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私が家に帰るのは、いつも夜10時すぎ。決して夜遊びしてるとか、がらの悪い連中と付き合っているとかではない。近所のファーストフードで、勉強しているだけだ。毎日勉強しているのではなく、本を読んでいたり、音楽を聞いていたりその時々によって過ごし方は違う。本当にぼーっとしているだけのときもあるくらいだ。今日は本屋で無料で貰ってきた資格の資料を眺めていた。特に興味があるわけでもなく、時間の潰し方を探しているだけ。
「ただいま」
一応声をかけてから家に入る。キッチンから、今帰ってきたばかりらしい母親が顔を出した。
「おかえり、春香。ご飯、食べるでしょ」
「おかずだけでいい」
「はいはい」
母親はこの時間まで働いている。父親はすでに床に入っているのか気配がない。冷蔵庫からオレンジジュースを出していると、母親から尋ねられた。
「そういえば春香、帰りに冬奈と会った?」
どうして姉と。私はすぐに否定する。
「ううん」
「ああ、そう……まあ、春香に言うことじゃない、か」
「何? 何かあったの?」
母親は気まずそうに視線をそらす。
「あのね? 帰ってくる途中、将門くんから電話があったの」
将門は姉の夫で、私たちの幼なじみだ。今は婿養子となって、この家に住んでいる。
「冬奈が家出しちゃったから、近所で見かけたら連絡欲しいって……」
「また喧嘩? ほっとけばいいじゃん」
「そうは言っても……友だちのところにいるなら、いいんだけど」
しょっちゅうある夫婦喧嘩。たいていは、姉が将門にキレてるだけの幼稚なもの。
家出は日常茶飯事だし、将門はよくあんな人に付き合っていると感心する。私にしておけば、そんな苦労はなかったのにと心の奥底で思う。
みそ汁をすすっていると、玄関のほうから音がする。どちらが帰ってきたのだろう、それとも両方だろうか、私は視線はそのままで様子を窺っていた。
「あら、将門くん」
一人なんだ、と思いながらもクリームコロッケに箸を伸ばした。
「あ……お母さん、すみません。さっきあんな連絡をして」
「いいのよ。冬奈は? まだ見つかってないの?」
「冬奈の友だちから連絡があって、その子の家にいるみたいです。明日には帰ってくるようですし、僕、明日も仕事があるので」
「ごめんなさいね、困った娘で……」
「いえいえ、いいんです。僕がいつも怒らせてしまうんです」
そう言いながら、食卓まで入ってきた将門の背中が見えた。当たり前だ、彼はこの家の住人だし、私たちは家族なのだから。
冷蔵庫を開けてしばらく何か考えていた彼は、突然こちらを振り返る。私と目が合い、そしてふっと笑う。
「僕も、オレンジジュースもらおうかな」
私の手元にあるそれを見て、甘い声でそう言った。
ご飯を食べたあとお風呂に入って、昔は客室だった和室に入る。ここが今は自分の部屋なのだ。布団を敷き、横になって手帳を開いた。部活も習い事もしていない私に、本来スケジュール管理なんて必要ない。ほとんどはその時々で気付いたことや思ったことを記録しておくノートになっていた。ぱらぱらとめくり、あるページでとまる。
「片思いするなら大谷くんがいい、か……」
ほんのつい最近、恋が成就した親友の言葉だ。
紆余曲折あったものの、無事に彼女の思いが通じて私は心底ホッとした。あることがきっかけで、私の親友、千紘は片思いの相手であるクラスメートの大谷くんを諦めることになってしまったのだ。そのきっかけがある前、私は随分と彼女の話を聞いていた。どれだけ彼のことを見ているか、どれだけ彼のことを思っているか、口には出さないが私には痛いくらい伝わってきた。
その最もたる言葉が、これだった。
どんな流れでそういう話になったのかは、よく覚えていない。でも照れくさそうに、嬉しそうにそう言った千紘の表情は忘れられない。
「片思いするなら、将門、が、いい……」
布団で口を隠して、呟いてみる。くぐもった声は、自分にだけ聞こえる。
私は自分で自分を馬鹿だと思うくらい、一人の男ばかりを見続けて思い続けて、結局は姉と結婚してしまわれるという顛末だった。
なのに、まだ好きでいる。
何度も環境のせいにした。私の姉と結婚したせいに、同じ家に住んでいるせいに、将門が結婚しても相変わらず私に優しいせいにした。
でも本当は違うって分かっている。同じ世界にいるのに、私だけ置いてきぼりにされているのも、分かっているのだ。
