15
今さらになって思い出す。
昨日、月島くんと交わしたメール。今日は友だちカップルのところに邪魔しに行くんだって私が送ったら、俺は学校の補習だよ、とうんざりした顔の絵文字とともに返信があった。補習が午前中だったとしても、今彼が私服でこのあたりを歩いているのは不自然だ。
「あ、えっと……百田さん、聞いて」
私は逃げているわけじゃない。耳を塞いでいるわけじゃない。
そうやって、私の態度を決めつけることは言わないでほしい。
「あの、今日は、友だちのところにって、」
「今、その帰りだよ」
「ああ、そうなんだ……うん、そっか」
店長は何も言わない。月島くんへは自分から離れ、斜め下のほうを見ている。
「お2人は、今日はどうしたんですか?」
意外に冷静な自分に、私自身びっくりしていた。聞くべきことを、聞けた。ここで取り乱して、泣いたり怒ったりするほうがみっともない。
しばらく返事はなかったが、ようやく店長のほうが口を開いた。
「正直言うと、お願いを聞いてもらっていたの」
「お願い?」
「そう。私から、月島くんにね」
今日のことは彼の意思ではない、そういうふうに聞こえた。
「私たち、関係があったの。月島くんがバイトに入ってきたときから。私から誘って、彼が断らなかったっていうだけの関係で、別に恋人じゃない。歳だって随分離れているし、お互い分かってた」
はあ、というため息の音は低い。きっと月島くんのものだ。
「あなたがバイトに入ってきて、しばらく経った頃、私あなたに言ったことあったわよね。月島くんと付き合わないで欲しいって。それはね、彼が私との関係をやめたいって言い出したからなの。やめて、百田さんと付き合いたいって言ってた。それくらい、あなたとのこと真面目に考えてたのよ」
やめたいというのは、バイトではなく、店長との関係のことだったんだ。
だからあの時、私が電話をして確認をしてもつじつまが合わなかったんだ。でもきっと月島くんはそれに気付いて、ごまかしていたんだろうなと思う。嫌でもそう思ってしまう。
それに付き合ってもない人と、恋愛感情のない人となんて私には考えられない。価値観が違うだけと言われればそうだけれど、私にはその違いは重すぎる。
「話は、分かりました。それで、お願いって」
私は月島くんに聞いた。さっきからずっと黙ったまま。
「それは……その」
もごもごと言葉にならない言葉を発した彼を見かねて、また店長が話し出した。
「最後に、デートしてほしいってお願いしたのよ。私たち、会うときはいつも夜で、昼間に出かけたことってなかったから。月島くんとの関係をやめる代わりに、最後にデートしてほしいって。アラサー女の情けない頼みだから、優しい月島くんは引き受けてくれたってわけ」
「デート、ですか……」
私ともしたことなかった、デート。
そっか、そうなんだ。私はひとつひとつの事実を汲みとりながら、一歩、一歩と後ずさる。バス停のほうに戻らなくちゃ。もうここに私は用がないんだし、帰らなきゃ。帰るってどこに、ともう一人の自分が意地悪く言う。でも、行かなきゃいけないんだ。
「百田さん」
月島くんは、離れようとする私に向かってはっきり言った。
「……俺、確かに最低だけど、嘘は、ついてない」
「え……?」
「百田さんに対する気持ちは全部、本当だから」
でも、それ以外でたくさん嘘をついたじゃない。
「頼むから、別れるとか言わないで」
別れるも何も、私たち始まってなかったんだよ。今分かった、私全然傷ついてない。将門が結婚したときは人生が終わるような暗闇に包まれたのに、多分これは立ち直れる。すぐに、多分、明日にでも。
「許して、頼むよ」
この前、私を抱きしめた腕でまとわりついて来た。
「ちょ、やめてよ……」
「なあ、別れないよな?」
「痛、い……」
じんとする痛みに顔を歪めていると、月島くんの向こうに佇む店長の姿が目に入った。私じゃなくて、私にまとわりついている月島くんを見てる。切なそうな顔で、寂しそうな顔で。見たくないのに、我慢して現実を受け入れているような表情だ。
やっぱり、キレイだな、と思った。
そして月島くんのために用意されたであろう彼女の装いは、本当に素敵で似合っている。
「月島くん」
「……え?」
「私、嘘ついてた」
腕の力が、少し緩む。
「私ね、ずっと好きな人がいて、その人を忘れるために月島くんを利用した。月島くんがその人の代わりになってくれればいいなって思っていた。ごめんなさい」
「……なんだ、それ」
「最低でしょ? だから、お互い様ってことにしない? 今回は、お互い様」
そんなに単純な話じゃないってことは分かっている。
ただ私は、残った力を振り絞って無理やりに笑った。
「私も、悪かったよ。それでいいから、もう、やめよう」
私がそう言ったのを最後に、捕らわれていた腕は解かれた。
その場を離れるのは私。一度背中を向けてから、思い出して店長に向かって頭を下げた。バイト先で見せる強気な表情じゃない、女の顔をした彼女は何度見てもキレイだと思えた。
バス停に向かう道中で、江畑くんを見つけた。
「なんて顔、してんだよ」
え、どんな顔してるの? そう思って頬をさすると、指に涙がついた。
「ほら、このタオル、新しいから」
渡されたハンドタオルを受け取る。ふんわりとした感触に、やっぱりグレープフルーツのような匂い。これ好きだなあ、と涙をふくついでに大きく息を吸った。
「何かあったのか? 知り合いだったんだろ?」
