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各クラスからの声援を飛び交う中、号砲が競技場に鳴り響く。
スタートを切ったのは2年女子。ゴール前で待機している私たちは、先頭に春香の姿を見つけいっそうに歓声を大きくした。
「春香ー! 行けー!!」
応援団の真ん前にいる麻理子ちゃんが大きな声で叫んだと同時に、軽やかにゴールテープを切ったのは春香だった。
「すごーい! 1位だよ1位」
100m走に出場した彼女は余裕な表情でこちらに戻ってくる。皆に笑顔で迎えられているのを、私は応援団の後ろのほうで眺めていた。何しろ得点係なので、動きやすい位置で待機するのが基本だ。この後は私の担当である1年の障害物競走なのだ。次の学年の100m走が始まれば準備に行かなければいけない。
「百田さんて、すげー足早いんだな」
私の隣にいた江畑くんは、ぽつりと呟いた。応援に必死で彼が隣にいたのに気付かなかった。
「あ、うん。そうだよ。春香、運動神経いいんだ」
「でも帰宅部なんだよな? もったいないなあ」
ふと、春香が帰宅部だということを知っているんだ、と思った。まあでも私としょっちゅう放課後残っていたし、何かの拍子に知ってもおかしくないかと思い直した。
「中学のときはバレーボールやってたみたいだけど、高校ではしないみたい」
「へえ、何で?」
「髪の毛切るの嫌なんだって。バレー部って皆、短いでしょう?」
春香の髪の毛は、長くてさらさらで、太陽の光の下にいるときらきらと輝く。
「ははっ、確かに。ショートよりは、ロングのほうが似合うな」
「そうでもないよ? 中学のときの卒アル見せてもらったけど、ショートでも相変わらず美人だった」
見てみてえなあ、と江畑くんが笑いながら言うから、少しだけ嫌な予感がしてしまった。
なんて返事をすればいいのか分からず、思わず黙る。
「ねえ、見せてほしいって頼んでよ、卒アル」
なおもそう言ってくる江畑くん。誰にでもこんなことを言うのか、判断できない。
「……私も、春香が嫌がるの無理矢理見せてもらったから……多分、無理。ごめんね?」
「そっかー。残念。見てみたいなあ、百田さんのショートヘア」
どうして今日に限って、彼がこんなにも春香のことを話すのか分からない。
唯一の救いは、今木下さんがこの場にいないということだ。彼女は得点係の仕事で100m走の応援には参加できていない。
そうこうしているうちに、皆の祝福を受けきった春香が私たちのところへやってきた。髪の毛は涼しげに揺れている。
「お疲れさまー。すごかったね」
江畑くんは気軽に、春香に話しかける。
「うん。走るのは、苦手じゃないから」
おそらくあまり江畑くんと話したことのない春香は、面食らったような顔をしつつも答えた。
背が高くてがっちりしている江畑くんと、すらっとして美人の春香は、こうやって見ているととてもお似合いに思えた。しばらくぼうっと二人の会話を聞いていた私だが、木下さんのことを思い出し首を横に振る。
「……千紘? 大丈夫?」
「え?」
私の様子が変だと思ったのか、春香が心配そうに言う。
「平気、大丈夫だから。あ、もう、2年の終わった?」
スタートラインを見ると、2年生が着る体操着とは違う色が並んでいる。うちの高校の体操着は、学年ごとに入るラインの色が違うのだ。
「終わったみたい。千紘、行く?」
「うん、行ってくる。じゃあね」
「がんばれー」
2年の出場が終わったので解散しかけている応援団を抜けて、まずは本部で得点表を受け取る。次はゴール地点で待機。頭の中で何度も復習した手順を思い出しながら、私はその場所へ向かった。
障害物競走のあと、2年男子の大玉ころがしが終われば借り物競走だ。去年は自分が参加する種目以外は暇で早く終わらないかと思っていたのに、今年は運営委員という仕事があるせいで目まぐるしく時間が過ぎていく。私はあっという間に、スタートラインに立っていた。
数十メートル向こうに見えるのは、応援してくれているクラスメートたち。そして視線をもっと手前に移すと、お題の入れ替えをするためにスタンバイしている大谷くんが見えた。それはますます私を緊張させて、前のレースを見ておこうと思っていたのにすっかりと忘れてしまっていた。
「よーい……」
