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高2の一学期期末テスト。私は少なくともこの一年以内で一番勉強した。さすがに高校受験のときには劣るが、高校に入って初めて真剣に机に向かい続けた。勉強は便利だ、忘れたいことを忘れさせてくれる。時間が経つのを早めてくれる。学校が終わるのも早くなるから、大谷くんといる時間も短くなる。
ただ今日でテストも終わりだ。放課後には2回目の運営委員会がある。でも今日の委員会は、係に集まっての打ち合わせだから大丈夫かな。近寄らないと宣言したからには、徹底的に守らなければと思っていた。
「三波さん、今日私、先に部活行くから現地集合にしよ」
木下さんは朝、そんなふうに私に告げてきた。
テストは昼過ぎに終わったが、委員会は夕方4時からだ。この中途半端にあいた時間をどうしようかと思ったが、春香が付き合ってくれることになった。
「どっかで暇つぶす? せっかくテスト終わったのに図書室で勉強っていうのもね」
もっともだ、と私も頷く。
「じゃあ、ドーナツ屋でも行く? あそこなら近いし」
「そうだね。駅近いから、春香もそのまま帰れるもんね」
あの日から私たちがよく行くようになったドーナツ屋。カフェオレとコーヒーが飲み放題なのも嬉しい。
教室を出るとき、どうしても目がいきそうになる方向。でも見ないように、頑張る。視線が合うのだって嫌なはずだから。
春香にも、大谷くんとのことは話していない。
心配をかけたくないというものあるし、これ以上自分の情けない姿を、信頼している相手にも見せたくないというのもある。
諦めるというのは難しい。忘れるのはきっと、もっと難しい。
いつか乗り越えられるのかな。大谷くん以外の人を好きになれる日は、くるのかな。深呼吸を何度もして、落ち着けと自分に言い聞かせた。
春香と別れて、再び学校に戻ってきた。今度はしっかり鞄を持って、多目的教室へ向かう。階段を上がっていくと、だんだんと賑やかな声が聞こえてくる。もう結構集まっているのかな、とポケットに入っている携帯電話を確認した。3時55分。少しぎりぎりになった、と歩幅を広げると階段の踊り場に影が見えた。私より少し高い身長に、リュックを背負ったそれは、私の足音を聞いてゆっくり振り返った。
「……おお、たに、くん」
話しかけてしまった、と口を噤む。近寄らないって約束したのに、まずい。
「三波さん」
あと5分で、委員会が始まる。彼の横を通り抜けて教室に行きたいのに、そうさせてもらえない。彼はその場を遮るように、立っているから。
「委員会、4時から、ですよね」
だから通してほしいと、そういう意味を込めたつもりだった。
でも大谷くんは返事をするだけ。
「うん」
「遅れ、ちゃいますよ」
「さぼっちゃおうよ」
さぼってしまおうと思っているのに、どうして多目的教室まであと数歩のところにいるのだろう。私は分からなくて、首を横に振る。
「俺の話、聞いてほしいんだ」
「……話?」
「誤解してるのは、三波さんだよ。俺は……俺が、謝りたいんだ」
謝りたい。どうしてそうなるの、私は目で訴える。
「ひどいこと言ってごめん。許して、ほしいんだ」
私はまた首を横に振った。
「どうして……違う……」
「……俺、なんていうか、機嫌悪かったんだ。そーいうとき態度悪いって友だちにも言われたことあって、気をつけなきゃって思ってたんだけど、どうしてもあのとき」
私がノートを、勝手に。
そのとき、大谷くんは機嫌が悪かったのだ。鋭い声、睨むような目。今でも蘇ってきて、怖い。悲しくなるその表情。
「八つ当たり、だったと思う……本当にごめん。すぐ謝ろうと思ったんだけど、今まで喋ったこともあんまりないし、急に話しかけても驚かせるかなと思って……っていうのは違うな、言い訳っぽいのは嫌なんだ。上手く言えねえんだけど……話しかけたいんだけど、難しいっていうか」
「でも、悪いのは、私で」
大谷くんが怒るのは当たり前だ。八つ当たりでもなんでもない。
「違う」
大谷くんの声が、大きくなる。
「頼みがあるんだ」
「……頼み?」
「俺、1500m走るだろ」
半ば無理矢理に、決められた出場種目。
「あれ……1位になったら」
現役陸上部がわんさか出場するそれに、元陸上部で今は帰宅部の大谷くんが出る。どういう結果になるのかなんて、私にとっては見たくない現実だった。
「俺のこと、許してほしい」
私が、大谷くんを許す?
