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ノートがじんわりと湿っている。冷房は点いているけれど、節電とかで温度は高めの設定だ。私の前の席の男の子は、さっきからずっと下敷きをうちわ代わりにしてパタパタと音がしている。窓際の席は、誘惑が多い。例えばグラウンドで体育をしている人たちがいればぼんやりと眺めてしまったり、天気が急に変わったらその様を観察したり。最近の私はよそ見が得意だ。
そうしていないと、大谷くんばかりを見つめてしまうから。
大谷くんは、私の席からはよく見える場所に座っている。真ん中の列の、前のほう。一学期始まったばかりに実施された席替えで、「最悪だ」とひと際だるそうに机を移動させていた姿もよく覚えている。うちの担任はあまり席替えをしてくれないことで有名なので、次の機会は夏休みが終わったあたりだろうか。最悪の席でも、大谷くんはいつも楽しそうに周りにいる男の子と喋ったりふざけたりしていた。
「次は……三波。三波千紘」
急に大きな声で名前を呼ばれて、私は我に返った。視界に、こちらを振り返っている大谷くんがいた。
「はい」
返事をすると、現国の先生は不思議そうな顔をした。
「返事はいいから。次、読んで」
「あ……えっと。次」
そうだ、今日から新しい小説文に入っていた。ぱらぱらと教科書をめくっていると、前の男の子がこっそりと「二十五ページの前から三行目」と教えてくれる。幸い分からない漢字もなく、すらすらと読むことができた。最初は私に注目していたクラスメートも、私が読み始めると各々の教科書に視線を戻してくれホッとする。
「……じゃあそこまで。ここは主人公の心情を知るポイントがあって」
先生が解説を始めたのを見計らい、私は少し身を乗り出し、前の白いカッターシャツをちょんと触る。その些細な感触で気付いてくれたのか、彼はこちらに振り返った。
「ありがと、江畑くん」
「おー」
江畑くんは真っ黒に日焼けしている、サッカー部の男の子だ。肌とは違い真っ白な歯を見せて笑った。
私もつられて笑顔になっていると、ふと、大谷くんがこちらを見ているような気がした。視界には入っているのだから、気配は感じるのだ。江畑くんが再び前を向いたあと、我慢できなくてそちらに視線を向けると、やはり大谷くんと目が合った。その瞬間、彼は前を向いてしまう。
何、なんなの。
前はこんなこと絶対なかった。目が合うなんて奇跡に近くて、そんなことがあれば一日浮かれて大変だったのに、今はしょっちゅうこんなことがあって戸惑うのだ。
チャイムが鳴って、次は体育のため皆着替えに向かう。体操着が入っている手提げ鞄に忘れ物がないか確認していると、友だちの春香が私の席へやってきた。
「千紘、行こう」
早く行かないと更衣室で隣同士のロッカーをとれないため、急ぐ必要があった。
「ごめんね……っと、日焼け止め持ってく」
「えー、朝塗ってないの?」
「だって私、バス通だもん。家の前にバス停あるし……」
「でもまったく外に出てないわけじゃないし、室内でも日焼けするよ? 千紘、窓側の席なんだし」
そうだった、と顔を上げる。思わず自分の腕をさすると、春香が笑う。
「無駄無駄。もう焼けちゃってるよ。あーあ、だね」
「だって日焼け止めって苦手なんだもん……匂いが独特っていうかさ」
二人で並んで歩き出す。教室では、更衣室まで行くのが面倒くさいのか、教室で着替えだしている男の子もいる。そちらはあまり見ないようにして、廊下に出ようとしたときだった。
サッカーボールが私たちの目の前を通り過ぎた。
なぜこんなところに、と私と春香は呆然として目で追う。
「あっ……ごめん」
慌ててそれを追いかける背中に驚いた。大谷くんだった。
ボールを手に持った大谷くんは、少しずつ距離が近くなる。
「ごめん。あたった?」
私は動揺して大谷くんではなく、ボールの転がってきた方向を見る。おそらく蹴ったであろう張本人が、私と春香に向かって手を合わせていた。大谷くんの言葉には、春香が返事をした。
「あたってないよ。大丈夫」
「悪い」
「ううん、千紘?」
春香にそう言われても、私は顔を向けられない。
「……行こ。更衣室、混むから」
「あ……うん。じゃあ」
大谷くんのほうを見ないようにして、私は春香の腕を引っぱりその場を離れる。
何ともいえない空気。気まずい。
私は大谷くんを、やはり意識せずにはいられないと痛感した。
「千紘、そろそろ腕を」
「あ」
春香の腕を掴んだまま階段を駆け下りていたことに気付いて、やっと立ち止まった。
私たちの周りには、同じように早歩きで更衣室に向かう女の子たち。早く行かないと隣同士のロッカーがとれないことは分かっている。分かっているのに私は、下を向いて動くことができなかった。
「千紘?」
「……やっぱり、辛い」
「うん」
私は大谷くんのことを、何とも思わないなんてできない。
好きという気持ちに蓋をして、なかったことになんてできない。
「はあ、どうしたら、いいだんろう」
春香が心配そうに私を覗き込んでくるので、無理にでも笑ってみる。でも、痛い顔をしていただろう。それにますます落ち込んでしまう。
「千紘、無理しないで」
「……うん」
「話、聞こうか?」
春香は今まで散々、私の話を聞いてくれた。同じ話を何度も。進まない悩みを何度も。
だからもう、諦めると決めたのに。こんなふうに優しくしてくれる友だちにももう甘えないと決めたのに。
私は大きめに、横に首を振った。
「いい。もう、いいんだ」
「……本当?」
「うん、行こう。更衣室」
今度こそきちんと笑った私は、再び階段を駆け下りた。