「……ううん、違った」
また嘘。私だって、月島くんのことは言えない。
「素直じゃねえな、まあ、いいけどさ」
「本当に、違うも……」
「はいはい。いいから、泣き止んで。もうすぐバス来るから、それに乗るだろ?」
ありがとう、心の中でそう思うと同時に、すうっと体が楽になるのを感じた。
次の日の日曜日。私は朝早めに家を出て、バイト先に向かっていた。もちろん仕事ではない。まだ他のバイトが集まっていないこの時間、社員しか出勤してないのは知っていた。
「失礼します」
ノックをしたあと、声をかけて事務所に入った。
店長はいつもの通り、パソコンの前に座って似合わない口紅をつけていた。
「……おはよう。今日はシフト入ってないはずだけど」
「バイト、辞めさせていただきたくて、来ました」
私がそう言うと、店長はふっと笑った。
「やっぱりね、そう来ると思った」
「すみません、でも、私がいると迷惑だと思います」
「それがね……月島くんも辞めるって言ってるの。ああ、今度はバイトを辞める、のほうね」
どっちか残ってくれると有り難いんだけど、と店長は気だるそうに髪をかきあげた。
私は手に持っている紙袋から、洗濯した制服を取り出し机の上に置く。
「いえ、私は今日をもって辞めます。月島くんへの説得は、店長がなさってください」
「……そう。そうね、そうするわ」
「短い間ですがお世話になりました」
定型文通りの挨拶を済ませて、事務所を出ようとしたところで呼び止められた。
「百田さん」
「はい?」
「昨日、言ってたでしょ。好きな人がいるって」
思わず返事を忘れて黙り込んだ。昨日は、咄嗟だったとはいえ将門の話をしてしまった。
「それって、どうして諦めるの? あなただったら、落とせるんじゃないの?」
落とすとか、落とさないとか、私には無縁の言葉だ。
大きく首を横に振った。
「届かないんです」
「なぜ?」
「結婚しちゃったんです、私の姉と」
どうして正直に言おうと思ったのか、このとき嘘は思い浮かばなかった。将門のことになると、途端に頭がまわらなくなる。それに、彼女の前では自分をさらけ出すべきかと思った。
「姉? ふうん……結構、複雑なのね……」
「はい」
「告白はしないの?」
え、と喉まで出かかった驚きは、声にならない。
「し、しません……結婚してるのに」
「離婚してくれるかもよ? それで次は妹と付き合うって、かなり異色ではあるけどね。可能性はゼロじゃないでしょ、男と女に絶対はないんだから」
時々、思っていたこと。全部、打ち明けてしまえたら。気持ちをぶつけてしまえたら。
でも何度も考えて考えて、迷って迷って、押し込めた気持ちだ。そんなふうに簡単に言わないでほしい。私にだって事情があるのだと、つい反論したくなって。
「……店長こそ、告白したらどうなんですか」
一拍置いて。
「ふ……はははははは!」
急に笑い出したこの声は、きっと店側にも聞こえているはず。まだ開店前だから、誰もいないだろうけれど。
「あー、おかしすぎる」
目尻にたまった涙を指でなぞりながら、店長は思いっきり笑った。
「確かに、そうよね。あなたの言うこと、的を射すぎてて面白くなっちゃった。人のこと言うまえに、自分のことなんとかしろって感じ」
「……そうですよ、余計なお世話です」
「ごめんごめん。簡単に言うことじゃないわよね。ふふ」
店長は立ち上がる。真っ直ぐに向き合うと、少し優しい顔になった。
「正直どう思う? 10個年下の男とか、私の人生史上、取り扱ったことがなくて未知の世界だわ」
「そんな……でも、してたんですよね?」
「セックスはするわよ? それは別に、できるけど、恋愛はまた違うじゃない」
ああ、分かりません。私には分かりません。
私にはついていけない、という意思表示で小刻みに顔を横に振った。
「あなたにも分かるときが来るわよ」
「……来てほしくありません」
「あ、そう」
ふと、私と将門も10個以上歳が離れているなと思った。
「あの、私も、なんです。好きな人、10個以上年上なんです」
「へえ」
彼女は目をまるくした。
「いいこと教えてあげる。あなたは有利よ。男なんて、若い子が好きなんだから」
「でも、私、店長のことキレイだと思ってます」
なぜここで彼女を褒めようと思ったのかは分からない。
ただ正直な気持ちを言わなくてはと、考える前に言葉になっていた。
「……何それ、関係ないじゃない」
「そう、でしょうか」
「そうよ。それより、もうそろそろバイト来ちゃうから、帰りなさい」
時計を見ると、9時30分を少し過ぎたころだった。
「はい」
「じゃあね、元気で」
「店長も、お元気で」
目を細めた彼女は、また椅子に座ってパソコンに向かった。
私はその用事だけを済ませて、少しぶらぶらと歩いたあと、昼前には家に戻った。キッチンでは母と姉が一緒に昼食の準備をしており、将門と父がソファに座ってテレビを観ていた。
「た、だいま」
おそるおそる、誰へともなしに声をかけた。
すると一斉に4人がこちらを向いたので、ちょっと面白かった。みんな、目を丸くして私がここにいることに驚いていた。
「おかえり」
一番にそう言ってくれたのは、将門だった。
いつも姿を見かけると避けなきゃいけないと身構えていただけに、こうやって向き合うのは久しぶりだ。
「……春香、ご飯、もうできるわよ」
母がそう言うので、分かった、とだけ返事をして自分の部屋に戻った。
そのあと久しぶりに5人で食べた昼食は、非常に気まずかった。