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競技場をふざけて走り回っている男の子がいる。私はその様子を遠目に見ながら、学校からトラックで移動されてきたパイプ椅子を競技場内に運んでいた。
「あっつう……さっさと日い沈んで……」
隣でそう呟くのは木下さん。私たちは両手に一脚ずつ、一人で二脚運んでいる。少し前にはその二倍の数を運ぶ大谷くんと江畑くんの姿。大谷くんはさすがにいつも締めているネクタイをはずし、シャツの裾もズボンから出していた。
「えーと、この後は、テント設営手伝うべき?」
江畑くんが面倒くさそうな顔で私たちを振り向く。私たちの数メートル向こうでは、3年生たちがテントの骨を組み立てているところだった。何となく楽そうなパイプ椅子運搬の仕事をゲットできた私たちだけれど、楽なだけに早く終わってしまうわけで。終わったからといってさっさと帰るわけにもいかず、他にできる仕事を探しているのだ。
「あ、江畑、三波さんっ」
木下さんがパイプ椅子を一脚持ったまま、競技場入り口を指差す。
「トラックきた! あれ運ぼう」
彼女の指差す先には、先生が運転するトラックの荷台に積まれた木製の机や、放送機具など。目を輝かせながら走り出した二人に、私は思わず笑ってしまった。何が何でもテント設営したくないんだなあ、としみじみ思った。
「……みな、みさん」
ぎこちなく呼ばれる名前。私が顔をそちらに向けると、目が合う。
「それ」
パイプ椅子のことだ。私の両手には、一脚ずつ。大谷くんの近くにそれを積み上げているので、貸してくれということだろう。たくさん運んできたので、それは私の胸くらいの高さにまでなっていた。二脚を重ねて、大谷くんが持ち上げやすいように横にして渡す。
「ありがとう」
「……うん」
渡す瞬間、私の手のひらに大谷くんの腕があたる。ほんの少し触れただけだ。なのに私は心臓が飛び上がるような思いで、表情にそれが出ないようぐっと我慢した。
「そういえば」
私は昨日から、ずっと考えていた。大谷くんと喋る機会があれば、何を話そうか。
「道具係、何するの?」
そんな、普通のこと。何でもないこと。それで精一杯だった。
「二年女子の、借り物競走」
「……え?」
意外すぎる答えに、私は無防備に口を開けたまま驚いた。
借り物競走は、私の出場する種目だ。
「そう、なんだ」
「……うん。借り物競走は、地味に面倒くさい」
何走か行われるので、その度に小道具を出し入れするのは確かに手間だ。借り物競走は二年女子のみが出場する種目で、どんな借り物が設定されているのか去年のことがよく思い出せない。そもそも他学年の種目なんて真剣に見ていない生徒が多かった。
「あの……借り物って、どんなものが出るの?」
「ん?」
「えーと、借り物の」
私は手のひらを裏返すジェスチャーをしてみる。
「だめだよ」
大谷くんはまっすぐに私を見ていた。
「三波さん、借り物競走出るんだろ」
がんと頭を殴られたように、一瞬呆然とする。なんてことを、私は。
またやってしまった。今度こそ幻滅された。おろおろと言い訳にもならない言い訳を無意識に考えていると、頭の上でかすかな笑い声が聞こえた。
「うそ、だよ」
「……へ?」
「三波さん、まじめすぎ」
笑い声はさっきよりも、少しだけ大きくなって私の耳に届いた。
「お題だよな? さっき荷物に入ってたからちらっと見たら、おもしろそうなのは『田中さん』とか」
「た、田中さん!?」
思わず大きな声が出た私に、大谷くんは「しー」と人差し指を自分の口にあてる。
その仕草が切り取って額にいれたいほど可愛くて、私はぼうっと見惚れてしまった。
「人じゃなくて物の場合は、少し難しくしてるみたい。ガラケーとか。今はほとんどみんなスマホだもんな」
「確かに、ガラケーは見つけるの難しそう……」
「人の場合は、『田中さん』もそうだけど、例えば、『帰宅部の人』とか」
その言葉に、私はすぐに適任が思い浮かぶ。
春香だ。友だちの彼女なら、おそらくゴール前で私のことを応援してくれているだろう。
「もし三波さんに『帰宅部の人』が当たったら」
大谷くんは少し遠くのほうを見ながら、また笑う。
「俺が一緒に走ってやるよ」
帰宅部だから、と照れくさそうに付け足した。
もうまともに返事なんてできなくて、私は俯くしかなかった。『帰宅部の人』が当たってほしいけれど、そんなことになったら嬉しすぎて倒れてしまうかもしれない。
「ちょっとおー」
木下さんの声が、向こうで聞こえる。
二人してそちらに顔を向けると、長机を江畑くんと運ぶ彼女の姿。手伝わなきゃ。
大谷くんは必死そうな彼女の顔を見て、小さく笑った。
