10
例のファーストフードに行かなくなって、もう一ヶ月半。最初は代わりの場所を探すことに必死だったが、途中からそんな心配事がなくなった。母方の祖母が独り暮らしなのだが、腰を悪くしてしまって3日に1日でいいから家の手伝いをしに来てくれないかと母親が頼まれたのだ。母親も夜遅い仕事をしているし、どうしようかと家族会議をしているときに「じゃあ私が行こうか」と自ら手を挙げたのだ。
祖母の田舎はここから電車で一時間だ。姉夫婦にも、月島という男の子にも会う心配のない場所。私はいっそのこと夏休みずっと祖母の家に住むことにした。どうせ来年は受験生でゆっくりできないのだし、田舎生活を満喫してみたいとそれらしい理由で両親を説得した。何か困ったことや足りないものがあれば気軽に家に帰れる場所だし、もともと祖母との関係も悪くないので私は乗り気だった。
そして私は自分の望み通りの夏休みを手に入れた。
「もう明日で休みも終わりかあ……」
畳に寝転んで、扇風機にあたりながら呟く。祖母が茹でてくれたそうめんは完食した。そういえば将門が家にきてから、ご飯を食べた後にごろごろすることもなかったんだと思い出す。その点でいえばこの祖母の家の居心地は最高だ。祖母も私には甘いので、こんな怠惰な姿を見せても文句ひとつ言わない。
「まあまあ、春ちゃん。おばあちゃん寂しいわあ、もういなくなっちゃうのねえ」
「ねえ、おばあちゃん。また学校始まってもここに来ていい? 電車で一時間だし、ここから学校通うことも、できなくないんだよね」
休みの間、ひそやかに考えていたことだった。
祖母の家に帰ってきてもいいのなら、学校帰りに時間をつぶす場所を探さなくても済む。通学に往復2時間以上かかるのは痛いが、どうせそれ以上の時間どこかでぼーっとしているのだからさして変わりはない。
私の言葉を聞いて、祖母は困ったように笑う。
「そりゃ、おばあちゃんは嬉しいけどね? さすがにお母さんに怒られるわよ、そんなこと春ちゃんにさせちゃったら」
「私は全然平気だよ? もう高校生だし……」
「春ちゃんのおかげで大分腰も良くなったし、ばあちゃんのことは心配いらないから。たまに顔を出してくれたらそれでいいのよ? そうだ、今度は冬ちゃんも誘っておいでね」
将門と結婚してからは、姉とはあまり話をしていない。一緒に出かけることもなくなった。私が中学生にあがったときは姉はすでに就職していたためか、もともとそんなに交流のある姉妹ではなかったのだが。結婚がきっかけとなってそれに拍車がかかったのだ。
ごろごろとなおも転がり続けていると、頭上に置いていた携帯電話が震える。すぐに途切れた振動に、メールだと分かった。
ディスプレイに表示される名前。この夏休みには何度もみた名前だ。
なんでこの人とメル友みたいになっているのか、よく分からない。でもクラスメートだし無視するわけもいかないし、何となく返信し続けてしまった。
『おつかれー。俺今ぶかつおわった。宿題全然やってなくてやばいんだけど(><)』
江畑くんって結構マメな人なんだな、とぼんやり思う。
何て返そうか考えていると、ふと千紘に江畑くんがタイプじゃないのかと言われたときのこを思い出す。確かに見た目はカッコいいと思う。背も高いし、スポーツをしているから体つきも男らしい。性格だって明るくて優しい。もしかして江畑くんは私のことを、と自惚れることも何回かあった。休み中、サッカーの試合を見に来ないかと誘われり、一緒に海に行かないかと誘われたり、宿題見せてくれないかと言われたり。いや、最後のは好意というよりは便利に使われているだけだな。
誘いには乗らずに流したけれど、こうやってメールは来続ける。暇つぶしにしてるのかなと思う。こんなふうにメールしている女の子は私だけじゃないんだろうなとも思う。でも別に心も痛まないし、メールが来なくなったって平気だろう。
やっぱり私の心に住んでいるのは、まだ将門なのだ。
夏休みが終わり、始業式の日。体育館から戻ると、クラス中がある話題で持ち切りになっていた。
「何騒いでるの?」
教卓に陣取ってわいわいやっている中心人物の麻理子に声をかけた。
「あ、春香も言ってよー。席替え、したいって」
「席替え?」
「だってもう二学期だよー? 席替え席替え!」
席替えでそんなに騒ぐなんて小学生か、と思いながらその輪から離れた。
