1 プロローグ
「あ~! 風が気持ちいいわ!」
夜空にそびえ立つ塔の先端。屋根の上に一人の少女が寝転んでいる。
如何なる方法を用いているのか、彼女の脇には燭台がフワフワと浮かび、ぼんやりと辺りを照らしている。
少女は山積みにした本の中から一冊を手に取り、その表紙を見て首を傾げた。
「あら、こんな本……あったかしら……」
白い手でその見慣れない本の頁をめくった。すぐに内容に引き込まれ、少女の二色の目はただその文字を追い始める。
空が白み始め、二本目の蝋燭が燃え尽きた事にも気付かずに本を読み進めていた少女は、小鳥の囀りを聞いてハッと顔を上げた。
「大変っ! もう朝だわ!」
慌てて本と燭台を掻き抱いて立ち上がった次の瞬間、少女の姿は塔の上から消えていた。
◇◇◇◇◇
宮殿の奥、複雑に入り組んだ廊下の先にその部屋はあった。
部屋の住人の好みを反映したのか、質素とも言える程、機能性を重視した調度の数々とおびただしい数の書物。
寝台だけは天蓋付きの華やかな物なのが返って異様な雰囲気を醸し出している。
「ダイナ様……おはようございます」
扉を叩く音と共に、女性の声が響く。寝台の中でモゾモゾと少女が身じろぎした。
「ダイナ様! 入りますよ!」
微睡みを邪魔され、少女は毛布に潜り込んだ。
部屋に入って来たのは、腰に剣を下げた栗色の髪の女性だ。強い意思を感じさせる目は白銀。長身に軽鎧がよく似合う。
「……おはよう、お義母様……サーシャ」
「……どちらでも構いませんが、いい加減に起きてください。もうお昼ですよ」
銀の盆にパンとスープを乗せて、侍女が入って来た。
「おはようございます、陛下」
侍女の声を聞いて、流石に毛布から顔を出したダイナはその眩しさに目を細めた。細く整った眉の下のアーモンドのような大きな目は左右で全く正反対の色を湛えていた。右の目は闇を溶かしたかのような漆黒、左の目は眩しい程の光を宿した白銀である。
サーシャは寝台の横に設置された燭台に手を伸ばす。燃え残った蝋燭の上に乗せた蝋燭も殆ど燃え尽きている。
「また、夜通し読書されてたんですか?」
「だって、暇なんだもの。外出もしてないのに眠れないわ」
ダイナは桃色の唇を少し尖らせて抗議しながら寝台に腰掛ける。
すかさず差し出されたパンを頬張るとスープで流し込んだ。寝室での食事に作法も何もあったものではない。
「夜更かしして寝坊されるから、夜に眠れなくなるんです!」
サーシャは呆れながら、ダイナの薄緑色の髪を梳る。膝まで届く髪は寝る前に長い三つ編みにしたためかフワフワと波打っている。
サーシャはその髪を編み直し、器用にまとめ上げた。少女の白いうなじが露わになり、先ほどとは見違えるようになった。
ダイナは欠伸を噛み殺しながら寝間着を脱ぎ、侍女が持ってきた洗面器で顔を洗う。
「陛下、お召し替えを」
侍女はテキパキと寝間着を畳み、用意していた華やかな装束を着付け始めた。
「あら? 今日って何かあったかしら?」
いつもよりも華やかな装束にダイナは目を見張る。彼女は機能性を重視するので、ヒラヒラとした装束はあまり好まないのだ。
「ええ、今日は地方の有力者を招いて茶会があると伺っておりますよ」
侍女がダイナに次々と装飾品を装着していく。サーシャはそれを眺めながら小さく頷いた。
「若い男性も大勢来ます。……要するにお見合いです」
「ええっ?」
「ダイナ様はもう十六。遷都してからまだ周辺住民にお披露目する機会がありませんからね。婚約でもしていただかないと」
侍女は仕上げとばかりに髪に花を飾り始める。
この春に生まれ育った土地を離れ、世界の中心と言われているこの土地に遷都したばかりだ。
ようやくこちらの暮らしに慣れて来て、これから色々と遊ぼうと思っていたダイナはゲンナリとした。
「……当分先でいいわ。私にはフィアードがいるもの」
「フィアードは罪人の子。結婚は叶いませんよ」
冷たく言うサーシャをその色違いの双眸で睨みつける。
「分かってるわよ!」
ダイナはプイと顔を背けた。いつもの事だ。どうせ皆が反対する。
「ダイナ様、本当に分かってますか? 彼とは結婚出来ませんよ」
「……分かってるもの……」
重ねて言われ、ダイナは俯いてしまった。
「でも、側にいて貰うくらいならいいでしょ? もし私が結婚しても、彼は側近よね?」
「……もちろんです。彼も欠片持ちですから、私達と共に神の化身である貴女の側にいなければなりませんからね」
サーシャの言葉にダイナはホッと胸を撫で下ろし、上目遣いにサーシャを見上げた。
「お見合いってことは……、別にすぐに結婚する訳じゃないわよね……」
「ええ。今日は候補の方々と少しお話しする程度ですよ。気に入った方がいれば、また後日お呼びすることになりますね」
サーシャは襟元の乱れを直しながら、愛らしい姪の顔を覗き込んだ。もう結婚を考える歳になったのかと思うと感慨深い。