「俺、死ぬ気で1位目指すから、そしたら、俺のこと」
大谷くんはもう一度、許してほしい、と頼りなく呟いた。
夕方4時を少し過ぎた頃、私は委員会に合流した。得点係の集まりを見つけ、慌ててその輪に入る。
「あ、三波さん」
木下さんを見つけて隣に座ると、ちょうど種目ごとの動きを確認していたところだった。
「まだうちらの種目の説明には入ってないよ」
「良かった。ごめんね、遅れちゃって」
「ううん。中途半端に時間空いちゃったもんね」
彼女は制服ではなく、ジャージ姿だ。おそらく部活の途中、抜け出してきたのだろう。そういった人は他にも多い。
「そういえば、大谷くん来てないみたいなんだよね」
木下さんが教室をぐるりと見渡しながら言った。私はそんなことしなくても彼がいないことは分かる。あのことを私に告げて、そのまま階段を下りて本当に帰ってしまった。結局あの頼みごとに返事はしなかった。だって私は許してなんて言ってもらう立場じゃない。私が許してもらいたいくらいなのに、どうしたらいいのだろう。
「……では綱引きについて。担当は小池さん、三波さん、東条くん」
名前を呼ばれ、慌てて筆箱からペンを取り出す。
「綱引きは3年、2年、1年の順に行います。担当学年の前の競技、例えば1年担当の東条くんは、2年が行われているときにスタンバイしてください。綱引きは各学年トーナメント制です。1組と2組、3組と4組、5組と6組、7組と8組の計4回が一回戦、一回戦の勝者4組で準決勝、準決勝の2組で決勝を行います。優勝チームに30ポイント、準優勝チームに15ポイントを加算します」
メモしきれない。競技自体は去年と同じだからルールは分かっているが、これを当日管理しきれるのだろうか。しかも私の担当は3年だから、成績報告が終わったらすぐに自分のクラスに合流しなくてはいけない。生徒も移動するから時間はあるものの、かなりバタバタしそうだ。
「次に、男子1500mと創作ダンス。どちらも三波さん」
整理しきれていない私に、容赦なく説明は続いた。
「1500mは学年関係なく一斉スタートで、一回戦しかないので、1位から5位までにポイントを加算します。1位が50ポイント、2位が40ポイント……」
綱引きに比べて、1位のポイントがかなり高い。学年が関係なく行われるし、終盤の種目なのでそれだけ注目度が高いということだろう。さっき大谷くんが言った、「1位をとったら」の言葉が蘇る。どういう思いを込めてそんなことを言ってきたのか、知りたいようで、怖い。
「……創作ダンスですが、三波さん、聞いてる?」
急に問われ、私はハッとした。油断すると、余計なことを考えてしまう。
「す、すみません。聞いてます」
「担当一人だし、加算の多い種目だからしっかり頼むね?」
「はい、すみません」
頭を下げると、3年生は再び口を開いた。
「創作ダンスは、3年の各クラスが約5分間順番に披露します。審査員は通年通り、校長、教頭、各学年担任と、来賓の方々の予定。三波さんは審査員が座っているテントの近くで待機してもらって、審査用紙を回収後、本部で集計してください。優勝が100ポイント、準優勝が50ポイント、3位が30ポイントです」
伝えられる言葉から、重要なことだけを選んでメモする。あとで整理しないと忘れそうだ、と私は頭を掻いた。
「じゃあ次……」
自分の当番になっている種目の説明が全て終わり、改めてメモを見返す。綱引きと創作ダンスは大して難しくはなさそうだが、プレッシャーなのは1500mだ。私は冷静にその行方を見ていることができるのだろうか。大谷くんが1位にならなかったら、私は彼のことを許せないのだろうか。いや、違う。彼の言っていること自体が見当違いなのだ。許してもらうべきなのは、私で。
ちゃんとその場で立っていられる自信がない。いつの間にか私の手は、震えていた。
