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大谷くんは、そんなに背が高くない。私が155cmで、多分彼が165cmくらいだろう。体もがっちりしているわけじゃなくて、細くて小柄な印象だ。髪の毛はちょっと長めのさらさらで、制服のネクタイは緩くだけど毎日ちゃんと締めている。鞄はリュックを背負っていて、学校へは自転車で通っている。運動神経は悪くないのに帰宅部で、学校の休憩時間にはよく廊下でサッカーをしている。字が綺麗。
自分の知っている大谷くん情報を脳内で整理する。
こうすることに特に意味はない。ただ、改めて好きだなあと思う、それだけだ。
「じゃあ、出場種目は立候補ということで……まずは、100m走。男女それぞれ2名」
委員長の垂井くんは、教壇に立ってよく通る声で喋っている。
我が高校の体育祭は真夏に行われる。一学期の期末テストが終わった、7月中旬だ。本当なら準備をするのはテストが終わってからの一週間なのだが、種目決めと運営委員だけはテスト前に決定するのが通例だった。運営委員は、体育委員の他にクラスから男女1名ずつかり出される。
とりあえず運動音痴の私は、当たり障りのない種目で注目を浴びないに限る。女子種目で出場者の多い、借り物競走あたりが妥当だろうか。
「じゃあ、1500m走。男子1名」
さきほどの100m走はまばらに手が挙っていたが、今度は誰も反応しない。中距離走は各クラス1人しか出場しないので注目を浴びる上、誰にでもできる競技じゃないので不人気だ。垂井くんは困ったように頭を掻いている。
「えーと、これが最後まで余ると結構悲惨なことになるんで、できたら誰か走るの得意な人、立候補してください」
陸上部がいるクラスは決まるのが早いらしいが、残念ながらうちにはいない。
みんながみんな、顔を見合わせながらがやがやと騒ぎだす。私は女子だし、と安心して後ろから眺めていると垂井くんが再び口を開く。
「推薦ではどうですか?」
その言葉を聞いて、さらにざわめきが大きくなる。江畑くんなんてどうなのかな、と私が前の席を見ていると真ん中あたりに座っている男の子が手を挙げた。
「はーい」
「はい、和田くん」
「大谷を推薦します。こいつ、中学んとき陸上部」
へえ、とみんなが大谷くんに注目する。大谷くんはそう発言した和田くんに、ばかっ言うな、と蹴りをいれていた。
「じゃあ、大谷くんでいいと思う人、拍手」
垂井くんが言った瞬間、クラス中が結束したように拍手を送る。盛大なそれはもう、大谷くんに断らせない力があった。垂井くん上手いなあ、と私も思わず拍手を送った。
中学のときは陸上部。私は無意識のうちに、また脳内に情報を取り入れていた。
私は最初の思惑通り、何とか借り物競走に出場できることになった。あとは全員参加の綱引きと玉入れに出れば体育祭でやるべきことは終わりだ。
「では次に運営委員ですが……立候補いますか?」
体育祭の運営委員は大変だと聞く。どうせやるなら、文化祭とかのほうがマシだ。そういえば江畑くんは体育委員だったな、とぼんやりと思った。
誰も手を挙げず、お前やれよ、やだよ、という会話がそこら中でされている。
「じゃあ、男女別れて話し合いで決めましょう」
垂井くんによる仕切りで、クラスの半分に男子、もう半分に女子が別れる。
こちらでは麻理子ちゃんがみんなに、
「恨みっこなしでじゃんけんにしよう! ね!」
と同意を求めている。どうせ立候補する子もいないし、誰か一人を祭り上げて嫌な役を押し付けるのも気が引ける。それがいいね、ということになった。
全員でじゃんけんをするとあいこになるので、何人かのグループに別れて行う。近くにいた数人でじゃんけんをすると、何と、私が負けてしまった。
「こっちのグループからは千紘ちゃんでーす」
みんな安心したように私の背中を押した。
集まった一回戦敗退者は、5人。大丈夫、5分の1だから、私じゃないはず。祈るような気持ちで、グーを出すとなぜか周りは全員パーだった……。
「わー! 女子運営委員は千紘に決定ー! がんばってねえ、ひと夏の思い出っ!」
容赦なく私の肩をぽんぽんと叩くのは、麻理子ちゃん。
視線を巡らせると、苦笑いをしている春香と目が合う。こういうの苦手だと知っているから、心配もしてくれているんだろう。
うんざりとしながら自分の席に戻ると、男子も決まったのか江畑くんもすでにいた。
「江畑くん、体育委員だよね? 私、運営委員になっちゃった、よろしくね」
「マジで? 女子はどうやって決めたの? 推薦?」
「じゃんけんだよ」
弱いなあ、と豪快に笑われる。確かに、このクラスに女の子は20人近くいるのだ。
「男子は誰になったの?」
黒板には出場種目と出場者の名前は書かれているものの、運営委員の名前は垂井くんの持つプリントに書かれているのみで明記されていない。女子の運営委員を意気揚々と垂井くんに伝えに行ったのは、誰でもなく麻理子ちゃんだ。
「こっちは、修だよ。大谷修」
出てくると思わなかった名前で、私はびくんと震えてしまった。江畑くんはそれに気付いていないようで、いつものように下敷きをパタパタとしている。
「……ふうん、そっか」
「あいつ中距離出て、運営もやるとなると大変だよな。会議とか出なきゃいけないし」
そうだ、運営委員だと会議に出なきゃいけない。どうしよう、気まずい、どうしよう。
一人で地味におろおろしていると、構わずに江畑くんは話す。
「ま、別に嫌々じゃないし、平気だと思うけど!」
顔を上げる。嫌々じゃない? 男子もじゃんけんとか、あみだくじで決めたんじゃないの?