「お見合いはお父上からの勧めですから、仕方ありませんよ。……でも、いい人がいるといいですね」
身内としての一言に、ダイナは少し拗ねたような顔になる。
「……サーシャの意地悪」
「せっかく綺麗に着飾ったんですから、フィアードに見せ付けてやればいいんです」
「……それもそうね……」
美しく着飾った女帝を侍女が満足気に眺める。彼女には二人の会話は関係ないのである。
「ではダイナ様、参りましょう」
「……お父様の命なら……仕方ないわね……」
ダイナは深い溜め息をついて、サーシャと共に部屋を後にした。侍女は麗しい二人を見送ると、メイド達に命じて掃除を始めた。
◇◇◇◇◇
「フィアード! 見て! 綺麗?」
茶会の準備をしている側近を見付けて駆け寄り、ダイナはその腕を絡ませた。ささやかな胸を押し付け、ねだるように彼の顔を見上げる。
彼女と同じ薄緑色の髪の男性はそのハシバミ色の目を見開いて、大きく頷いた。
「お綺麗ですよ、ダイナ様」
「嬉しい! フィアードに最初に見て欲しかったの!」
ダイナはふわりと身を翻してフィアードの目の前に立つと、クルクルと回った。装飾品がシャラシャラと音を立て、その場には清浄な気が満ち始める。
使用人達は準備の手を止め、女帝の舞を食い入るように眺めていた。
フィアードはその舞の相手をするかのように優雅にダイナの手を取ると、少女にニコリと笑い掛けた。
「ダイナ様、もうじきお客様がお見えになります。お席でお待ちください」
フィアードはダイナの腰に手を回し、席へと案内した。
「……ねぇ、このお茶会が私のお見合いって知ってた?」
「ええ。伺ってます」
女帝を優雅にエスコートしながら、フィアードは冷ややかに会場を見渡した。贅の限りを尽くした茶菓子と果物が次々と運び込まれてくる。
「もし私が結婚しても、フィアードはずっと私の側近よね?」
「当然です。俺に他に何が出来るとおっしゃるんですか?」
腕を絡め、その細い身体を預けてくる少女には聞こえないように溜め息をつく。彼女の依存にも参ったものだ。
「そうよね……」
ダイナは青年の溜め息に気付かず、その胸に頭を預け、幸せそうに微笑んでいた。
◇◇◇◇◇
神の化身による『帝国』が建国されて五年。神族と人間による統治で、魔族は苦境に立たされていた。
中でも最も大きな問題を抱えているのが水の精霊の加護をうける皓の魔族である。
彼等は病を治癒する能力を狙われ、帝国による「魔人狩り」の標的にされていた。
皓の魔族の族長は、風の精霊の加護を受ける碧の魔人二人を招いて作戦会議を開いていた。彼らも先日帝国による襲撃を受けたばかりだ。
空色の髪を高い位置で結い上げた少女が見取り図を広げ、手元の資料を読み上げる。
「神の化身は女。これはおっかなくて近づく事すら出来へん。その父親が漆黒の欠片持ちや。能力は大した事あらへんが、実権を握っとる。
その後妻の白銀の欠片持ちが女戦士。かなりの使い手や。
薄緑の欠片持ちは華奢な男やけど、能力が高い。うちらにはやりにくい相手や。
あと、護衛の人間のうち、赤毛の大男がとにかく強い」
「よくそこまで調べたな……」
水色の目を見開き、乳白色の髪の中年男性が舌を巻いた。
「たまたま混血が親衛隊に入っとってな……」
少女は言って一歩下がった。代わりに空色の髪の青年が前に出る。
「宮殿の警備は厳重や。とにかく人数が多い。それに薄緑の欠片持ちは神出鬼没やし、常に周囲を警戒しとる」
「守りの要は薄緑か……」
男が三人で見取り図を覗き込む。
「宮殿の守りは恐らくそうやな。白銀と赤毛は主に化身とその父親を護衛しとるようや」
しばらく考え込んでいた族長は空色の髪の男をチラリと見た。
「貴殿ならどう攻める?」
空色の髪の青年はしばらく見取り図を眺め、目を細めた。
「……未来を感知できる白銀や化身がおる以上、計画立てたらあかん。周到な計画ほど露見するやろ……。わしなら空間干渉で遠見や転移は阻害できるからの」
「成る程な。綿密には計画を立てぬ……よい考えじゃ」
最も警戒すべきは未来見の能力。族長は深く頷いた。
「でもっ、父上! 無計画に攻撃を仕掛ける事など危険すぎます!」
「無計画でも、無力化できればよかろう」
族長の言葉に息子は息を飲んだ。
「無力化って……まさか……」
「碧の村で戦える女は?」
族長の唐突な質問に少女は首を傾げた。
「……族長はこの間の襲撃で怪我したから……うちだけやな……」
他は身重であったり育児中で、とても戦える状態ではない。
族長の息子は少女のしなやかな身体を無遠慮に見ながら言った。
「……男を無力化する策がある。だが、こちらの男も無力化するゆえ、そなた一人で白銀と化身を相手取ることになるが……」
「いやむしろ、男共を無力化して叩く、を繰り返す方が敵の戦力を削げるな」
族長の言葉に息子が納得している。
怪訝な顔をしている客に、族長はニヤリと笑った。
「うってつけの娘がいる。あれを敵陣営に放り込めば、男は皆役立たずだ」