16
席に座ると、隣はまだ空席だった。土曜日に借りたハンドタオルを返さなければと、鞄の中を見て小さなショップバッグがちゃんと入っているのを確認した。ハンドタオルは何となく洗濯機に放り込む気になれなくて、手洗いをすることにした。当たり前だけれど、あのグレープフルーツのような匂いは消えてしまって、洗剤の匂いになってしまった。
「おはよー」
江畑くんは元気に教室に現れ、大きな鞄を勢いよく机に置いた。
「おはよう」
「おー」
「まだ、部活あるの?」
もうすぐ中間テストなのに。
「今日は自主練。どうせ家帰っても勉強しないし」
「そう、そっか」
「うん。あ、そうだ。百田さん、英語教えてよ。あと、古文も」
にこにことしながら私を誘ってくれる。ちょっと前、私が強く断ってからあんまり喋らなくなっていたのに、一昨日を挟んでまた元通りだ。子どもっぽいのに、そういうところ嫌いじゃないなと思った。
「だから私、教えるほど得意じゃないんだって。古文なら千紘のが得意だし」
「さっすがに、三波さんに教えてもらうとなると、修に怒られるよー。なっ」
江畑くんは笑いながら、前の席をぺしっと叩いた。大谷くんはのろりとこちらを向いて、愛想笑いで返事をした。表情はあんまり明るくない。
そういえば、土曜日、ちょっとは2人きりで進展したのかな。自分のことに精一杯でメールで尋ねたりもしてなかった。
「修、何か暗くね? 体調よくねーの?」
「……いや、普通だよ」
「そうか? んー、ねえ、三波さん」
いつもはこちらの会話に入ってくる千紘も、今日はなぜだか前を向いたままだった。江畑くんに呼ばれて初めて、私のほうを見た。
「え、千紘。ど、」
どうしたの、と聞こうとして止めた。きっと江畑くんは気付いてないけれど、この顔、私は知っている。前に千紘が大谷くんを怒らせて、ショックで泣き止めなかった日の、次の日の顔だ。きっと彼女は昨日泣いたのだ。土曜日、もしかしたら日曜日、何かあったのだろうか。
「千紘、トイレ付き合ってよ」
体の重い彼女の腕を引っぱり立ち上がらせ、同じ階の女子トイレに連れて行く。
誰もいないことを確認して、向き直った。
「どうしたの、その顔。昨日泣いたんでしょ? 大谷くんと何かあったの?」
私がそう聞くと、千紘はふるふると首を横に振る。
「じゃあ何? 何でそんなになるまで泣いたの?」
「……うう」
ぽろり、ぽろり。彼女の目元から大粒の涙。
「……! まさか、大谷くんに酷いことされたの? 無理やり!?」
よからぬ想像が私の脳裏をよぎり、大谷くんに対する憎悪がこみ上げてくる。
「ち、違う……そうじゃなくて」
「じゃあ何!? 千紘が嫌って言えないんなら私が言ってくるから!」
いやさすがにそれは、おせっかいなのかな。と思いつつ。
こうやって泣いてしまう彼女を見ていると、黙っていられなかった。自分にできることなら、何でもしようと思った。
「うう〜……そうじゃなくてえ……」
「千紘!?」
「けん、か」
喧嘩? 大谷くんと千紘が?