競技場での準備が終わり、最終確認を係ごとに行った。明日になってみないと実際の動きなどは分からない部分もあり、自分にこの仕事が務まるのかどうか不安だ。他の係はとっくに解散になっている中、やっと終わったと木下さんと並んで競技場を出る。
「あ、江畑と大谷くん」
出入り口のところに、二人を見つけた。もしかして待っていてくれた? 私の期待は高まる。
「お疲れ。長かったなあ、得点係」
「そうなんだよー。確認することが多くてやんなっちゃうよ」
木下さんがうんざりしたように言う。
自然に一緒に歩き出した。やっぱり私たちを待っていてくれたようだ。嬉しくて頬が緩むけれど、変に思われないようにしっかりと唇を引き締めた。
「そうだ、大谷くん明日頑張ってね。応援してるから」
木下さんは、前を歩く大谷くんにそう言った。1500mのことだ。それを聞いた江畑くんも半分からかうように付け足す。
「皆でゴール前で構えとくから。胴上げするために」
1500mの優勝者はクラス全員に胴上げされる、という妙な伝統がある。江畑くんはこの間、「1位は難しいだろう」なんて言っていたけれど。
「いいよ、俺、胴上げは」
大谷くんは少し俯きながら、頭を掻く。
「何でだよー。応援してるからさ。なあ?」
同意を求めるように、江畑くんは私たちを振り返る。もちろん、と即答したのは木下さん。なのに私は何も言えなくて、助けを求めるように木下さんを見た。
「……あ、そっか。三波さんは1500mの得点係だから、胴上げ参加できないんだ」
「マジで? 三波さん、1500m担当なの?」
驚いている江畑くんの隣で、大谷くんは何も言わずに私を見ていた。その視線が少しだけ痛くて、慌てて唇を引き締め直した。
「せっかくクラスが団結する瞬間なのになあ。残念だな」
「そうだよねえ。まあ、実際胴上げするのは男子だけで、女子は見てるだけだからいいんじゃない?」
「そーいう問題じゃないだろ? その場で一緒に盛り上がりたいじゃん」
江畑くんと木下さんが会話を続ける中で、大谷くんは前を向いて歩いていた。
駅前に自転車を停めていた大谷くんと、電車通学の江畑くんと別れる。私は、学校の近くに住んでいるという木下さんと二人きりで歩いていた。
他愛もない話をしているはずなのに、時々訪れる沈黙。何度目かのそれで、木下さんが切り出した。
「……三波さんて、好きな人いないって、本当?」
前に多目的教室で話をしていたことがある。私はあのときほど強く頷けない。否定しない私の顔を、木下さんはじっと見ていた。
「何か、ごめんね? こんなふうに問い詰めたいわけじゃないんだ」
「ううん、はっきりしなくて、ごめんなさい」
「違うの。だって、そんなの仲良くないと言えないもんね? 私と三波さんて、今回一緒に運営委員することにならなかったら、クラスでも挨拶する程度だったし。そんな人相手に、大事な話できないよね」
どうしてそんなに、こだわるのだろう。彼女の様子からして、ただ単に興味本位ではなさそうだ。暇つぶしに恋愛話がしたいというふうにも思えない。
「でも、私、嬉しいよ。木下さんと仲良くなれて」
私は小さいときから人見知りで、小心者で、なかなか同性同士でも打ち解けにくかった。だから最初から気のあった春香や、ぐいぐいと私に絡んでくれる麻理子ちゃんは有り難い存在だ。木下さんも話しやすくて本当に助かった。
「うん、私も嬉しい。でも……時々怖い」
「え……私が?」
「うん。ごめんね。こんなこと言ってごめん」
何度目のごめんなんだろう。いつも元気で明るい木下さんらしくなかった。
「教えてくれないかな? どうして、私が怖いの?」
立ち止まる。もうすぐバス停だけれど、そこに男の子の集団を見つけた。きっとそちらに行ってしまうと木下さんが喋るのを躊躇ってしまうと思ったから。
彼女はゆっくりと私に顔を向ける。気のせいかもしれないが、少し涙ぐんでいるように見えた。不謹慎かもしれないが、とても綺麗な人だと思った。
「……私、江畑が好きなんだ」
木下さんが、江畑くんを。
「そう、なんだ……」
そんな言葉しか返せなくて、自分が情けない。
「一年のときから、ずっと、好きで……本当は、サッカー部のマネージャーに、なりたかったんだけ、ど……」
ぽろり、と粒になった涙が彼女の頬を伝う。私は自分の鞄からハンカチを出して、木下さんのつやつやとした肌にあてた。
「ありがとう……」
「ううん。聞かせて?」
「うちのサッカー部、女のマネージャーはとらないって、聞いて。体育館からなら、運動場の様子見れるから、バスケ部のマネージャーに、」
「うん」
相づちをうつのが精一杯だった。木下さんの精一杯の告白は、大谷くん相手に何もできない自分を浮き彫りにさせた。きっと彼女が体育委員なのも、江畑くんとの共通点が欲しかったからなのだろう。