「結局あいつ立候補だよ。急にやるって言い出して」
「……なんで、だろうね?」
「わっかんねえけど」
江畑くんは首を傾げながらも笑顔だ。
「俺も別に嫌じゃないけどね、運営。だから体育委員やってるし。あいつもそうなんじゃない?」
そうだよね、深い意味なんてあるはずない。
私はうんうんと頷きながら、自分に言い聞かせた。
運営委員の集まりは、その日から三日後に開かれた。
女子体育委員の木下さんと私は、会議の行われる多目的教室に足を踏み入れた。各教室から色んな人が集まっている。とりあえず端のほうの机に並んで座り、先生がやってくるのを待った。大谷くんと江畑くんが一緒にいるのを視界の隅に見つけたが、そちらはできるだけ気にしないようにした。同じクラス同士で固まるようにという指示はない。離れて座って知らん振りしてていいはずだ。木下さんも同じように思っていたのか、それとも何の意識もしていないのかは分からないが、二人を見つけてもこの席を選んだ。
「三波さんてさあ」
木下さんは、明るくて可愛い。ちょっと大人びた雰囲気が近寄りがたくて今まで仲良くなる機会がなくて、お互いさん付けで呼び合っているが。
「彼氏とかいる?」
突然の質問に思わず閉口する。
「え……いや、いない」
何とか答えると、木下さんは「そうなんだあ」と頬杖をついた。
「じゃあ好きな人とかは? いないの?」
大谷くんの顔が浮かぶも、違うダメ、とそれを打ち消す。
もし諦めなくてもよかったとしても、本人が同じ空間にいるのに口に出せるわけがない。とりあえず首を横に振った。
「じゃあ、うちのクラスだと誰が良い?」
「えっ……うちのクラス?」
「うん。一番タイプの人って誰?」
よくある女の子同士の会話なのに、どうしてこんなに動揺しているんだろう。なんて答えたらいいのか、どうするのがベストなのか分からない。
「私はねえ、橋本くんかな。ちょっとやんちゃっぽい感じで可愛くない?」
木下さんはそう言って、くすくすと笑う。私が口ごもっているので、先に言ってくれているのだ。
じゃあ私も言わなきゃ、と思うも誰って言えばいいのだろうか。大谷くんは、ダメすぎる。ガチすぎる。ていうか本人そこにいるし……。
「橋本くんかあ、かっこいいよね。ジャニーズ系だよね」
「だよねえ? うちのクラス、結構当たり多いよね?」
当たりか、と思いながらクラスメートの顔を思い浮かべる。それを言うなら女の子だって可愛い子が多い。木下さんもそうだし、麻理子ちゃんもちょっとうるさいけど可愛い。春香だって美人だから時々告白されているっぽい。
それに比べて私は。
ちんちくりんで、顔も地味で、成績も運動も中の下。取り立てて何ができるわけでもない。そんな私がクラスの男の子を品定めする権利なんてない気がする。
「で、どうなの?」
木下さんの言葉に、曖昧に笑う。それを返事ととったのか、木下さんはぐるっと周囲を見渡す。
「じゃあ、ほら。江畑とかは? 仲良いじゃん、三波さん」
大谷くんのことばかり考えていたのに、急に江畑くんの名前が出てきてきょとんとしてしまった。
「え、江畑くんかあ。うん、そうだね。かっこいいと思う」
「あはは、何、とって付けたように」
無理しなくていいよ、と言う木下さんに私は付け足す。
「ううん、違うくて。本当にいい人だと思ってるよ。優しいし、色々、助けてくれるんだ」
「へえ、あいつがねえ」
感心したように頷く木下さんを見ていると、たくさんのプリントを抱えた先生が教室に入ってきた。今まできちんと席に座ってなかった生徒も、ガタガタと移動をしていく。その様子を何となく見ていると、やっぱり大谷くんと目が合った。今度は私から、視線を外した。
委員会は頻繁に開けないので、今日を入れて3回しか集まらないらしい。次は期末テストが終わった後すぐ、その次は体育祭前日だそうだ。ということは、委員の中で役割が同じにならない限り、大谷くんともそんなに顔を合わせなくて済みそうだ。各学年各クラスから集まっているため大勢だし、きっと同じ役割になるのもかなりの確率だろう。役割の一覧が載っているプリントを眺めながら、そう思っていた。