将門がうちの近所に引っ越してきたのは、姉が小学生で、私はまだよちよち歩きのときだった。将門は姉よりも歳が3つ上で、同年代の子は他にもいたけれど男の子はみんなやんちゃな子ばかりで、優しくて物腰が穏やかな彼に私たち姉妹はすぐに懐いた。
将門と姉は歳が近いこともあって、2人で出かけてしまうこともあった。おそらく姉が私には内緒だとけしかけていた部分もあると思う。それが分かり私が家で一人泣いていると、将門は必ず私を迎えにきてくれた。2人だけで出かけちゃってごめんね、と。春香ちゃんも一緒に行こうと、あたたかな手の平で私を包んで連れて行ってくれるのだ。
そんな2人が結婚することになったのは、2人姉妹で跡取りがいないことを嘆いていた私の両親に、将門の両親が「だったらうちの将門はどう?」と勧めたのが始まりだった。姉と将門が付き合っていないことは周知の事実だったため、もちろんそんな軽い話に乗るはずがないと私は安心していた。でもいとも簡単に2人は結婚してしまった。
いつまで経っても信じられない私に現実は突きつけられる。結婚式は身内だけの簡単なものだったが滞りなく行われ、その日から姉と将門の左手薬指にはシンプルな輪っかが増えたのだ。
不思議なことに涙は出なかった。
最初は嘘みたいな話に、馬鹿らしくて泣けないんだと思っていた。今まで将門を慕っていた自分は何だったのか、周りにのせられて簡単に結婚しちゃうような男を好きだったのかという、呆れの気持ちから泣けないのだと。
でも、将門への思いは消えない。
ごろんと仰向けになり、天井を見上げた。天井の向こうには、将門がいる。いつもなら姉もいるはずだが今日はいない。目を瞑って将門のことを思うが、きっとあいつの中に私はいない。いるとしても、妻の妹としてただ存在しているだけ。そんなふうに何度も自分に言い聞かせて、寝て起きたら将門への気持ちがなくなっていればいいのにと思う。もう自分ではどうしようもないのだと、思い知らされているのだ。
体育祭も終わり、あとは夏休みを迎えるだけの毎日。学校は午前中で終わるし、部活に入ってない私はファーストフードで暇つぶしする時間が増えただけ。お金がなくなると図書館に行くこともあるが、あそこは18時や19時といった時間に閉館してしまうので結局ファーストフードに頼ることになるのだ。私が早い時間に帰らない理由は、姉や将門と顔を合わせたくないため。ほぼ定時で帰ってくる2人と一緒に食卓に座りたくないのだ。
「春香、今日駅前に買い物に行かない?」
帰り際、千紘に誘われる。
「いいけど。大谷くんと一緒に帰らなくていいの?」
「ぎゃあ!」
妙な声を出した彼女は、耳まで真っ赤だった。
「かえ、か、一緒に、帰ると、か……」
「どうどう。落ち着いて?」
「とにかく、今日は、私は、春香と買い物、行こうと……」
必死に喋る彼女を見て、可愛いなあと思う。
体育祭の打ち上げが終わったあと、少しだけ距離の近くなった2人は微笑ましかった。そのとき仲良くなったクラスメートの江畑くんは「青春まっただ中カップル」と冷やかしていた。
「分かった分かった、行こう。何買うの?」
「服……ワンピースとか、かわいいやつ」
「じゃあ、お昼どっかで食べてから行こうよ」
まだ人がまばらに残っている教室を見渡す。大谷くんの姿はない。両思いになって、当然付き合いだしたんだろうけれど、クラスにいるとき2人はまったくそんな素振りを見せない。喋っているところもあまり見ないし、私がさっき冷やかしたように一緒に帰るなんてこともない。
ちょっと心配になり思わず聞いてしまった。
「ねえ、2人って何で教室で喋らないの?」
「え? なんでって……言われても……」
「付き合ってるの隠そうとか、そういう意図があるの?」
千紘はぶんぶんと勢い良く首を横に振る。
「でも、まだ、何喋っていいか分かんないときもあって……」
「あー……そっか。うん、なるほど」
「メールは毎日してるよ? 電話も時々」
「うんうん。じゃあデートは?」
私が調子に乗って尋ねると、千紘は黙りこくる。
「千紘?」
「来週に、あの、約束を……」
「お、初デート?」
これは江畑くんではないが、「青春だねえ」とからかいたくなってしまう。自分だってそれに該当する時期にいるのに、同じ時間を過ごしているのにこの違いは何だろう。虚しさを感じても自分のせいなのに、どうしようもない。
「だから……服」
「あ、デート用の服ね? よし、じゃあいっぱい試着して選ぼうね」
私がぽんと肩を叩くと、千紘は顔を赤くしながらも微笑んだ。
