22
ある日珍しく、僕たちの部屋をノックする音がした。冬奈は今日、友だちと出かけている。僕は掃除をして適当に過ごしていたが、飽きてきてだらだらと雑誌を読んでいたところだった。
「はい」
「あ……春香、だけど」
立ち上がり、戸を開ける。春香はちょっともじもじした様子で、僕の顔を見てそのあと部屋も見渡した。もともとは春香の部屋だったところの壁をぶち抜いて、僕たち夫婦の部屋になった。家のリフォームも兼ねていたので、彼女が使っていたときとは雰囲気も変わっているのだろう。
「平気? お姉ちゃんは?」
「冬奈は出かけたよ。今日は夕方まで戻らないから、おいで」
部屋に通すと、きょろきょろとしながら春香が入ってくる。
真ん中にダブルベッド、向こう側にはクローゼットと本棚、こちら側には冬奈の鏡台と僕の勉強机がある。ちょっとだけ恥ずかしい気分になりながら、勉強机のほうに座るよう促した。そして僕自身は、ベッドの端に座る。
「どうした?」
春香を慰めたバレンタインデーの一件から、もう2週間ほど経つ。もう3月になるのか、とぼんやりとカレンダーを見た。昨日の日付には、冬奈の字で『春香 H大入試日』と書いてある。
「あの、昨日の試験……」
「どうだった? 出来は?」
「緊張しちゃって、多分、無理だと思う」
確か昨日の食卓でも似たようなことをお義母さんに言っていた。何も知らないお義母さんは、「落ちちゃったらK大に行けばいいじゃない」と肩を叩いていたが。
「あのね」
何か言いたそうに、視線を巡らせた。
「昨日の試験の結果、分かるの、3月10日なんだ」
「うん。2週間後くらいだね」
「で、卒業式が来週なの」
春香は自分の進学先が決まらないまま、卒業するのか。むろん、国公立受験組はみんなそうだろう。僕もそうだったけれど、卒業といわれてもピンとこないんだよな。解放感もないし。
「江畑くんに会うの、卒業式がチャンスで……」
「あ……うん。そうだね」
「H大に落ちたらK大に行くしかないんだけど、江畑くんに何も言えないまま同じ大学に行くって、ちょっと勇気が出ないっていうか、やっぱりひかれちゃうのが怖くて……もしK大に行くんだとしても、この気持ちにちゃんとけりを付けてからにしたくて」
少し前までは無駄だからなんて言っていた彼女が、僕はじーんと胸が熱くなった。
春香は強い子だ。昔からそうだった。冬奈は幼いときから春香が大好きで、でも今と違ってただ溺愛するのではなく、わざといじめるようなことがあった。男が好きな女の子をいじめるのと同じ感覚だ。いつも3人で遊んでいたのに、春香を置いて僕と2人きりで抜け出そうとする冬奈は、妹の気をひきたくてしょうがない女の子だった。そんなとき春香はひっそりと一人で泣いていた。僕たちを探しまわったり、大人に助けを求めたりすることはなく、ただ一人でその現実と向き合っていた。
そんな春香の姿を確認して、迎えにいくのは僕の役目。冬奈は自分からけしかけておいて、春香に手を差し伸べるのを躊躇うのだ。拒否されるのが怖かったんだろう、多分。
「春香」
僕が名前を呼ぶと、彼女は戸惑ったように唇を噛んだ。
「うまくいくといいね」
「……大丈夫。振られ慣れてるから」
皮肉なのか、冗談なのか。春香はやっと笑ってそう言った。
卒業式の日。朝からしとしと雨が降っていた。ちょうど土曜日だから家族総出で春香の卒業を見届けに行こうかなんて話をしていた、一昨日までは。
「お母さん、春香のお粥、私が運ぶからね」
「だめよ。私は仕事休めるけど、冬奈はそうじゃないんだから感染したら大変でしょう。あら、薬どこ置いたかしら」
「あ……ねえ、将門!」
