19
変われたのかな。
将門への告白から一夜明けて、私は思う。よく分からない。
「春香ー、どこ回る?」
うきうきとしながら、パンフレットを眺めている千紘を横目にぼんやりとした時間を過ごしていた。学校の中庭。退屈な集会も終わり、文化祭は幕開けた。うちのクラスのお化け屋敷はなかなかの人が集まっているらしい。ちらちらと様子を気にしながらも、もったいないので他のクラスもまわることにした私たち。とりあえず中庭のベンチに座っているけれど、私は気分的にあんまりうきうきしていない。
「春香?」
千紘は大谷くんと過ごさなくていいのかな。私なんかと、いなくてもいいのに。
「ねえ、千紘。大谷くんは?」
「今日はお化け当番だって言ってたよ」
「え、一日目に当たってるの? 何で一緒の日にしてもらわないのよ」
江畑くんめ、席替えには気を回すくせに。文化祭っていったらカップルのイベントでしょうが。
「ううん、本当は二日目の当番だったんだけど、二日目のお化けの子が軽音部のライブでどうしても抜けられないらしくて、大谷くん自分から替わったって言ってた」
淡々と話す千紘は、大谷くんに片思いしていたときの小さくて頼りない彼女とは違う。もうひとつ言えば、ほんの少し前大谷くんが怖いと言っていた彼女とも違う。どんどんと目に見えて強くなっている女の子は、私を置いて色んなことを経験して大人になっていくようで。
「……大谷くんと、エッチしたの」
何でそんなこと聞いたのか分からない。不意に、そう思ってしまったから。
千紘が先に経験してしまったって驚かない。ていうか、遅かれ早かれいずれそうなるだろうし。とりあえず確認したかっただけ。
「何言ってんの、ばかっ」
「ばかってことはないでしょう?」
「ばかばか。もう、春香の意見は聞かない。1年3組のベルばら観に行くよ」
立ち上がった千紘を見上げて、私は足を組む。
「ねえ、したの?」
「してない!」
「何で怒ってんの」
「怒ってないっ! 春香が変なこと聞くからでしょう? 第一、あれから大谷くんの家行ってないし、大したデートもしてないもん」
まあ確かにテスト前だったし、テストが終わったらすぐに文化祭の準備で忙しかったし、そんな暇なかったと言われれば頷ける。
「でもね、喧嘩してからちょっと距離は近くなったかな」
「そうなんだ?」
私と江畑くんのことが原因で、2人がした喧嘩。
「気を使いすぎたりとか、相手の気持ち考えすぎたりとか、ちょっと疲れること多かったんだけど、最近は少しそういうのなくなったんだ。向こうも、そんな感じ」
嬉しそうに言う千紘を見て、私も同じ気持ちになり立ち上がった。
前までは千紘のほうがどちらかというと幼くて、私が大人っぽく振る舞うことが多かった。でも恋愛でいえば今や千紘のほうが先輩で、私はまだまだ彼女には及ばない。そういう関係も面白いなと、居心地がいいなと思っていた。だから今日だけでも、もしかしたらこれからも、彼女には甘えようって思えたんだ。
1年生の劇を観た後、次は3年生の出店をまわる。たこ焼き、クレープ、ヨーヨーすくい。お祭りっぽい雰囲気に目移りしながら歩いていると、時々タダでチケットをくれる3年生もいてびっくりした。
「材料余ってももったいないもんね」
私が言うと、千紘は目を細めてこちらを睨んだ。
2人でベビーカステラを買って食べていると、見知らぬ男の子が私たちの前に立ちはだかった。
「あの、百田春香さんですかっ!」
汗だくのその人は、息切れしながら私の名前を呼んだ。右手には、ささやかな花束を持っている。花屋で500円くらいで買えそうな、小さくて手頃なやつ。
「……はい、そうですけど」
「3年6組花キューピッドです! お花、お届けにあがりました!」
そう言われて右手に持っている小さな花束を、両手で私のほうへ差し出す。
「花キュー……?」
「この学校の誰かから、あなたにお花の贈り物です。どうぞ」
「でも……」
「受け取ってもらえないと、俺の仕事も終わらないんです! お願いします!」