「今日、話してるときね? 普段もそうなん、だけど」
「うん」
「江畑って、何かと、三波さんのこと気にかけてる」
「……ええ? そう、かなあ」
そんなこと私自身は全く思ってなかった。確かに江畑くんは優しいし、親しみやすい男の子だ。でもそれは私だけじゃなくて、木下さんにだって同じように接していると思う。
「なんか、そういうふうに見えちゃうの。だから、私、時々怖くなる」
「……そっか。うん」
「ごめんね? ……あー、もう」
木下さんはまた謝った後、すごくうんざりしたようにその場にしゃがみ込んだ。
「ごめんごめん、ごめん」
「どうしたの、木下さん?」
同じように私もしゃがみ込む。視界の向こう側で、バス停に溜まっている男の子たちが何事かとこちらを窺っているのが分かった。
「すっごい、やな子だよね? ごめん」
「そんなことないよ。私、木下さんの気持ち分かるもん。そういうふうに思っちゃうのもすごく分かる。だから、もう謝らないで」
「ううん。もう病気なの……江畑のこと考えてると、病気みたいに、周りが見えなくなる」
そんなにも、江畑くんのことを。
私に彼女にできること、それは一つしかない。
「木下さん、私ね」
しゃがんでいるため、近い距離で目が合う。
「……大谷くんのこと、好き、なんだよ」
木下さんの大きな目が、さらに大きくなる。
春香以外にこのことを言ったのは、木下さんが初めてだ。でも私は迷わなかった。木下さんが正直に話してくれたことも嬉しかったし、私も自分のことを知ってほしいと思った。
「おお、たに?」
「うん。でも、嫌われちゃって諦めなきゃって思って、でも無理だって思って、まだ好きなの」
「嫌われる……? 大谷くんが、三波さんのことを?」
少し笑いながら頷く。
「そんなふうに、見えない」
「……今は、よく分からない。でも、ちょっと前までは嫌われてたと思う」
「そっか……そうだったんだ」
力が抜けたように、木下さんは膝を抱える。
「でも……良かった。三波さんがライバルじゃなくて」
「ライバルなんて、あり得ないよ」
「……知ってる? 三波さん評判なんだよ。女子の間では」
え、初耳だ。正直、自分が評判になるような要素が見つからない。
「……胸。でっかくて、羨ましーって。しかも色白だし」
は? むね?
自分で自分のそれを見下ろす。私の身長だったらSサイズでいいはずのシャツは、母の判断でMサイズが買われていた。それはただ、私がデブだからだと思っていたけれど。
「体育の着替えのときとかさあ、皆の注目集めてるの知らないでしょう?」
「わ、私って、でかいのかな?」
「えー!? 自覚なし? それはそれでむかつく……」
そういえば、麻理子ちゃんはやたらと私の胸を触る。もちろん女同士なのでやらしい意味ではないのだろうけれど、よく触ってはため息をついていた。
「確かに制服着てたらあんまり目立たないし、体育も男女分かれてるから、気付いてるのは女子ばっかりだけどね? 三波さん、それは強力アイテムだから大谷くん以外に使っちゃだめだよ」
使うって、何に。そう聞こうと思ったけれど、ちょっと怖くてやめた。
「とありえず、分かった」
「……うん。頼んだよ」
うんうんとお互いに頷き合って、ようやく立ち上がる。いつの間にかバスは来ていたのか、もうバス停に男の子の集団はいなかった。
「あ、気になることがあるんだけど、聞いてもいい?」
私はふとあのときのことを思い出していた。多目的教室で、好きな人のことを聞かれたとき。
「木下さんね、橋本くんがタイプって言ってたじゃない?」
「あー……うん。それは本当だよ?」
「じゃあ、好きな人と、タイプは別ってこと?」
私がそう聞くと、木下さんは考え込むように腕を組んだ。
「変だけどさ、何で江畑を好きなのか、理由がよく分かんないんだよね。顔とかじゃないんだと思う、多分。顔なら、断然橋本くんなんだけどな」
私からすれば、江畑くんだって男前のほうだ。身長も高いし、サッカー部で活躍している。モテるはずなのに、ひけらかすようなこともしない。
「でも、病気なんだよね。江畑病」
ふふふ、と木下さんは可愛く笑った。
じゃあ私は、大谷病? 何だか可笑しくて、私も笑った。
「明日、がんばろうね」
「うん。大谷くん、1位になるといいね」
許してくれ、と言った大谷くんの言葉を思い出した。もちろん1位にはなってほしい。もしそうなったら、私はどうするんだろう。顔が曇っていたのだろう、木下さんが覗き込んでくる。
「心配?」
「……ううん。応援、する」
「そうだよね。場所は離れてるけど、一緒に応援しようね」
好きな人を打ち明け合ったからか、私たちには妙な一体感が生まれていた。お互いの深い部分をさらけ出すことによって、言葉には出さないものの協力関係を結んだような気持ちだった。