女の匂いとしっとりと湿った乱れた寝台。床には派手派手しい娼婦の衣装が脱ぎ捨てられている。
フィアードも着替えたのだろうか、床には彼が昨日身に付けていた服も落ちている。
彼の情事の後はいつも驚くほど整然としているが、この惨状はどうだろう。
それだけで、相手が彼にとってどんな存在なのかを物語っている。
「……あ……陛下……」
ダイナの肩が震えている事に気付き、アルスは恐る恐る声を掛けた。
「ねえアルス……、私は何?」
「ダイナ様……」
「どうしてフィアードはいないのかしら? これはどういう事?」
ダイナの目からポロポロと涙がこぼれる。わざわざ見るまでもない。彼が魔人の娘と姿を消したのだ。
「悔しい……! 許せない……!」
ダイナの周囲の空間が歪む。塵や埃などがその小さな歪に吸い込まれて行くのが分かる。
彼女は目を皿のようにしてあらゆる所を見た。
フィアードが誰かを連れて転移できる範囲は限られている。
その範囲内を隈なく探る。
「……ダイナ様……」
アルスはその鬼気迫る形相に息を飲んだ。これ程までに追い詰められた彼女を見たのは初めてだ。
ダイナはフィアードの姿を見出せずに舌打ちする。そして意識を変えた。
フィアードは恐らくダイナの遠見から逃れるために、空間魔術の阻害を行う筈だ。ならば、不自然に見えなくなっている所が彼の居場所だ。
「……あったわ!」
ダイナは部屋の隅にある伝声管の紐を引いた。
「……兵士達を東の丘に向かわせて。そこにフィアードが居る筈よ。北の兵舎を全滅させた魔人に拐されているわ!」
ダイナの顔は嫉妬に染まっていた。
◇◇◇◇◇
丘の上の小屋になんとか到着し、フィアードは寝台に倒れこんだ。
夜通しツグミの身体を慈しみ、彼女を連れて転移したら、激しい頭痛で立っていられなくなったのだ。
「フィアード……」
ツグミはその傍らに座り込み、フィアードの手を両手で握って自分の額に押し付ける。
「空間魔術の阻害をしてあるから、陛下からは見えない筈だ」
フィアードは空いている手でツグミの腰を抱き寄せる。
「アホ、こんな時に何してるねん」
フィアードは弱々しく笑うとそのまま眠ってしまった。
ツグミは窓の外を見て一羽の鳥を呼び寄せた。風の魔術による伝言だ。
彼女は同胞にヒバリの死と、自分の戦線離脱を伝える事にした。
「……ノスリ……ごめんな……」
見かけによらず情に厚く、ガーシュの剣の師匠であったノスリは誰よりもダルセルノを恨んでいた。
もし、このドサクサに紛れて一矢を報いる事が出来ればそれに越したことはないが、と、虫の良いことを考えて自嘲した。
眠っているフィアードに口付けした時、風の精霊がツグミの耳に異常を告げる音を届けた。
慌てて窓の外を見ると、宮殿からおびただしい数の兵士達がこの丘を目指して進行しているのが分かった。
「……ウソやろ……?」
フィアードの魔術に問題があったのか、女帝が上手だったのか。まさか女帝が軍隊まで動員するとは思わなかった。
「フィアード、逃げるで!」
「……ツグミ……」
ツグミはフィアードを抱き起こすと、風の精霊の助けを受けながら小屋の外に飛び出した。
何としても、この場から逃げ出さなければ。ツグミは唱え馴れた詠唱を口に乗せる。
「空を統べる精霊よ……」
◇◇◇◇◇
軽鎧に身を包んだダイナは目的地の小屋から飛び出した影に目を見張った。
「あれは……ペガサス!」
その馬上には空色の髪の少女と彼女が求める青年が乗っている。
「ペガサスを射て!」
ダイナの声に、兵士達はペガサスに向けて一斉に矢を放った。ダイナの力で本来届かない所までその矢の軌道が修正される。
今まさに飛び立とうとしていたペガサスに無数の矢が突き刺さり、ペガサスは光の粒子となって弾け飛んだ。
馬上の二人は投げ出され、地面に叩きつけられる。
「フィアード!」
ダイナが駆けつけようとした時、彼女の後ろから父親の声が響いた。
「射て!」
兵士達から矢の雨が降り注ぐ。
ダイナは驚いて振り返った。
「お父様! 何故!」
「相手は罪人だ! しかも強い力を持っているのだぞ! 殺せる時に殺さずにどうするのだ!」
二人は明らかに消耗していて戦う力がない。叩くならば今の内だ。ダルセルノは兵士達に更に命じた。
「射て!」
矢の雨は更に二人に降り注ぐ。
ダイナの視界で、薄緑色の髪が舞い、朱に染まって行くのが見える。
「……イヤ……違う……!やめて!」
フィアードが血に塗れて地に倒れ込んだ瞬間、ダイナの身体から白銀の光と漆黒の闇が迸り、世界をモノクロに染め上げた。
「……え……?」
ダイナが顔を上げると、色彩を失った世界にただ一人、自分だけが色彩を纏って立っていた。
倒れたフィアードに近付くと、彼は同じように倒れている魔人の少女と手を握りあっていた。
ギリ、と唇を噛み絞める。
「イヤ……! こんなこと、認めない!」
ダイナが呟くと、彼女の中から強大な力が湧き上がり、モノクロの世界を一気に塗り替えた。
◇◇◇◇◇
気が付くと、目の前でペガサスが飛び立とうとしていた。
これは何だろう。激しい既視感に眩暈がする。神の力が発動したのは分かるが、これは一体どういう類の能力なのだろう。
もしかして、やり直してもいいのだろうか。ダイナは咄嗟にさっきとは違う行動をとればやり直す事が出来る気がした。
「射……たないで……」
ダイナの声に、兵士達はザワリと動揺した。
「馬鹿者! 射つのだ!」
ダルセルノの声がした。
ダイナは傍らに立つアルスに命令する。
「二人を逃がして。絶対に死なせないで!」
アルスは驚愕に目を見開きながらも、頷いて剣を抜き、矢を放とうとする兵士達に踊りかかった。
「馬鹿者! アルス、血迷ったか! アルスを射て!」
「お父様! やめて!」
父娘の相反する命令に動揺しながらも、半数程がダルセルノの命に従って矢を射った。
如何にアルスと言えど、至近距離からの射出には対応しきれず、次々と降り注ぐ矢を受けて膝をつく。
「……アルス……」
ダイナは呆然と呟いた。
全身に矢を受けた赤毛の青年は倒れることなくこと切れていた。
頭上にペガサスが舞い上がった。
「フィアード……」
そうだ、彼が無事ならそれでいい……、そう思っていると、いきなりペガサスが空中で霧散した。
馬上の二人が空に舞い、一本の矢が落ちて来た。
「え?」
ダイナの後ろでサーシャが弓に二本の矢をつがえた。
「サーシャ!」
空中に投げ出された二人にサーシャの矢が深々と刺さった。
「イヤ……! やめて!」
ダイナの叫びに、白銀の光と漆黒の闇が迸った。
ーーダメ、もっと……もっと……前に戻らないと……!
神の化身として産まれた少女は、果てしないやり直しを経て、何が正解なのかを探る事となるのであった。
お読みいただきありがとうございました。
第一章 碧と皓の軌跡 はこれにて完結、第二章 帝国の興亡 に続きます。