いくつかのショップをはしごし、可愛くて、値段も優しいワンピースに出会うことができた。シルエットがふんわりしていて、スカート丈も膝丈で千紘の雰囲気によく合っている。普段あまり来ることのない駅前の賑やかな場所で、少し休憩しようかと目についたカフェに入った。
店内は少々混んでいる。セルフサービスの店なので、千紘が席を探してくると言ってくれる。私はレジに並んで前を向いた。手前から、男子高校生、中年の女性、サラリーマン……と見て、見慣れた背中だということに気付いた。180cm近くはある背丈に、細身のスーツ。手に持っている財布で確信した。姉とお揃いのブランドの財布。
「あれ……偶然だね」
そのサラリーマンは将門だった。会計を済ませて手にアイスコーヒーを持った彼は、私を見て目を丸くしながらも笑った。
「ど、して?」
「僕? この近くで研修があってその帰り」
「あ、そう……」
将門は市役所で働いている。年に何度かは研修と称して色んなところに出かけているのだ。
「春香は? 学校の帰り? 一人なの?」
「友だちと一緒、だけど……」
「本当?」
きょろきょろと辺りを見回している。私が家に友だちを連れてくると、初めましてと必ず挨拶をする。こいつはそういうやつだ。人当たりが良くて、優しくて、どんな相手であろうと寄り添おうとする。
「席とりに行ってるから、ここにはいないよ」
「そうなの? じゃあ、挨拶だけしていい?」
「いいよ、そんなの」
「どうして。春香の友だちなんでしょ? あ、もしかして彼氏?」
ずきんと心が鳴った。ナイフが皮膚の上を走ったような痛みが、私を襲った。
黙って否定すると、そっか、と将門はまた笑った。
「春香ー……あ」
千紘がやってきて、私と将門を見比べてきょとんとしている。彼女にはつい最近、将門のことを話している。好きだった相手だと。
「春香がいつもお世話になっています。義兄の、百田将門です。初めまして」
「お兄さん……えっと三波千紘です。春香とは同じクラスで……」
「うん、春香といつも仲良くしてくれてありがとう。あ」
いつの間にか、私たちの順番になっていた。後ろに待っている人がいるので、まだ将門がここにいるのが気になったが仕方なく注文をした。店員さんから告げられた金額を財布から出そうとしていると、横からさっと千円札が出される。そのスーツの先には、やはり笑っている将門の顔。
「い、いいよ。悪いから」
私は小銭を探すことを諦めて、自分の千円札をその上に重ねる。店員さんはどうしたらいいのか、苦笑いで私たちを見ている。
「これでお願いします」
将門は、私が出した千円札を私の手元に返しながらそう言った。店員さんがおつりを準備している間、財布を鞄にしまいながら私に言う。
「そのおつりで千紘ちゃんの分も買ってあげて」
「え、ちょっと……」
私が慌てて追いかけようとすると、タイミングよく店員さんにおつりを返され身動きがとれない。千紘が背後で、わたわたと戸惑っているのがうかがえた。
「じゃあね、千紘ちゃん。春香、また家で」
その言葉を最後に、将門はカフェからいなくなった。
「すっごく素敵なお兄さんだね。春香にお姉さんがいるのは知ってたけど、お兄さんもいるんだね」
まさかあいつが、私の片思いの相手なんて思っていないのだろう。「兄」という言葉に思いっきり勘違いしている千紘に、どう訂正をいれようか私は迷っていた。
コーヒーが有名なカフェだけど、私の手元にはフレッシュグレープフルーツジュース。
「それにカッコいいね? 何歳くらいなの?」
「今……30歳だったかな」
「30歳かあ! 結構歳離れてるんだねえ〜でも優しそうでいいなあ。あんなお兄さん羨ましい」
「あの、千紘?」
彼女は疑いもなく、私を真っ直ぐに見ている。
「前に話したでしょ? 私が好きだった幼なじみ……あいつだから」
「え? あ、でも、百田って……」
「婿養子なんだ。だから名字も私と一緒」
ああ、と千紘は口を大きくあけたまま動かない。ようやく分かってもらえたようだ。
「だから兄とか言ってたけど、血は繋がってないほうの義兄ね?」
「そうか……あの人が……」
うんうんと頷きながら、アイスカフェラテのストローをかじっている。
「確かに、落ち着いてる感じの人だね……30歳かあ」
「千紘からしたらおじさんでしょ? だって13個上だもんね。私はあんまりそういう感覚じゃないんだ。小さいときから一緒だったし」
「歳だけ聞いたら実感ないけど、会ったら納得だよ。すごく素敵な人だもん」
真剣な顔をしてそう言ってくれるので、素直に嬉しくなる。好きな人を褒められるというのは、実に気持ちいいものだ。