どの台詞も決まっているものなのか、威勢よく言われ周囲の視線が痛い。私はおそるおそる手を出すと、その上にぽとりと花束は置かれた。
「では、失礼します!」
去年の文化祭でも時々花を持っている人を見かけたけれど、こういう仕組みの商売があるんだ。
花を持ったまま戸惑っている私に、千紘は小さく言う。
「いいなあ、春香」
「え……いいの? これ」
「私、密かに憧れてるんだよね……いいなあ、大谷くんもくれないかな」
なんと、彼氏が彼女にあげるのがステイタスなんだ。
でも、これ誰が? 私に彼氏はいないし。
「よくあるのが恋人同士のプレゼントなんだけど、片思いの人が好きな人に対してプレゼントすることもあるみたいだよ。あとは、友だちとか、先輩後輩でもあり得るけど。春香心当たりあるの?」
花をくれるような友だちも、先輩も後輩も思い当たらない。
片思い。この間、片思いするなら私がいい、と言った人。
「……そうなのかな」
「かもね?」
千紘は全てお見通しだという表情でにやりと笑う。
「や、違うよ。だって、そんなことする暇ないくらい忙しいはずだもん」
江畑くんは今日は朝から、ずっとお化け屋敷にかかりっきりだ。初日ということもあって、お客さんの呼び込みや、その反応を見ての対応に忙しいはず。みんな何かとリーダーを頼るはずだし、その場所にいないといけない存在だろう。
そんな人が、私に花を贈るわけない。
「そう?」
「そうだよ。誰だろね? もの好きな人だよね」
私は何かを振り切るように、持った花をゆらゆらと揺らした。
「ん? 何?」
口を尖らせている千紘に気付いて、私は首を傾げた。
「春香、分かってるくせに」
「……そんなこと」
ない、と言おうとしてやめる。やっぱり私は分かっている。
もしこれが江畑くんからだったとして、私は一番に何を思うのだろう。嬉しい。嬉しくない。そんな簡単な感情じゃなくて、複雑に絡み合った気持ちの塊。それをどうにかしたくて、江畑くんからじゃないと思おうとしている。
この花どうしよう。どんな顔して、これ持って教室に戻ればいいんだろう。
制服のブレザーに隠れるかなと思ってふところに差し込もうとすると、変な目で千紘が私を見ていたのに気付いてやめた。
文化祭二日目、私は登校してすぐにお化け屋敷の準備に取りかかった。
昨日は結局、からかわれることも覚悟してそのまま教室に戻ったが、橋本くんが花を3つも貰っていたことにクラスの話題は集中していて私は見向きもされなかった。1つくらいなら貰っている子も多かったし、その他大勢になれたようでホッとした。江畑くんともちゃんと視線が合うこともなくて、やっぱりこの花をくれたのは彼じゃないんじゃないかとすら思えた。
「チケットは受け取ったら判子を押して、この箱の中に。ある程度溜まったらこっちの封筒に移していってね」
昨日のチケット係の子から簡単に仕事を引き継ぐ。でも仕事自体は単純すぎて、すぐに終わってしまった。私は暇を持て余し、中の様子をうかがう。まだ今は怖さを感じないが、電気が消えて、気味の悪いBGMも流れると雰囲気がぐっと変わるだろう。
「あ、百田さん。いいところに」
ちょっとだけ破れているところがあったので直そうとしていると、橋本くんが私を見つけ笑顔になる。
「どうしたの?」
「百田さん今日当番だよね? チケット係だっけ?」
「うん。もう仕事も教わったよ」
「それ、ごめん。俺がやるから、代わりにおどかし役やってくれない?」
え、と言ったまま返事に困る。実際、お化け役やおどかし役は男の子の担当になっていた。女の子は負担の少ない受付や裏方にまわっていたのが、どうして私が。
「おどかし役の奴が、ミスターコンで最終選考残っちゃったんだって。で、今日の12時から13時の間だけそっちの選考に行かなきゃいけないからって抜けるんだよね。俺らが代わっちゃうと、外から指示する人いなくなっちゃうから困ってるんだよ」
「ええ、私にできる? 簡単?」