「喧嘩、したの……土曜日。それで……」
なんだ、心配した……。よからぬ想像でいっぱいだった頭をいったん整理して、自分を落ち着けるようにひとつ深呼吸をした。
「うん、それで?」
「も……何か、喧嘩別れ? みたくなっちゃって」
「別れって……別れたの?」
また、首を横に振る。
「喧嘩してそれっきり……なの。どうしよう……嫌われたかも」
「それっきりって、土曜日喧嘩して、日曜日で、今日でしょ?」
「……うん」
それっきり、ってほどの時間なのかな。彼氏がいて喧嘩をした経験のない私には分からない。とりあえず彼女の話を聞くことにしよう。
「で、喧嘩の原因は?」
「……」
「原因が分からなきゃアドバイスも慰めもできないよ。千紘が考えてるほど、そんなに大したことじゃない可能性もあるでしょ? 何でも悩んだときは、第三者からの視点をまじえて解決すべきでしょ」
ものすごく全うなようだが、これがもし自分に向けられた言葉だとすると胃が痛い。そういえば将門とのことは当時誰も相談しないまま、今になって千紘に話をできるようになった。
「……春香には、言うべきじゃないのかもしれない」
「じゃあ、聞かなかったことにする。今だけの話にするから」
「……うん」
チャイムが鳴った。朝のショートホームルームの時間だ。私たちは視線を交わして、それでも動き出さなかった。
ショートホームルームが始まったからか、トイレの外は急に静かになった。時折急いで走る生徒の足音が聞こえるだけ。
「もう気付いてると思うけど、江畑くんは、春香のことが好きで」
私は声に出さず頷いた。
「大谷くんは江畑くんと最近仲が良いみたいで、メールとかしてるみたいなのね。それは知ってたんだけど、その内容が、春香とのことの相談だったの」
いつか、大谷くんがメールしていた相手が江畑くんだった。あれは確か、もう辞めたバイト先の帰りのことだ。
「どうしたらいいかなって江畑くんも悩んでたみたいで、ちょうどそのとき私と春香が、大谷くんの家に行くことになったから、気を利かして誘ったんだって。それ聞いて、もちろん江畑くんの気持ちも分かるんだけど、春香には彼氏ができたし、っていう話をしたの。ごめんね、春香の許可も得ずに彼氏の話をしてしまって」
「あ、うん。それは全然……」
それどころか、もう別れました、とは今の状況ではとても言えず。
「それでも……春香に彼氏がいても頑張るのは江畑くんの自由だって、大谷くんは言うのね? でも私は、江畑くんはモテるし、他にも……いるのに、ずっと春香のことを追いかけるなんて春香だって重荷だよって、口論になって」
「ちょ、ちょっと待って? あんたたち、自分たちのことじゃなくて、私と江畑くんのことで喧嘩して、そんなんなってるの?」
「え……うん……」
てっきり。てっきり、もっと別な問題で揉めているんだと思ったのに、拍子抜けだ。
トイレの壁に自分の体を預け、はあ、と息を吐いた。
「しょうもないなー……さっさと仲直りしておいで」
「しょうもなくないよ! これね、結構省略して言ってるんだからね。もっと色々……言いたいこと言っちゃって……取り返しつかないし、本当どうしようって」
「ばかだね、本当。こっちからしたら、全然大したことない。千紘からごめんって言ったら、絶対許してくれるよ、大谷くん。千紘はごめんって思ってるんでしょ?」
私の言葉を聞いて、力強く頷いた彼女は可愛かった。思わず抱きしめたくなるくらい、頼りなくて、支えてあげたくなった。
「……でも何て言っていいのか分かんない」
「だから、ごめん、て言えばいいじゃない」
「メール? 電話?」
「謝るのは直接会ってじゃなきゃだめだよ。ていうか、毎日学校で、席が隣なのに何をメールとか電話とかで謝るの?」
「うう〜……」
ぼろぼろと止まらない涙を拭いてやろうと、ポケットからハンカチから取り出して思い出した。江畑くんにハンドタオル返さなきゃ。
「あり、がと……ねえ」
「ん?」
「江畑くんはすごくいい人で、幸せになってほしいし、春香のことはもちろん大好きだけど、春香は江畑くんに興味なくて、他に彼氏もできて。でもね、でも……私の友だちで、江畑くんのことを好きな子もいるの……その子本当に江畑くんのこと好きで、一年のときからずっと好きで……」
木下さんのことだな、と察しがついた。
「でも、江畑くんと春香を、お似合いだなって思うこともある……それに江畑くん、春香といるときすっごく嬉しそうで、見てるこっちまで嬉しくなる……だから春香が江畑くんのこと好きになってくれたらって思うこともある……江畑くんのこと好きな子のこと、応援してるのに。私、応援してるのに、どうして、って本当矛盾してるって思うんだけど」