2人があたふたと動く様子を、僕はリビングでぼうっと見ていた。突然呼ばれて我にかえる。
「何?」
「春香の薬貰ってきたの、将門でしょう? どこやったのよ」
うん、そうだ。確かに僕です。
自分の身の回りを見渡しても、薬袋はない。
「どこだっけ……」
顎をかきながら、うろうろしていると冬奈から尻を叩かれた。
「もう! 妹が大変なときにどうしてそうボーッとできるの!? 春香はインフルエンザで苦しんでるんだからね!」
春香は確かに昨日の晩から高熱を出して寝込んでいる。今日の朝一で病院に行くと、見事にインフルエンザの診断結果が下された。でも苦しんでいるのは病気のせいだけじゃない。インフルエンザという名の不可抗力にどうしようもなく、自分の思いも打ち明けられずに。
「将門ってば! 薬!」
「もう冬奈ってば、大声出しちゃだめよ……まあ、入試が全部終わってからで良かったじゃない。緊張の糸が切れたのよ。ゆっくり休ませてあげましょう」
「……うん。そうだね。春香、果物食べるかな」
「お粥が食べれるようならリンゴすってみようか。リンゴ、は……」
お義母さんが僕に背を向けた途端、冬奈がまたこちらを睨む。声に出さずに、「くすり!」と伝えてくる。
車に置きっぱなしのような気もするな。見てくるか、と玄関に下りた。
がちゃりと戸を開けると、思ったよりも強くなっている雨にびっくりした。車庫まで距離はないが、さすがに傘がないとまずい。戸の隙間から傘を開けようとしていると、家の前にぼんやりと見える影に気付いた。傘のせいで顔は見えない。濡れたズボンに、大きめのスニーカー。住宅街だから人の往来はある場所だが、さすがにこの雨でここに立っているのは不自然だ。お客さんかな、と傘をさすのを諦めその顔を確認しようとした。
知らない顔だ。背の高い男の子。制服は、春香の高校のものと同じ。
その彼は僕と目が合うと、びくっと肩を揺らした後表情まで固まった。険しい顔をして一瞬こちらに向かおうとしたものの、ちょうど車が間を通りそれを遮られる。
車が行ってしまった後も、男の子はそこにいた。うちへ用事なのかな、と僕が戸を大きく開けたところで、何かに気付いたように踵を返してその場から立ち去ってしまった。歩幅の広い歩き方で、傘が揺れて肩が濡れるのにも構わずに向こうへ行ってしまう。春香の知り合いだったのかな。どちらにしろ会うことはできないから、伝言くらいしかできなかったけれど、こちらから声をかけるべきだったかな。いろいろと思うところはあるが僕の意識は薬に移って、急いで車に走った。
薬袋は助手席に乱暴に放られていた。そうだ、薬を貰ったのは僕だったけれど、そのあとちゃんと冬奈に渡したんだ。その後助手席に座っていたのは冬奈だから、犯人は彼女じゃないか。と思いつつも、薬見つかって良かったとホッとする。
家に戻り、薬袋をお義母さんに渡した。お粥と薬とお盆に載せて春香の部屋に入っていたのを見送り、冬奈とリビングのソファで一息つく。お義父さんは朝早くから病院への送迎で疲れたのか、もう片方のソファでうとうとしていた。
「あ、そういえば」
さきほどの男の子のことを思い出す。きっと冬奈の知り合いではないんだろうけれど。
「家の前に春香と同じ高校の制服着た男の子が来てたけど、友だちかな。冬奈知ってる?」
「千紘ちゃんじゃないの?」
千紘ちゃん。確か、前にどこかで挨拶した記憶がある。小動物みたいな女の子だった。
「違う、背が高い男の子。顔は結構かっこ良くて……何かスポーツやってそうな」
あれ、何か既視感。この感想、いつかも持った覚えがある。