多目的教室を出ようとしたところで、江畑くんがこの間のように話しかけてきた。
「テスト、マジでやばい。俺大学行けるのかな」
「え、江畑って進学希望なの?」
「一応な。兄ちゃんが進学したから、俺もって親がうるさくてさ」
二人の会話を少し後ろからついていきながら、ぼんやりと聞いている。
「そういえば今日、大谷くんいた? もしかしてさぼり?」
木下さんが彼の名前を出したので、思わず顔をあげてしまう。
「あー、なんか、練習してるらしい」
「練習?」
一切会話に参加していなかった私が声を出したので、江畑くんがこちらを振り向いた。
「ほら、あいつ1500m出るだろ? 中学んとき陸上やってたって言っても、体なまってるからって最近学校終わった後とか走ってるっぽい。健気だよなあ、クラスあげて応援してやろうぜ」
「すごいね、1位になっちゃったりして」
木下さんが無邪気に笑う。もちろん1位になってほしいが、複雑な心境の私は愛想笑いしかできないでいた。
「いや、修には悪いけど、1位は無理だろー。なんたって現役陸上部がごろごろいるんだし。5位に入れれば大したもんじゃないのかなあ」
「そっかあ。なあんだ、残念」
江畑くんがそう言ったことによって、私の中の不安はまた大きくなる。
「5位まではポイントつくんだよね。だったよね、三波さん?」
木下さんにそう尋ねられ、私は咄嗟にメモを思い出した。でも、大谷くんのことで頭がいっぱいで、なかなか思い出せない。
「……確か、うん。そうだね」
「まあ総合優勝は無理でも、学年優勝はしたいよねー。どうせ総合優勝は3年のものだし」
体育祭は、各学年クラスごとに争われる。そのため100m走や借り物競走などでちまちまポイントを稼ぐよりも、どんとポイントを稼げる1500m走などで勝ったクラスが有利となる。ただこの体育祭の仕組み自体が、3年が総合優勝しやすいようになっていた。私の担当になっている創作ダンスが、3年単独の競技であることがそれをよく表している。
二人と別れ、一人学校の近くにあるバス停に向かう。体育祭までわずか一週間。期末テストが終わったことによって、授業はすべて午前中で終わり午後の時間は体育祭の準備や部活動にあてられる。全部忘れて逃げ出せたら、どんなに楽なことだろう。照りつける夕焼けの向こうに、なかなか私の乗るバスはやって来ない。
待ちきれない私は、家の方向へ向かって歩き出した。
歩いたら一時間以上かかる距離なのに、どうしようとしているんだろう。少し歩いただけでもじんわりと汗がにじむ。鞄からタオルハンカチをとりだし、そっと額にあてた。
大谷くんのことを好きだと自覚したのは、同じクラスになって間もないときだ。ほぼ一目惚れといっても過言ではない。不思議と一人の男の子ばかり目で追っている自分に気がついた。少し伸びた髪の毛を爽やかになびかせて、いつも男の子の輪の中にいて楽しそうにしてる。そんな些細なことの、積み重ねだった。彼を構成する色んな要素が、私を夢中にしてしまう。顔が、声が、その心が。
彼のことなんて何も知らないのに。
私は息をふうと吐いて、大きな通りを見渡した。いつもはバスに乗って眺めているこの場所も、こんなに長く広い道だったのだと初めて知る。
正直、あの日大谷くんにあんなことを言われてショックだった。もちろん自業自得なのだから文句は何もないが、あんなふうに人を咎めることがあるのだと。
この通りをまっすぐに歩くと、そのうちに一つの町を越える。私の家はまだ遠い。
学校に引き返せばまたバスはやってくるけれど、と心の中のもう一人の自分が言う。少し考えて、ううんと頭を横に振った。私はやっぱり今、歩きたいのだ。自分の足で、しっかりと前を見据えながら。遠くても険しくても、足を前に出せば後ろには戻らない。そう心に強く信じて。