「やっぱ一番楽そうなのは救護係だよねー……」
木下さんがぼそっと呟く。でもその後に、競争率も高そうだけど、と言うので私は頷いた。
「ね、三波さんどれにする? 一緒のにしようよ」
「うん、じゃあ、一応救護係に立候補してみる?」
「一応してみよっか」
そうは言っていたものの、やはり救護係は女子のほとんどが手を挙げ、おそらく二人揃って係に就くのは難しいだろうということになり辞退した。
「テントの中で作業するやつがいいなあ。放送、音響……この得点係って、計算するだけ?」
木下さんの言葉を聞いて、プリントに目を走らせる。得点係の説明欄には、「各種目の成績記録および得点計算」とある。
「どうなんだろう……これにしてみる? 人数多いし」
「そうだね」
私たちは得点係に立候補し、無事その通りに決まった。他の係も決まっていき、今度は係ごとに分かれて仕事内容の確認を行うことになる。
得点係に集まったのはざっと見て20人程度。その中に大谷くんがいなくて、ホッとした。
3年生らしき人が話し出す。
「えー、得点係はゴール地点間際で待機し、1位、2位、3位の人数を記録します。4位以下に得点がつくものはそれも記録が必要です。競技が終わるごとに本部に連絡を行ってもらいます。これを各担当に分かれて行い……」
私と木下さんは顔を見合わせる。
明らかにテントの中でできる仕事ではない。どうりで人数が多いはずだ。やってしまった、という表情で呆然と説明を聞いていた。
「じゃあ、各々が担当となる競技を割り当てます。希望聞いてたらキリがないので、適当にあてていきますんで、もし自分の出場種目とかぶっていたらその都度教えてください」
名前のあとに、3つほどの競技が割り当てられていく。
「……2年1組木下さんは、一年100m走、三年玉入れ、三年クラスリレー」
どうやら、自分の学年があたらないようにはなっている。だったら自分の出場種目とかぶる心配もなさそうだ。
「2年1組三波さんは、三年綱引き、一年障害物競走、三年創作ダンス、と男子1500m」
プリントにメモをしていて、ペンが止まる。
今、1500mって聞こえた気がする。顔を上げると、その3年生と目が合う。
「ん? 何かかぶってる?」
「いえ……えっと、でも4つですか?」
「あー、ごめん。ダンスは審査員制だし、1500mは全学年でするから1レースしかないでしょう? だから仕事的には3つやるより楽だから。頼むね?」
よりによって、1500m。大谷くんが出場する種目だ。
落ち込む私をよそに、木下さんは慰めてくる。
「3年創作ダンスって体育祭の見所じゃん。結構近い位置でがっつり見れるんじゃん?」
「……そう、かな。そうだね」
「そうだよー。迫力あって楽しいらしいよ。観客席からだとちょっと遠いもんね」
へらへらと笑いながらも、運の悪い自分を呪った。
委員会は2時間ほどで終わり解散となった。時間はもう夜7時だ。夏とはいえ暗くなってきている。
私と木下さんは並んで歩いていると、後ろから「お疲れー」と声をかけられる。
「お疲れ、江畑くん」
振り返りそう言ったところで、私はひやりとする。江畑くんがいるということは、やはりその隣には大谷くんがいた。
「三波さんと木下、得点係なんだろ? あれやばいよ、真っ黒になるから覚悟しとけよ」
「えっマジ!?」
木下さんが両手で自分の体を抱きしめている。その仕草を見て、江畑くんはますます面白そうに笑う。
「あったりまえじゃん。自分の出番でもないのに炎天下の中突っ立ってるんだから。しかもあれ、自分の当番の前の競技からスタンバイしなきゃいけないから結構長時間になるし」
「えーえーえー、何それ。江畑、そんなん知ってるなら教えといてよ」
「まあねえ、一応情報漏洩になるかなと思って」