なぜかその合図の声を他人事のように聞いていた私は、号砲が鳴ったにも関わらずすぐに反応できず、他の子たちの背中が遠ざかっていくのを見て初めて出遅れたということに気付いた。
「やばっ」
思わず声に出して走り出すも、お題を手にしたのは一番最後だった。
考えることは置いておき、とりあえず紙を開く。それを見て私は、自分がどこに行くべきなのかすぐに思い当たった。それに該当する人は、一人しか知らないのだから。
でも、どうしよう。余計な一言が書いてあるせいで、私を躊躇わせていた。
他の子たちも右往左往しており、まだゴールに向かってはいない。
「千紘ー!」
名前を呼ばれ、顔を上げる。目の前には応援してくれているクラスメート。
「何て書いてあるの? 早く、今なら1位狙えるから!」
麻理子ちゃんは一番前で、こちらへと手招きをしている。
応援団の真ん中あたり、頭の飛び出た人を見つけてやはり躊躇する。もし昨日木下さんとの会話がなかったら、ラッキーとばかりに迷わず頼れた。
「探したげるから! 何て書いてあるの?」
競技としては反則だけれど、麻理子ちゃんの申し出はすごく有り難い。でも正直に言えば、その人が前に出されるのは分かりきっていることで。
そのとき少し向こうで、違うクラスの子がその準備をしているのが視界に入った。
もういい。しょうがない。
「え、江畑くんっ!」
びっくりしたような江畑くんは、「俺?」と首を傾げている。わけも分からないまま前に出されてきた彼に、お題の紙を見せた。
「サッカー部員と、二人三脚?」
私は頷いた。どうやらお題が人の場合、必ず二人三脚でゴールするよう指示されているみたいだ。
「……よっしゃ、三波さんハチマキ貸して」
自分の頭に巻いていたハチマキを慌てて外し、江畑くんに渡すとすばやく私と自分の片足を結んだ。
「俺引っ張るからついてきてね」
「え? う、うん……分かった」
その返事と同時に勢いよく肩を組まれる。ふわっと制汗スプレーの匂いがした。
「せーの、」
いち、に、と刻まれるリズムの速度は私が思っていたよりもずっと早い。最初はまだ向こうに見えていた、二人組はもう目の前まできていた。
「よし、追い抜いた」
江畑くんが右手でガッツポーズをしてそう言ったことに気を取られて、私は体のバランスを崩してしまう。右足を引っ張られるようにして江畑くんに体重をかけてしまい、ゴールテープを切ると同時、視界がぐるんと上下逆になっていくのが見えた。
「ったあ……」
何が起こったのかよく理解できないまま、手をついて起き上がる。
「三波さん!? ごめん、へーき?」
江畑くんは私の体を支えながら、立ち上がるのを手伝ってくれた。
「ううん、ごめん。私、体重かけちゃって……」
「いーって。俺のほうは全然大丈夫だから。それにしてもぎりぎりだったなあ」
そう言われて改めて周囲を見回すと、私たちと少し離れた場所で二人三脚のハチマキをとっている二人組が見えた。さきほど私たちが追い抜いた相手だ。他の子たちもどんどんとゴールしてくる。
「……あ、ごめん、ハチマキとるね」
足元にしゃがみハチマキの結び目をほどこうとするも、さきほど焦って固結びをしてしまったためになかなか解けない。
「三波さん、ここ邪魔になるっぽいから、向こう行こう」
頭上からそう言われ、一度立ち上がる。どうしても片足ずつがくっついているため、歩くときも体を寄せ合うことになってしまう。今さらながらに恥ずかしさがこみあげてくる。江畑くんのことは何とも思っていないし、これによって恋愛感情も生まれないけれど、もしこれが大谷くんだったら恥ずかしすぎて死んでしまっているかもしれないと思うほどだった。
お昼休み。トイレから出てきたところで、木下さんを見つけて思わず追いかけた。
「木下さん!」
他の友だちと一緒だった彼女は私を見つけて、すぐに笑顔になる。それに少しホッとした。
「三波さん、お疲れー。やっと半日終わったね」
「あの……私、さっき」
「あ」
言おうとしたことを察したのか、木下さんは目を大きくして私の言葉を遮る。その後隣にいた友だちに「先に行っておいて」と断って、トイレ脇の影に私を呼び寄せた。
「……もしかして、さっきのこと?」
困ったように作られた笑顔は、可愛いけれど切ない。私はこくんと頷いた。
「全然、気にしてないよ……って言ったら嘘になるけど。しょうがないよ、うちのクラスでサッカー部はあいつだけだし」
