20
自分のことを「百田」と名乗るようになって、もうしばらく経つ。最初は慣れないし、照れくさいし、同僚にはからかわれるしで大変だった。ちなみに自分の下の名前もあんまり好きじゃない。歴史好きの父親がつけた名前。兄は「政宗」に、弟は「清正」。もうどうにでもしてくれという感じの三兄弟。僕に至っては正確に読んでもらえることも少ない。「将門」と書いて「まさと」と読む。歴史好き馬鹿親父が役所に届け出るときに、慌てて間違えて書いてしまったのが発端だ。まあそう間違えたのは不幸中の幸いだ、「まさど」とかになっていたら泣くに泣けない。
「ねえねえ、見て〜」
ごろんと横になった冬奈は、僕に携帯の画面を見せてくる。
「なに?」
「今日ね、春香からメールきたの。晩ご飯何がいい?って聞いたら、ハヤシライスだって。可愛いよね、ね? この絵文字、やばい、可愛いすぎる……どうしよう。あ、保護しなきゃ。メール保護」
夫婦でまったりするこの時間。
決して妹の話をしちゃいけないわけではない。ただその話題じゃなくてもいいだろうと何度思ったことだろう。もっと他に、することもあるだろう。キスとか、キスとか、キスとか。
そんな僕の思惑をよそに、彼女は続ける。
「そんでね、ハヤシライスにしたらすごい喜んでくれて、おかわりもしてくれたんだよ。頬もぐもぐさせて食べる春香、可愛いかったよねえ? 受験生なんだし、いっぱい食べてもらわないと。あの子痩せ過ぎだもん。最近元気なさそうなときもあるし、大丈夫かなあ。夜食、何か作ってあげようかな……」
せっかく布団に入ったところなのに、今にも起き上がろうとした冬奈を、僕はやんわりと止める。
「この間、夜食は太っちゃうから控えるって言ってたよ?」
「……春香が? 春香が言ってたの? いつ? ていうか将門、春香とどんな話してるの?」
冬奈にはあえて黙っているが、僕と春香はしょっちゅう話をしている。
例えば冬奈がお風呂に入っている間にリビングで勉強をみてあげたり、冬奈が休日遊びに行っている隙に買い物へと連れ出したり、冬奈が出勤したのを見計らって学校まで送ってあげたりとか、割と色々。全部冬奈の目を盗んでいるのは、彼女が嫉妬するからだ。
「いつだったかな、ご飯食べ終わったときとか、そういうとき」
「……ふ〜ん、あそう」
だめだ、拗ねた。こういうときの冬奈の扱いは難しい。
体ごと彼女に向けて、顔を近づける。
「僕なんか所詮、家族としてはまだ付き合いが浅いんだ。あの子には今、家族の力が必要なんだよ。お義母さんも、お義父さんも、もちろん冬奈もね? 大事な時期なんだから、そっと見守ってあげようよ」
何となくそれらしいことを彼女の耳元で囁く。嘘を言っているつもりはないが、すべては冬奈の機嫌を取り戻すため。これからの時間を甘く心地よく過ごしたいがため。
まんまるな目が僕のものと合う。
ずっと大好きだったその瞳。体。冬奈そのもの。匂いも声も、ため息でさえもすべて拾って僕のものにしたい。結婚して結構経つのに、そんなこと思ってばかり。
「……まさと」
「ふゆな」
ぎゅっと抱きしめれば、めまいがしそうなくらいの柔らかい感触。パジャマ越しに彼女のふわふわとした触り心地を楽しむ。そんな時間が愛おしすぎる。
さてこれから……というときに冷酷な言葉が耳に届いた。
「明日早いから寝る。フルーツジュース作るの」
「ふるーつ、じゅーす……?」
「春香がね、テレビでやってたフルーツジュースの特集観ながら、飲みたいなあって言ってたから明日の朝作ってあげるんだ。じゃあ、おやすみ」
語尾に音符でもついているかのように、うきうきとした声で挨拶した冬奈は顎のあたりまで布団を引き寄せる。急に離れた2つの体の間には、冷たい空気がただよっていた。
そう、冬奈は極度のシスコンなのだ。
次の日起きると案の定、隣に妻の姿はない。僕だってなかなかの早起きだが、彼女はその上をいく。さすが愛する妹のためだ。ちなみに春香のお弁当もずっと冬奈が作っている。春香自身は、お義母さんが作っていると思っているだろうけれど。
「おはようございます」
キッチンへ下りて行くと、お義母さんがエプロンをつけて朝食の準備をしている。
「おはよう、将門くん」
そんなやり取りも聞こえていないのか、冬奈はミキサーに悪戦苦闘していた。昨日言っていたフルーツジュースとやらだろう。ゴゴゴ……という音が部屋に響いていた。
「それ、美味いの?」
彼女の隣に立って言うと、冬奈はミキサーの蓋を押さえる手を強めたようだ。
「あったり前でしょ。春香の大好きなオレンジも入れたんだからね」
「そう。そっか……」
冷蔵庫に常に置いてあるオレンジジュース。主に飲むのは春香だ。底が見え始めた頃に、決まって買い足してくるのは誰でもない冬奈だ。あの子が一番好きなのはオレンジジュースだと、時には僕に自慢げに言いながら。