「大丈夫大丈夫。霧吹きでお客さんにシュってするだけの役だから。タイミング大事だけど、外しても気付かれないだけだし、大して影響はないし。それにその時間帯ってみんな飯食ってるか、ミスコン・ミスターコン観に行ってる奴が多いはずだから」
「そのタイミングが分かんないんだけど……」
「じゃあ、最初だけ俺が一緒にやるから。ね!」
橋本くんは花を3つも貰っちゃうような笑顔を残して、私の元から去っていった。そもそも彼だって昨日さんざん働いたのだから、今日は遊べるはずなのに。
私はお昼までチケット係をそつなくこなした。文化祭二日目は色んなイベントがあり、客足は一日目よりも劣るものだ。でもうちのクラスのお化け屋敷はなかなかの好評で、生徒だけではなく先生や校外の見学者もたくさん訪れてくれていた。
「百田さん、そろそろ大丈夫?」
橋本くんから声をかけられて、私は持っていた判子を受付となっている机に置いた。
「うん、えっと……」
私の代わりにお客さんからチケットを預かっている橋本くんの様子に、一緒にきてくれる気配はうかがえない。
「中に入ったら江畑がいるから」
「江畑くん?」
「うん、あいつからやり方聞いて」
どうしよう。思ってもみなかった人の名前が出て急に緊張してきた。
暑くて脱いでいたブレザーを羽織り、入り口の脇から指定された場所に向かう。そこには霧吹きを片手に持った江畑くんがいて、私の胸が急に早くなったのを感じた。
「おー、ごめんな。急に代わってもらって」
小声で囁く江畑くんの声。ひんやりとしている室内に、ここだけグレープフルーツのような匂い。
「……ううん」
「次の人きたら一緒にやってみよう」
お化け屋敷のルート序盤、くねくねと入り組んだ通路。私たちが待ち構えている場所から人が見えたら準備をして、通りかかる瞬間霧吹きをかけるらしい。
「顔に直接かけちゃうと逆に濡れすぎて嫌がられるから、顔の少し手前で吹きかけるのがポイントかな。まあ、相手が男なら豪快にぶわってかけてもいいと思うけど」
笑顔の江畑くんの顔は近い。話すときの息も感じるほどに。
「意外にびびってくれるんだよねえ、これ。ちゃちいかなって思ったけど、やっぱりこれも取り入れて良かった」
「うん……そだね」
「百田さん、実際にお客として入ってみた? クラスメートならタダだから、終わるまでに入ってみてよ」
「えー……でも、どこで驚かすとか全部知ってるのに?」
「知ってても怖いよ、絶対。みんなそう言ってる」
何て返事をしよう。お化け屋敷に入るとか入らないとか、そういうことじゃなくて。私は何かを探している、江畑くんに対する何か。
「あ、来たよ」
彼は持っていた霧吹きを私の右手に持たせてくる。そのとき触れた手のひらは、私と違うガサガサとした感触。大きくて骨張った真っ黒の手は、暗闇の中でも私の目にはよく見えた。
「ほら、今」
慌てて空いたスペースから霧吹きをかける。
正直、霧吹きなんてどうでもよかった。さっきから耳元で囁かれている江畑くんの小さな声に、自分が変になってしまうんじゃないかと思うくらいにドキドキして。
そんなんだから、霧吹きは半分くらい壁にかかってしまい失敗。お客さんの反応も微妙で、「何かちょと冷たくない?」程度の感想を言われてしまった。
「失敗しちゃった……」
「いや、俺が霧吹き渡すの遅かったからだ。ごめんな?」
視線が合うと、もうその距離は目と鼻の先で。目はすっかり暗闇に慣れていたけれど、江畑くんの顔は真っ直ぐに受け止めるのが躊躇われるくらいに私を見ている。
もし、私が変われたら。
そのとき自分の気持ちを捧げたいのは誰。そのとき自分の気持ちを受け止めてほしいのは誰。
そんなことばっかりぐるぐる考えて、時々将門がどうでも良くなった。
「……」
ガタンと音がして初めて気付いた。私はいつの間にか右手の力が緩んで霧吹きを落としていた。100円均一の店で買ったそれは、ころんと床にぶつかってもその形状を保っていた。急いで拾おうとしたのは、2人同時。また触れた手と手は、固まったまま動かない。
江畑くんは私をじっと見ている。私の目を、鼻を、唇を。
私は視線を外した。