「いつ、その……お姉さんと結婚したの?」
「去年。結婚話が出たのも、そのほんの数ヶ月前だったし」
「え!? そうなの?」
「びっくりでしょう。付き合ってもなかったのによ? 結婚したら?って言われて、ほいほい結婚しちゃったの。私と姉って10個歳が離れてるけど、もしそんなに離れてなかったら私だってその候補にあがってたかもしれないのにね」
笑い話にしたいのに、自分の口調に刺があるのが分かる。未練たらたらなのが情けない。
案の定、千紘は驚いたようで言葉を失っている。
「ごめん、暗い話しちゃって」
「ううん……あの、春香は、まだ好きなんだよね?」
返事を躊躇った。グレープフルーツのぼんやりとした黄色を見つめていた。その私の態度で、千紘は何かを感じ取ったようにもう将門の話をしなくなった。
千紘と別れ、家の近所のファーストフードに入る。いつも私が時間を潰している場所だ。お金を節約しなければいけないので、飲み物だけを注文して窓際の席に座った。今日は夏休みの課題が発表されたので、早めに片付けてしまおうかと早速問題集を取り出す。平日の夜のファーストフードは人が少なく、うるさくないので集中するのには最適だ。
でもあんまり早くやりだすと、夏休みやることがなくなる……そうだ、夏休みどうしよう。
学校がないと外に出る理由がなくなる。やっぱり部活に入っておくべきだったのだろうか。でも中学のときにやっていたバレーボールはもうやりたくないし……。
「あの、すみません」
知らない男の人の声がして、私は顔を上げた。
目の前には、茶髪の男の子。一瞬知り合いかと思ったが、やはり知らない顔だった。
「はい?」
「突然すみません……今、いいですか?」
「え?」
広げようとしていた数学の問題集。これが目に入らぬか、という気分だ。
「あの、俺、北高校の月島っていいます」
「……はあ」
「えーと、あの、一目惚れ、しました」
ぱたん、と問題集が閉じられる。手から力が抜けて、物を持っている感覚がなくなる。
月島と名乗った男の子は、そう言ったきり、私の言葉を待っている。
告白されるのは、初めてじゃない。でもイエスかノーで答えられない告白は初めてだ。どうすればいいのか頭をフル回転させる。
「えっ……えっと」
「彼氏とか、いますか」
いると言えば話が終わったよな、と後から思うのだが。今の私には思考が追いつかずに、嘘をつくなんてこと思いつきもしなかった。
「……いいえ」
「そうですか」
男の子はホッとしたように笑った。
「俺のこと、嫌ですか?」
急にそう尋ねられ、私はまた返答に困る。嫌も何も、知らないのだ。
だから
「嫌も何も、あなた……月島さんのこと、何も知らないです」
と言った。彼はそれを聞いてにこっと人なつこく笑う。
「じゃあ、知ってもらえませんか。俺のこと」
「……え?」
「知ってほしいんです。お願いできませんか」
例えばこれが、「付き合ってくれませんか」だったら断りやすい。知らない相手となんてすぐに付き合うことはできない人が多いだろう。
でも、「知ってほしい」と言われた。これを断ると、相手のことを知りたくもない、ということになってしまう。これはすごく残酷のような気がして。
「だめですか……?」
「でも……なんで、そこまで」
「よくここにいますよね。俺もよく来るので、いつも見てたんです。でもあなたは俺のほうなんかひとつも見ないし、このまま俺の顔も名前も知ってもらえないの辛いなと思って、今日声かけたんです」
そう言われても、どうしたらいいのか。断る方法を探していると、月島さんは一歩私に近づく。
「じゃあ、ここで会ったときだけでいいです。俺と話をしてくれませんか? 1時間でも、30分でもいいです」
「そんなの、む」
「俺と話をしたくなければ、あなたはここに来なければいい。だったらいいでしょう? 俺だって暇じゃないから毎日ずーっとここで待ってるわけじゃない。偶然、会えたときだけでいいですから」
結局私はノーと言えないまま、イエスとも言ったわけじゃないが、月島さんの半ば強引な提案に頷かされることになってしまった。このファーストフード、家から近いし勉強オッケーだし便利だったんだけどなあ。しばらく来れないや、とため息をつく。
数学の問題集は閉じたまま。
こんなふうに男の子から告白されても、今まで揺らぐことはなかった。今回だって心が揺らいだわけではないが、一瞬あることが脳裏をよぎった。
将門への気持ちを断ち切るために、もしかしたら今ここなんじゃないかと思ってしまった。