でも僕は知っている。春香が一番好きなのは、グレープフルーツだ。
確かに幼いときはオレンジのほうが好きで、苦みのあるグレープフルーツを好んで選ぶことはなかった。ただ味覚は年をとるたびに変わっていくものなのに冬奈は、春香は彼女がオレンジが好きだと信じて疑わない。
僕がこれを言うと冬奈の機嫌が最悪になることは目に見えているので言わないが。
一生懸命作ったフルーツジュースも、決して自分が作ったのだと言わずに食卓へ出す。春香は何の疑問も持たずに、それを飲み「これ美味しいね」と冬奈が喜んで舞い踊りそうな感想を呟いた。
それでも春香が目の前にいるときは、冬奈は冷静な対応を繰り返す。僕に見せるような、妹に対するはしゃぎっぷりは本人には明かさないのだ。好きな人には素直になれない、というやつか。まるで妹に片思いしているようだ、と常々思っていた。ただ、不意打ちには弱い。突然かかってきた電話が春香だったりすると、あからさまに挙動不審になるのが面白いのだ。多分春香にも冬奈の本性はバレていると思う。
「春香、今日は送っていかなくていい?」
冬奈が拗ねるので、彼女が出勤したのを見計らって春香に声をかける。普通逆だろうと思われるが、冬奈の会社は家から近く、しかも自転車通勤なので僕の車はお呼びではないのだ。春香を学校まで送っていくのは時々だ。僕も市役所勤めなので、朝は早い。その時間に合わせてしまうと、学校に着くのが早くなりすぎてしまう。
「どうしよう。でももう用意できてるから、頼もうかな」
鞄を持った春香を見て、自然と頬が緩む。
春香は僕にとって、ずっと可愛い妹だ。自分がこの地に引っ越してきてから長い間。男兄弟でつまらなかった僕に、潤いをくれたのが百田姉妹だった。自由奔放な姉の冬奈と、そんな姉を見て羨ましいけれど真似できない、大人しい妹の春香。
春香は随分と自分を押し殺して生活していた。僕が冬奈と結婚して、しばらくは。
お義父さんとお義母さんは「ストライキ」だの「反抗期」だのと冗談ぽく言って済ませていたが、冬奈からしたら大好きでたまらない妹に交流を遮断されて相当参っていた。もう僕との結婚を止めたいと言っていたのもこの時期だ。
毎日のように喧嘩したし、話し合った。僕は絶対に離婚しないと言い張って粘った。百田家で同居をしているのもそのためだ。出て行くのは僕。冬奈は離れられない、春香から。
そんな春香とも徐々に時間を共にできるようになり、僕たちの離婚話も落ち着いた。そのきっかけには春香の僕への告白もあったのだが、それは2人だけの秘密だ。僕は一生冬奈には言わないし、墓場まで持っていくつもりだ。春香に告白されたなんて打ち明けたら、冬奈が嫉妬で狂って僕を家から追い出しかねないし。
春香は車の後部座席に乗ると、コンパクトのようなものを取り出して覗き込んでいる。冬奈も似たようなものをよく朝使っているが、それと同じだろうか。最近の高校生は大人っぽいんだな。
「行くよ。大丈夫?」
「うん。お願いしまーす」
朝は渋滞するので少し早めに出る。のんびりと目的地に向かいながら、春香と話をするのは僕の密やかな楽しみだ。
「勉強は順調? この間受けた模試の結果どうだったの?」
最近のもっぱらの話題と言えば、春香の進学先の話だ。3年生にあがり、能天気な春香の高校もさすがに受験生モードで勉強勉強とうるさくなったらしい。秋にはどこかの大学の推薦入試を受けて見事合格したと言っていたが、どうやらそこには進学しないらしい。センター試験も受けるみたいらし、本命は地元の国公立大のようだ。
「うん……H大は一応、B判定だった」
H大は地元の国公立大だ。それなら冬奈も喜ぶだろう。あいつは春香と離れるの嫌がるだろうし。
「良かったじゃん。まだ今月最後の模試があるっていってたよな? それでA判定出るように頑張れよ」
「うーん……そう、だよね。H大に、行くべきだよね」
え、第一志望なんじゃないのか。思わずバックミラーで彼女の様子を確認すると、コンパクトを覗き込んだまま固まっている。
「どうしたんだよ。迷ってるの?」
「迷ってるっていうか……えっと、秋に受けた推薦の」
「K大だっけ? そこは滑り止めじゃなかったっけ」
今年の夏ごろから、大学の資料がよく家に届くようになった。その中でもひと際、春香がよく眺めていた資料がK大のものだった。だから推薦入試で合格したとき、てっきり彼女の受験は終わったんだと思ったのに、ある日突然センター試験を受けると言い出したのだ。K大は確かに私立大で県外にあるし、友だちや家族と離れるのが寂しかったのかもしれない。春香の両親は彼女自身が納得して決めたならどちらでも良いというスタンスだった。冬奈だけは、どうしてもH大に行ってほしいみたいだけれど。