あれ。あれ? 僕会ったことあるのかな、あの男の子。そう言われるとそんな気もするし、違うと言われるとそんな気もする。
「千紘ちゃんはお昼に電話あったよ。家のほうにだけど。春香の携帯、充電切れてるみたい」
「そうなんだ。まあ、昨日から寝てたもんね」
「一応、インフルエンザだからお見舞いも来なくていいよって言っておいたんだけど」
「ふうん……」
僕がそう返事をしたところで、お義母さんが春香の部屋から戻ってきた。
「どうだった? 春香、お粥食べてる?」
「うん、食べてる。リンゴすってもらえる?」
「分かった」
冬奈が張り切ってソファを立ち上がった。
春香は、結局一週間ほど寝込んでいた。インフルエンザ自体はそんなに長引かずに熱も引いたようなのだが、精神的な部分で疲れが溜まっているのか起きてくることはなかった。
そんな中、一通の封筒が我が家に届いた。
A4サイズの分厚いそれには、H大の名前がでかでかと印刷されている。病み上がりの春香はそれをおそるおそる開封し、先頭に封入された一枚の用紙を取り出した。大きな文字で行間をあけて記載されたその文章は、透けて反転した状態でも何と書いているのか読めた。向かい側に座った僕は、春香の表情ばっかりを見ていた。
「春香?」
お義母さんが呼びかけると、春香は僕たちに視線を合わせて震える声で言った。
「……H大、合格しました」
「おめでとう!」
「良かったじゃないか。春香」
「は……はる、か……おめ、おめで、おめでと……」
どの台詞が冬奈のものかは皆さんご察しの通りです。既に泣いてます、この人。
僕は素直にお祝いの言葉を口にできないでいた。その理由は春香の表情だ。決して心の底から喜べていない彼女に、何て声をかけたらいいのか答えが出ていなかった。
お祝いだお祝いだと喜んで出前を選んでいる3人を横目に、僕は春香の隣の席に座り直す。
春香はぼうっと合格通知を眺めたまま動かない。
「僕、春香に言ってないことがある」
「え……?」
「卒業式の日、家に、春香と同じ高校の制服を着た男の子が来たよ」
ゆっくりと見開かれた目は、潤んで今にも泣き出しそうだった。
「それが誰か分からない。でも、春香に会いに来てたんじゃないのかな。僕の顔見てすぐに帰っちゃったから話も聞けなくて、申し訳なかった」
あの男の子の顔は今も覚えている。雨の中険しい顔をしてこちらを見ていた。こんなにもはっきり覚えているのだから、この記憶まるまる切り取って春香の脳に移植してあげたいくらいだ。そうすれば、春香もちょっとは希望がもてるんじゃないかって思えたから。
「……やだ、何で……そんなこと」
「多分、近所の子じゃないと思う。近所の子なら、僕だって絶対知ってるはずだし」
「嘘……違うよ。絶対、違う……」
「春香の思っている子っていう可能性もあると」
「違う、よ。違う……」
キッチンのほうで、何の出前をとるかで議論していた3人が、春香の大きめの声でこちらを向いたのが分かった。明らかにむっとした表情で冬奈が僕に指をさす。
「ちょっと、将門! 春香いじめないでよね」
「い、いじめてないよ……」
「ねえ、春香。お寿司がいいよね? 今日お父さん奮発してくれるって。特上食べようね」
僕をまるっきり無視して話しかける冬奈に、春香は曖昧に頷いた。
K大に行くのか、H大に行くのか。僕はそれっきり聞けないでいた。
春香は自分で決めるんだ。そこに僕の思いは関係ない。本当は応援したいけれど、邪魔しちゃいけないんだ。新しい道を歩み始めようとしている小さな女の子は、涙もろくて壊れそうだけれど、凛とした強さを持っている。
春香なら大丈夫だ。
僕はそう信じて、彼女の選択を待つことにした。