このままだと、本当に全てを持っていかれそうだと思ったから。持っていかれたっていいじゃないかと心のどこかで思っているのに、木下さんの顔が浮かんでやっぱりダメだと思い直す。私よりももっと、江畑くんのことを思っている人がいる。私みたいに他の誰かを好きで、自分が楽になりたいがために関係のない人を利用したり、傷つけたりするような人間は彼を好きになる資格がない。誰にでも優しくて、献身的な木下さんがお似合いだ。
でも、本当は好きになりたい。好きになりたい。
江畑くんは私の肩に、首に、顎に順に触れ、親指の腹でそっと唇を撫でた。
ふわりと重なった感触。柔らかくて、温かく、そして鼻に掠めたグレープフルーツの匂い。きっと自分のファーストキスは将門だと信じて疑わなかった幻想はとっくの昔に崩壊していたけれど、突然訪れた事態にこのままじっとしていればいいのか、この大きな体から離れればいいのか分からない。とりあえず大声は出せないし、音を立てることもできない。
でもそれは多分言い訳だ。このグレープフルーツの匂いに、もう少しだけ。
「ぎゃーっ!!」
突然聞こえた叫び声。やばい、ここお化け屋敷だった。
クラスメートはそれぞれのポジションでスタンバイしているため、ここへ誰かがやってくることは考えられないものの、こんなことすべきじゃない。
しかもこの叫び声は、最後のメインイベントでお化け役に怖がるお客さんの声。ということはもうすぐ新しいお客さんが入ってくるので、霧吹きの出番も近いことを表している。
急に現実感に襲われた私は、パッと江畑くんから離れ霧吹きを探す。すぐそばに転がっていて少し水が漏れていた。中身をよく見ると大して後に影響は出ない程度には残量はあった。壊れてもないようだし、大丈夫。私も、大丈夫。
「……ごめん」
こぼれた水を持っていたタオルで拭いながら、江畑くんは言った。
「うん」
「あと、一人で大丈夫?」
大丈夫って思ったばかりなのに、大丈夫じゃなかった。
一人にしないでほしい。謝らないでほしい。
でもこれはただ甘えているだけ。頼りたいだけ。まだ好きでもないくせに、他に彼を思う子だっているくせに、江畑くんを引き止めちゃだめなんだ。
「大丈夫」
私はできるだけ笑顔をつくり、お客さんのやってくるほうへ集中する。江畑くんがここからいなくなったのを気配で感じて、そっと俯いた。
将門に振られたことは、思っていたよりも辛くなかった。むしろそうすることで、自分がもっと成長できる方向に変われるとも思う。そのきっかけをくれたのが江畑くんだ。彼がいなかったら私はまだ、ぐずぐずと将門のことを、届かない相手のことを好きで居続けていただろう。将門じゃない相手を好きになりたいと思えるようになったのは、私の中で訪れた変化。将門しか考えられなかった少し前の自分が嘘みたいだ。
でも江畑くんはきっと、私じゃなくて、木下さんとのほうが上手くいく。自分の気持ちを納得させ、私はやっと前を向いた。
文化祭が終わると、後片付けに時間を追われる。大盛況で終わったお化け屋敷に、担任はご褒美にクラス全員に何かおごってくれるというのでみんなご機嫌だった。
私は床に散らばったゴミを集めながら、教壇のあたりをぼんやりと眺めていた。リーダーの江畑くんと橋本くんが何やら楽しそうに話している。その輪にはちょっと前に諍いのあった麻理子や、彼に片思いしている木下さんの姿もある。
「春香、このゴミもお願い」
千紘が持っている段ボールの欠片を、私の持っているゴミ袋へ放った。
「大体、片付いたね。また明日から授業だと思うとちょっと辛いけど」
「そだね……」
「春香、平気? 疲れたの?」
結局、私とおどかし役を代わったミスターコンに出場した子はお化け屋敷営業終了間近まで戻って来なかった。別にいいんだけど、暗く狭いところで立ちっぱなしで疲れてしまった。江畑くんに急にキスされるし、それだけでも神経すり減らしたっていうのに。
ああ、また人のせいにしてる。こういうところ、直さないと。
「本当に大丈夫? 疲れたなら、先帰ってもいいように私言って来ようか?」