「滑り止めじゃないよー……受けたときは一応、本命だったもん」
「あ、そうなんだ。で、H大とK大で迷ってるの?」
名前だけ聞いたら、断然H大だろう。国公立だし、就職にも有利だ。やっている研究内容とか、施設が充実しているとか、そういう理由じゃなければH大を選ぶ学生が多いのは分かりきっている。
「うん……」
「まあ、まだ結果が出てるわけじゃないけど、特に理由がないならH大じゃないかな? 地元で就職するならそれなりに大学名も見られるわけだし」
「理由は、あるっていうか……いや、それも、どうでもいいんだけど」
ちょうど信号で止まる。後ろを振り返ると、もうコンパクトは見ていない春香の姿。ぼうっとどこか定まらない視点は、考え事をしているようだった。
「春香?」
呼びかけると、はっとしたように気付いて顔をあげた。
「どうしたんだよ。話、聞くよ?」
「……きな、人が」
「え?」
「好きな人がね」
好きな人。ああ、春香は好きな人がいるんだ。
ほんわりとした温かい空気が自分の体に舞い込んでくる。一年前、春香に告白されたとき。どうかこの子に、僕なんかよりももっと魅力的で素敵な人が現れますようにと強く願った。どんな人なんだろう。いつ好きになったんだろう。これから彼女が打ち明けようとしている悩みよりも前に、聞きたいことがありすぎる。
「スポーツ推薦で、K大に行くの」
「ほう。うん。なるほど」
「もう、夏に決まってたの。スポーツ推薦だから、絶対、行くみたい」
だからか。夏ごろに増え始めた大学の資料。その中にあったK大の資料。とりわけ彼女がそればかり眺めていた理由。
「県外だし、離れちゃうし、私も一緒のところ行きたいって、本当に受験しちゃって、馬鹿みたいだよね……付き合ってるわけでもないのに」
「分かるよ。僕だって、冬奈が好きで地元から離れなかったんだから」
冬奈とのことは、すんなりと惚気ることができる。春香だって僕に対してはかなり心を許していると見えた。
「でもね、H大受けるって決めたのは……その人に、彼女ができたみたい、で」
「え? そうなの?」
せっかく灯った彼女の恋心が、消えようとしているなんて。
どこのどいつだ、春香を差し置いて他の女と付き合おうなんて馬鹿男は。
「うん。どうしよう。でもね、好きでいるの、やめられない。私、こんなんばっかりだよ……」
言葉がかけられない。
春香はモテる。自分から望めば、付き合おうという男は多いだろう。なのに好きになった相手とは上手くいかないなんて切なすぎる。
自分はどう言えばいいんだろう。彼女が最初思っていたのは僕で、告白をされたとき「次に進め」と言って振った。そんな身分の自分から彼女の恋のアドバイスなんてしていいものだろうか。
「H大だと地元だし、友だちも近くにいるから安心だけど……K大だと本当にその、好きな人しか知っている人がいない。でも、好きな人は、私がその大学の合格通知を持ってることすら知らないの……」
「……うん」
「追いかけて、もいいのかな」
春香はきっと、追いかけたいんだ。でも迷っている。傷つくのが怖いのか、あとから後悔したくないのか、それは分からない。
「将門なら、どうする?」
「ん?」
「まだお姉ちゃんに片思いしているときに、知っている人が誰もいないところに行くとなったら、自分も追いかける?」
それなら答えは簡単だ。今までだって僕たちは、そうだったんだから。
「僕なら、追いかける。ていうか今も」
追いかけている。僕のほうはちっとも見ない冬奈を、追いかけて、追いかけて、結婚もしたのに。
ちっとも縮まらないその距離に、ある種の心地よささえ感じている今日この頃だというのに。
「いいのかな。ひかない? そういうのされたら、どう思う?」
「ひ、くかなあ? どうだろう? そもそも、自分を追ってとか思わないんじゃない? 普通に考えたらただの偶然だし。春香はその人に追いかけてこの大学入ったんだって言うの?」
「言え、ない……そんなの。かっこわるい」
「あははは、可愛いな、それ」
思わず大きな声で笑うと、僕の座っている運転席の背もたれをパンと叩かれる感触がした。
「笑わないでよ、真剣なんだから」
「はい。すんません」
どうかお願いします、春香の好きな人。どこの誰だか知らないけども。
ここに、君のことを好きで好きで大学まで追いかけようとしている女の子がいることを気付いてください。彼女がいるとのことだけれど、どうか検討しなおしてみてください。あ、でも間違っても、浮気だとか二股だとか不埒なことは考えないでください。殺されます、冬奈に。
どうかこの小さな女の子の恋心を、潰さないでください。お願いします。