二人で並んで歩きながら、すっかり盛り上がっている。私と同じく会話に参加していない大谷くんが、私の隣に並びそうになって慌てて木下さんに近寄った。
「三波さん、肌白いから真っ赤になっちゃいそうだよねえ」
木下さんが私の腕をちょんちょんと突いてくる。
「あ、そうなんだ。私、すぐ真っ赤になって、皮むけちゃって……」
すがるように会話に入る。
「まあでももう後戻りできないしなー。そういや江畑たちは何の係なの?」
「俺らは道具係」
道具係。名前を見ただけで、いかにも体育会系っぽい係だと思っていたやつだ。
「それ何するの?」
「まあ、障害物競争なら障害物セッティングしたり、玉入れ持ってたり、綱引きの綱用意したりと、とりあえず体力勝負の仕事だよ」
「そっちのほうが大変じゃん」
江畑くんはにやりと笑う。
「でも一人一競技。しかも一回セッティングして片付けたらそれで終わりだぜ? え、君らは何競技あたってるの? 3つも? あーあーあ、それは御愁傷様だあ」
ぐうううと、木下さんが拳を握って悔しがっている。何だかこの二人、私に負けず仲良いじゃない。まったく嫉妬ではないが、微笑ましくなった。
「じゃあ、俺部活だから」
グラウンドへ続く通路のところで、江畑くんと別れる。もう暗くなるのに、今から部活に参加するなんて大変だなあと目で追っていると、木下さんが「私も」と言った。
「え、木下さんも、部活?」
「うん。私、バスケ部マネージャーなんだ」
じゃあね、と今度は体育館へ続く通路を走り去ってしまう。
こんなことなら、部活に入っておくんだった。どうして私は帰宅部なんだろう。未練がましく木下さんの背中を見送っていた。
「……教室戻る?」
少し前にいる大谷くんは、間違いなく私に、そう問うてきた。
手に鞄は持っていない。ということは、絶対に教室には戻らないといけない。恐る恐る視線を合わせるも、私には耐えられなかった。
「えっ……と、あの」
「帰宅部だよな、三波さん」
どうして知っているんだろう。ああ、そうか。前に放課後、居残っているのを見つかったからだ。私が大谷くんのノートを勝手に触って、軽蔑されたあのとき。
「……あ、私、ちょっと寄るとこ、あって……」
嘘ばっかり。でもいくらでも理由をつけて、職員室でも図書室でも行く気はあった。
「寄る、とこ?」
「うん……だから、先帰って、ください」
大谷くんは、視線を上のほうに巡らせる。何か考えているのか、もしかして怒っているのか、私には予想することもできない。
「あの、俺。三波さんに言いたいことが、あんだけど」
またぶつかる、視線。私を軽蔑している目は、すぐ近くにいる。
「……ごめんなさい」
私は知らないうちに謝っていた。
許してくれるなら何度だって謝る。そんなことでいいなら、声が枯れるまで言い続ける。でもきっと大谷くんは、そういうことを言いたいんじゃないんだろう。怖くて、耳を塞ぎたい。
「本当に、ごめんなさい。嫌な気持ちにさせて、すみませんでした」
深く頭を下げる。
ゆっくりと顔を上げると、彼はびっくりしたように私を見ていた。
「でも、私、英語の宿題を写そうとか、そういう気持ちでは、なくて」
言い訳はしたくない。言い訳ほど醜いものはない。
「……っごめんなさい。でも、それでも、やっていいことじゃないのはすごく分かっていて」
「ちょっと、待ってよ」
「だから、私、もう迷惑かけません。反省、してます。だから、」
私の近くに来ないで。私を見ないで。同じ運営委員に、立候補なんてしないで。
諦められなくなる。あなたは私を嫌いなのに、ますます好きになってしまう。
「もう……近寄りませんから……すみませんでした」
その後どこへ行ったらいいのか分からない私は、目についた進路相談室へ駆け込んだ。ここは受験生である3年生向けに夜8時まで開放されている。初めて入室するのが、こんなタイミングなんて。仕方ないのでぱらぱらといる3年生に混じって、まったく興味のない進学情報誌をずっと眺めていた。