もし、江畑くんに今告白されたら、私どうするんだろう。今まで他の男の子たちにしてきたみたいに、振っちゃうのかな。あの笑顔が隣で咲かなくなると思うと、少し寂しい気もする。あのグレープフルーツのような匂いも、少し惜しい気もする。
でも私は、江畑くんを振らなきゃいけないんだろう。彼に片思いしている木下さんのために、私たちのために喧嘩している千紘と大谷くんのために、もちろん自分のためにも。
月島くんとのことでよく分かった。私の心の中にはやっぱりまだ将門がいて、他の男の人を受け入れられるような状態じゃないんだ。将門を忘れるために付き合ったって、相手を傷つけるだけ。自分を守るぱっかりの行動は、もう終わり。
決めたんだ。将門と向き合うって。ご飯もちゃんとみんなで食べて、時間を過ごして、気持ちがそのままならもうしょうがない。将門を好きな気持ちと付き合って生きていくしかない。私は、そう、決めたんだ。
放課後、テスト前だからかみんな早めに教室からいなくなってしまった。千紘がちゃんと帰りに、大谷くんを誘っていったのを確認したあと、私は自分の席に座った。メールで江畑くんにメッセージを送る。
『自主練のところごめんね。今、教室に戻ってくることできる?』
返信はすぐにきた。
『いいよー!ちょっと待ってて』
鞄からハンドタオルの入ったショップバッグを出して、机の上に置く。もし彼が練習中ならメールに気付かないだろうから、暗くなるのも覚悟で待つつもりだった。
廊下をバタバタと走る音が聞こえ、開いた扉の向こうにいたのは江畑くんだった。
「ごめんー、遅くなった」
「ううん、こっちこそ、ごめんね。急に呼び出して」
「百田さんからなら大歓迎だよ。どうせ一人で練習してるだけだし。で、どうしたの?」
江畑くんは自分の席に座る。制服じゃなく、この前の土曜日と同じTシャツとジャージ。
「これ、返してなかったから。ありがとう」
ショップバッグのまま手渡すと、何だっけ、という顔をした江畑くんは素直に受け取ってくれる。
「え、ああ! この前のタオルか。こんな丁寧にしてくんなくてもいいのに」
「すごくいい匂いしてたのに、洗濯したらなくなっちゃった。当たり前だけど」
笑いながらそう言うと、彼は照れくさそうに頭を掻く。
「スポーツやってる奴のほうが、汗かくから気にするんだよね」
「うん、なるほど」
2人で笑って、静かになる。オレンジの夕やけは、教室を同じ色に染めている。
「……用って、これだけだよな」
江畑くんが、ぽつんと喋る。
本当は、違う。いざとなると何て言っていいのか分からない。告白もされていないのに、振るなんて高等技術、所詮私にはないのだ。でも、やるしかない。
「江畑くんてさ……なんでいつも私を誘うの?」
「……え?」
「いつも、サッカー観に来てとか、勉強教えてとか、私いつも断るのに、誘うの、どうして?」
「うん、えっと」
しばらく俯いていた顔が、私を見て。
真っ直ぐに私を見て行った。
「百田さんのこと、好きだから、かな」
告白、された。
操り人形のように、江畑くんは私に告白してくれた。
私が口を開こうとすると、それは江畑くんによって遮られた。
「あ、いい。返事はいらないから」
「え……」
「どうせ、俺のこと好きじゃないだろ? だから、今は、返事はいらない」
音を鳴らして椅子から立ち上がると、江畑くんは、うんと頷いて笑った。
「片思いで、いいんだ。むしろ、片思いするんなら、百田さんがいい」
私も持ったことのある、その感情。
江畑くんはすんなりと、相手にさらけ出せる。
「すげー可愛くて、キレイで、ちょっとツンとしててさ、俺なんか届かないって分かってるけど、好きでいるの、やめられそうにないから。だから、返事は、頼むからしないで」
オレンジ色は、私と江畑くんをその一色に染めて。
同じなんだと思った。私と彼は同じ。相手には届かない感情を抱えて、過ごしてる。でも江畑くんのほうが、私よりもずっと先を行ってる。私は将門に自分の気持ちをさらけ出す勇気なんてない。自分の気持ちから逃げて、全く関係のない人を利用して、挙げ句の果てにこんなふうに。
「これ、ありがとう。俺、このタオルがあるだけでご飯3杯食えるかも」
「……なに、それ」
「あはは、うん。でも、本当にそれくらい嬉しい」
「大げさだよ」
「百田さんだからだよ。……じゃあ、俺、戻る」
扉まで歩いて行って、振り返った。
「また、明日」
私の返事を待つ江畑くんに、精一杯笑って、「また明日」と私は答えた。