「でも……私、木下さんの気持ち知ってて」
「本当、気にしないで? そんなことよりさ」
彼女は私の手を引いて、トイレから離れる。更衣室やシャワー室を通り過ぎると、競技場の出入り口が見えてくる。勝手に帰らないように先生が見張っているけれど、今は昼休みのためそれも手薄になっているようだった。木下さんは左右をそっと確認したあと、競技場の外に出た。
「さっきね、こっそり外に出たときに見ちゃったんだ」
促されてそちらを見ると、視線の先に駐車場の影になっているところでストレッチしている大谷くんがいた。地べたにぺたりと腰を下ろして、足を伸ばしている。
「……三波さん?」
私は黙ったまま、木下さんに視線を戻す。
「多分あいつ、ご飯食べないでああやってるの」
「そうなん、だ」
「声かけてくれば?」
そうやって言ってくれる木下さんは、胸が苦しくなるほど優しい。さっきのことをまだ後ろめたく思っている私は、素直にその優しさを受け入れることができなかった。
「でも、迷惑になる、かも」
私がそう言うと、木下さんはふうと息を吐いた。
「不思議なんだよねえ。昨日、大谷くんは三波さんのこと嫌ってたとか言ってたでしょう? 何があったのかは知らないけど、多分、そんなふうには思ってないんじゃないかな。三波さんが好きなら、絶対今頑張ったほうがいいと思う」
「……うん」
木下さんは繋いだ手を嬉しそうに振り、頑張れ、ともう一度私の背中を押した。
駐車場の手前で自動販売機を見つけ、かろうじて持っていた小銭で小さいペットボトルのスポーツドリンクを買う。すぐに水滴が滲んでくるそれを両手に持って、こちらに背を向けている大谷くんに近づく。
自分一人では絶対にこんなふうに行動できない。もし結果がだめでも、春香や木下さんが話を聞いてくれると思うと、何だか前向きになれた。震えそうになる声で、呼びかけた。
「大谷くん?」
私の声に気付き、すぐに振り返った顔は少し驚いている。固い空気が漂っていることは分かっている。わざとらしく笑いながら、手に持ったペットボトルを彼のほうへ差し出す。
「これ、差し入れ」
大谷くんはペットボトルを見てから、もう一度私を見る。やや間があってから、やっと笑った。
「ありがと」
一歩近づきペットボトルを渡す。
目が合ったままで、動けない。このまま「じゃあ」と踵を返すのも違うような気がして、ゆっくりと大谷くんの隣にしゃがんだ。何を話すかなんて決めてないし、分からない。
「……あのさ」
少し時間を置いたあと、口を開いたのは彼だった。
大谷くんは手を右膝に置いたまま。小柄なのに、手の甲に太い血管が浮かんでいて男っぽい。私とは違う、その体のつくりにドキドキした。
「あの約束、覚えてる?」
私は返事をする代わりに、大谷くんの目を見た。
「あれ……何か、意味不明だと思ってるだろ?」
「……うん」
1500mで1位になったら許してほしい。
「俺も、自分で自分が、意味不明なんだけど」
んはは、という笑い声が聞こえた。
「最初は、三波さんに謝るだけのつもりだったんだけど」
「うん」
「何でかなってずっと考えてて、俺は自分が楽になりたいんだなっていう結論に至った」
「楽に、なりたい?」
私が首を傾げると、大谷くんも同じように首を傾げた。
「うん。免罪符みたいなもん」
めんざいふ。めんざいふ?
それ何って聞いたら、ばかっぽいかな。確かに馬鹿なんだけど。いや、やめとこう。家に帰ったら辞書で調べよう。
「対等に、なりたいんだ」
「え……?」
「三波さんと、対等に」
ペットボトルの蓋が、ぎゅっと音をたてて開かれる。
大谷くんはそれを一気に半分ほど飲み干すと、小さくため息をついた。
「じゃないと、先に進めないから」
そう言って大谷くんは勢いよく立ち上がる。私がしゃがんだまま彼の顔を見上げると、気まずそうに視線をそらされた。
「ありがとな、これ」
ペットボトルを軽く振って見せる。私も慌てて立ち上がった。
私と大谷くんは、少なくとも彼の中では対等ではないというのか。彼の言った言葉の意味を、読み取ろうとして失敗する。
もしかしたらその言葉に深さはないのかもしれない。
どういう意味なのか聞こうと思ったが、少し悩んでやめた。
「……応援してるね」
これが、精一杯だった。
私の一言に振り返った大谷くんは、「うん」と確かに頷いた。