「あ……ううん、それほどじゃないから」
「でも今日ずっと当番だったんでしょ? 待ってて、言ってくる」
千紘は教壇にいるメンバーに割って入り、主に江畑くんに話しかけている。担任も一応いるけれど、この場合そうだよね、許可を得るのはリーダーだよね。
その瞬間、そこにいる全員が私のほうを見て気まずかった。案の定江畑くんとも目があって、どうにもいたたまれなくなって咄嗟に背中を向けた。
「春香ー、帰って大丈夫だって。荷物は?」
「え、でも……いいのかな」
本当はすぐに帰りたい。もう何も考えたくないし、見たくない。
「うん、もう片付け終わったら帰るだけだからって。私も途中まで付き添うよ」
「ごめん、ありがと」
一人帰るのは後ろめたいから、千紘の申し出は有り難かった。いくつかの視線を感じながらも、どうにか無視して私は教室を出た。
もう外は暗くなり始めている時間で、私は念のため携帯電話を確認した。一応遅くなるときは、連絡しないととこの間の一件で懲りた。
「……あ、電話だ」
また見つけた着信は、1件だけ。
「お家の人? 心配してるのかな」
「どうだろう。電話してみる」
携帯を耳にあてると、何度かのコール音のあと高い声が聞こえる。
『はい、百田でございます』
かけ直したのは家の固定電話だから、その可能性は十分に考えられた。しかしお姉ちゃんと喋るの、ちょっと久しぶりだ。最近は文化祭の準備でバタバタしていたし。
「春香だけど。電話くれた?」
『……あっ、は、春香? あっ、えっと、今どこ? 学校?』
明らかに挙動不審になっているであろうその様子に、私は苦笑いがもれる。
「まだ学校だよ」
『分かった、えっと、待ってね。将門! ちょっと、迎え、早く! 学校!』
受話器の向こうでのやり取りが、丸聞こえでちょっと笑える。姉から迎えを言いつけられたであろう将門が、「はいはい」と笑いながらチャリチャリと鍵を持ち出す音が聞こえた。
『い、今から、将門が迎えに、行くから。待っててね、今日、ご飯ハンバーグだから』
「うん」
『ハンバーグのソース、トマトがいい? デミがいい? えっと、和風がいいかな?』
何その話題。もう何でもいいよ、と思いながら。
「じゃあ、和風」
『和風ね、わふう……あ、大根買ってこなきゃ……! じゃあ私、大根買いに行くから、春香は将門が迎えに行くの、待ってるのよ、ね?』
分かった、そう言って電話をきるとどっと疲れが増した。
携帯電話をポケットにしまっていると、隣からくすくすという笑い声が聞こえる。
「今の、お姉さん? すごいね、声漏れてたよ」
ああ、はい。そうなんです。姉ってそういう人なんです。
「迎えに来てくれるって。姉の旦那さん。私が、振られた人」
「……告白、したんだね」
「うん。すっごくあっけなかった。でも、すっきりしたよ。言って良かった」
だから背中押してくれて、ありがとう。
千紘は私の笑顔を見て、つられて笑顔になる。
「次に、進めそう?」
そう問われて、私は頷くかどうか迷う。私の本心は、次に進みたいと訴えている。
「……うん」
「良かった。好きな人できたら、教えてね?」
「千紘に一番に相談するよ」
もう今にでも、言ってしまいたい。江畑くんに抱く感情。今日キスされたこと。
何でキスなんかしたんだろう。どうして私なんだろう。片思いでもいいなんて、どうして思うの。片思いするとしたら私なんて、どうして思うの。
江畑くんに言いたい言葉がみるみるうちに溢れてきて、抑えきれなくなる。
「春、香……?」
「ごめ……私」
誰もいない階段の途中、私よりも身長の低い千紘が私を抱きしめる。目の前にある彼女のたっぷりとした胸は、信じられないくらい気持ちよかった。
「よく頑張ったね」
彼女のシャツをぽつりと濡らすのは、私の涙。
何も悲しくない。悲しくないのに。
私はずっと我慢してきた思いを吐き出すように、彼女の体に自分を預けた。
秋のお話はこれで終わりです。春香が主人公のお話は、冬を挟んでまた春に再開します。冬は短い予定です。