自分の席に戻ろうかと思ったが、まだ収まらない騒ぎでホームルームは始まりそうにない。ふと千紘の座っている席を見ると、前の席の江畑くんと何やら楽しそうに話をしている。夏休み前ならあまり気にせずにその場所へ向かったが、今は違う。今まで話をした回数よりもおそらく多く、この夏はメールのやり取りをしていた。結局一昨日のメールには返信してないし、気まずい気持ちがある。
仕方なく自分の席に座る。手帳を取り出しまた眺める。夏休みでしばらく時間つぶしには困っていなかったが、今日からまたどうしようか迷う日々だ。一応めぼしい場所はいくつかピックアップしてある。家の近所じゃなくて学校の近くとか、定期券内で寄り道できるところとか。
「あーもう、席替え席替えうるさい。じゃあお前ら勝手に決めたらいいじゃないか」
おそらく皆に囲まれて嫌気がさしたであろう、うちの担任のうんざりした声が聞こえてくる。
「やったー! くじにする? スーパーあみだにする!?」
「よっしゃ、先生ホームルームなしでいいね? みんな、席替えするよー!」
がやがやと騒ぎがいっそう大きくなり、気の早い子はもう自分の荷物をまとめ始めている。まあ私もこの席いまいちだなと思っていたし、と机の中を覗く。今日は始業式なのであまり荷物はない。授業中、居眠りも内職もしない派の私は、そのポジションよりも周りのメンバーのほうが気になるところだ。どうか騒がしい人たちに包囲されませんように。
そんな軽い気持ちで、まわってきたくじを引いた。
「おお、百田さん」
江畑くんは私の顔をみてわざとらしく笑った。
確かにこのメンバーは誰も無駄に騒がないし、授業をまじめに受けることに支障はないだろう。私の前には千紘、その隣にはお膳立てされたように大谷くん、その大谷くんの後ろ、つまり私の隣には江畑くんが配置された。
え、これって誰も仕組んでないよね?と確かめたくなったのは私だけではないはずだ。でもくじは即興で作られたもののインチキくささはなかったし、周りだって特にこの配置を気にする様子もない。そういえば夏休みを明けても千紘と大谷くんの話題はまったくのぼらない。休み中ちゃんと恋人同士らしい時間を過ごしたのだろうか、とこちらが心配になるくらいだ。
「百田さんこの前、俺のメール無視したでしょ」
う、と喉を詰まらせた。後ろめたさは隠せない。
「……ごめん。寝ちゃってて」
「そうなんだー。じゃあしょうがないか。おばあちゃん家にいたんだろ? 夏休み楽しかった?」
「うーん……おばあちゃんの手伝いとか、そんなのばっかり」
それでも家にいて、毎日姉と将門と顔を合わせるよりはマシだった。
そうだ、今日帰りどうしよう。明日からはまた夕方まで学校があるが、今日は昼前で終わってしまう。千紘はどうするのかなと思って前を見ると、何やら大谷くんとアイコンタクトをとっており邪魔してはいけない雰囲気に見えた。……私が心配するようなことはまったくないらしい。
「ね、ねね、百田さん」
「ん?」
帰り支度を始めていると、江畑くんが私の机の端を指でトントンと叩く。
「今日まっすぐ帰るの? どっか寄ってかない?」
メールじゃなくても、あっけらかんと誘ってくる姿勢に感心すら覚える。
「……部活なんじゃないの?」
「今日は顧問がいないから自由参加なんだ。俺夏休み毎日顔出してたし、今日くらい休んでもバチあたらないでしょー」
「ふうん」
私が中学のとき所属していたバレーボール部は本当に厳しかった。それだけ強かったということなのだが、自由練習なんてただの建前で強制参加させられていた。そういう体育会系の精神が嫌になって高校ではやめたのだ。人に話すときは髪の毛を切るのが嫌だなんてごまかしているが。
それにしてもどうやって断ろう。
「カラオケ行かない?」
「えー……」
「じゃ、ボウリング」
「え、江畑くんっ!」
間に入ってきたのは千紘だった。
「なに……びっくりした、三波さん」
「あ、えっと、だめ。春香は、今日、私と一緒に帰るから」
そうだっけ、と私が彼女を見ると必死な形相で江畑くんに話しかけている。私が断りきれそうにないのを見抜いて助けてくれているのかなと察しがついた。とりあえずここは頷いておこう。
「そうなの? なーんだ。ていうかさ、三波さんと修は一緒に帰ったりしないの? きみたち、お付き合いしてるうえにお互い帰宅部なのに」
「なんっ……え」
「ちょっとー、修。一緒に帰れよー」
俯き加減に千紘を見ていた大谷くんは、こちらを向いて言う。
「俺、今日バイト」
「え、修バイトなんかしてんの? ずっと?」
「うん、高校あがってからずっと。本屋のバイト」
知らなかったと思って千紘を見ると、私と目が合い小さく頷く。
「どれくらい働いているの?」
興味本位で尋ねると、大谷くんは鞄から一枚の紙を取り出す。
カレンダーのような表に、何人かの名前が時間ごとに区切られて記載されている。やたらに、「大谷」という名前が多いような。
「え……これ週4くらいある?」
「週5入るときもある」
私は目を丸くしながらシフト表を返す。
「今人手不足で困ってるんだ。だから強制的にシフト入らされてる」
「へえ……」
「三波さん、帰宅部なんでしょ? 一緒のとこで働いちゃえば?」
面白がって江畑くんがからかうと、千紘は苦笑いしながら首を横に振った。
「うちは親がバイトはだめだって……」
「なんだー。残念だね、修」
俺も部活ばっかりだしバイトは無理だなあ、と江畑くんが呟いたとき、私の中でもやっとした霧が晴れていくような感覚に陥った。何これ、どういうこと。もしかして私が求め続けてた解決策ってこれなんじゃないかって、言われているような。
「……ねえ、そこのバイト先ってどこにあるの?」
私は考える前に、大谷くんのほうへ身を乗り出していた。
次の日、生まれて初めて書いた履歴書を持って大谷くんのバイト先へ足を運んだ。一応親には許可を貰ったが、子どもが意味もなく夜の10時に帰ってきても何も言わない親だ、二つ返事で承諾を得ることができた。
「百田春香さん。大谷くんの紹介だね。同じクラスなんだって?」
「はい」
ショッピングセンターの中に入っている書店は、夕方の時間帯でも親子連れや年配の人が多くにぎわっていた。店員さんも常に2〜3人はいるようで、皆忙しそうにしている。自分にそんな仕事が務まるか不安にも思ったが、大谷くんという強い味方がいることも心強い。
「……うん。じゃあ、明日から来てもらえる?」
「え、あの。いいんですか?」
あっさり貰った採用通知に思わず拍子抜けして尋ねると、店長さんという中年の男性は笑顔で頷いた。
「大谷くんの紹介なら安心だよ。あの子、この店で働いて一年半くらいだけど、すごくしっかりしてて頼りになるからね」
「そうなんですね」
「ところで、百田さん。バイト先、ここじゃなくてもいいかな?」
ここじゃないということは、違う店舗になるということだろうか。
「このお店が人手不足と聞いたのですが……」
「もうね、今はどこも人手不足なんだ。場所はここなんだけど、隣のレンタルDVD店でお願いしたいんだよね」
大型ショッピングセンターの一角であるこの書店の隣には、同じ企業系列のレンタルDVD店が並んでいた。
「今人が足りなさすぎて、こっちの書店からもあっちの店にヘルプで行かせたりしてて大変なんだ。どうにか頼めないかな?」
いつの間にか形勢が逆転しており、店長さんが両手を合わせて私に頭を下げている。
引くに引けなくなった私は、仕方なくこの話を引き受けることにした。大谷くんと一緒の店じゃないのは不安だが、常に同じシフトとも限らないし、そうなればどこで働こうと人間関係は作っていかないといけないのだ。
「ちょっとだけお店を覗いて帰ってもいいですか?」
店長さんにそう聞くと、嬉しそうに「じゃあ僕が案内するよ」と連れて行ってくれた。書店を出て本当にすぐ隣。つい最近DVD化された映画のポスターが大きく貼ってあり、自然と興味をひかれた。
「店員になるとレンタルするのに割引きいたりもするからね」
「本当ですか? 嬉しい」
映画は嫌いじゃないし、最新のCDもいくつか置いているようだ。店長さんに案内されるまま陳列棚を通って、レジにお客さんがいなくなったのを見計らってそちらに近づく。
「月島くん、お疲れさま」
店長さんが声をかけたのは、私と同じくらいの歳の……え。
「お疲れさまです……と、あれ」
彼は私を見て、数秒固まった後店長のほうに視線を戻す。
「新しいバイトさんですか?」
「そうなんだよ。月島くんにも無理にシフト入ってもらってごめんね? 明日から入ってもらって、来月くらいからは君のシフト緩和すると思うから。あ、彼女、百田春香さん」
「……百田さん」
よろしくお願いします、と言って笑った彼の顔はこちらが怖くなるくらい爽やかだった。