一ヶ月前。衣替えをしたばかりの私たちは、よく放課後居残ってくだらない話をしていた。
「でね、字がすんごく綺麗だったんだ。いいよね、男の子なのに、がさつじゃない感じが」
好きな人のことを友だちに話すのが最高に楽しくて嬉しかった。
「お習字絶対やってたと思うんだよね、何級かな……いや、段かな」
鼻息荒く好きな人である大谷くんのことを話す私を、春香が半分呆れて聞いているという構図は情けないながらも居心地が良かった。自分の好きな人はこんなにすばらしいんだってことを知ってほしくて、大谷くんの新しい一面を知った日には春香を長話に付き合わせていた。もちろん直接話したこともないし、目が合うことも奇跡だから、知るといっても見ていて分かる範囲ということにはなるのだが。
「……あ、そうだ」
私は立ち上がって、教壇へ向かう。
いつもなら日直が担任のもとへ持って行くのをさぼって放置されているのだが、今日は目当てのものは見つからなかった。
「もしかして、学級日誌?」
春香が少し離れた席で尋ねてくる。
「今日は珍しく、提出されてるみたい。いつもあるのになあ」
「今日って日直誰だっけ……」
二人して黒板の端に書かれた日直欄を見る。
「なあんだ、今日は委員長の日か」
そこにある名前は、我がクラスの委員長、垂井くん。彼なら漏れなく記入し、速やかに提出していたとしても頷ける。
「残念だな。春香にも見てほしかった、大谷くんの達筆」
「あはは、そんなに上手いなら一回見てみたいな」
調子に乗っていたんだと思う。はしゃぎすぎていたのだとも思う。
だからって許されることじゃないのだけれど、私は何度もあの日の自分に言い訳をしている。そして自己嫌悪に陥るのだ。
教壇から自分の席に戻ろうとして、大谷くんがいつも使っている机の前で止まった。普段なら絶対に考えられないが、放課後で春香しかいない空間だからという現実が私を強気にさせていた。人差し指で、その上をなぞる。落書きも何もない、つるりとした綺麗な机。
ふと、一冊の大学ノートが机からはみ出しているのに気付いた。
青と白のボーダーの表紙に、「2年1組 大谷修」と書かれている。これを大谷くんが書いたんだと思うと、当たり前なのにじんわりと嬉しい気持ちになる。改めて周りを見回すと、誰も通ることのない廊下に、こちらを見ている春香。少し迷いつつも、もっと見てみたい欲望が勝ってしまった。私はゆっくりと自分の手を伸ばし、半分はみ出したノートをとる。そろそろとノートを持ち上げた。
だめ、元に戻して。
心のどこかで別の私が言うけれど、私はそれを開かずにはいられなかった。表紙をぺらりとめくると、綺麗な文字が並んでいる。
「千紘……?」
春香の呼びかけにハッとして、彼女のほうを見る。最初はあきれ顔だった春香の顔が、不意にどこかを向いた。何を見ているんだろう、と不思議に思っていると男の子の声がした。
「それ、俺のだよね」
青と白のボーダーのノートを使っているのは、おそらくクラスで彼だけだ。そして私が立っているこの場所は、彼の机。
大谷くんはすたすたとこちらに歩いてきて、私が持っているノートを抜き取る。
「三波さんって英語苦手なの?」
よく分からない質問をされ、私は返事ができない。
「悪いけど、明日提出の宿題なら、俺まだやってないよ」
意味を理解し、体から温度が抜けていく。
そうじゃない、そんな意味で彼のノートを見ていたわけじゃない。そう言いたいのに、私は声を出すことができなかった。
「それに……俺も英語苦手だから、あてにされても困るし」
ふんと鼻で笑い、軽蔑したように言われた。
「あ……あの……ち、が」
言葉にならない。分かって、と彼の目を見る。
こんなに至近距離で目が合ったのは初めてなのに、ドキドキしていない。苦しい。怖い。
「まあ、いいけど」
明らかに、いいとは思ってない口調だ。そのままノートを持って去って行こうとした大谷くんに、私は慌てて追いかける。それに気付かない彼の背中に、叫ぶ。
「ご、ごめんなさい!」
自分でもびっくりするくらいの大声が出た。大谷くんは振り返って驚いたように私を見ているけれど、少しして何も言わずにまた歩き出した。ペタペタと足音がだんだん離れていき、私はその場にしゃがみこむ。
そばに春香が来てくれているのも気付かないくらい、私は泣いていた。
「千紘……ごめん。私、誤解解ければよかったけど、咄嗟のことで、どうしたらいいのか分からなくて」
春香は悪くない。そんな優しい言葉が嬉しくて、さらに泣けてくる。
「ねえ、こんなことしか思いつかないけど、例えば、明日謝りに行くとかどう? 私も一緒に行くしさ……」
「……む、り……だよ。なん、で、ノート、見てたとか、理由、聞かれ……たら……」
告白することになる。こんなに軽蔑されて、さらに振られるなんて、耐えられない。
「でも、どうする? このままじゃ、大谷くん、誤解したまま……」
「いいの……どう、せ……告白、する勇気、なんてない、んだし……」
でも、と春香は私の言葉を遮る。
「いい、いいの。諦める、から……」
春香は目を丸くした。あんなに大谷くんのことを好きだった私が、という目だ。
「千紘、無理、しないで。二人で何かいい方法、考えよう?」
「いい……いいの……」
私はしばらくずっと、そう言いながら首を横に振っていた。
まるで、大谷くんへの思いを断ち切るように。
あれから放課後居残るのはやめた。春香と話をするときは、学校の近くのファーストフードで寄り道するようにしている。また、大谷くんがあの日のことを周りに言ったらどうしようと思ったが、それは杞憂に終わった。あれ以来、クラスメートの態度は変わらない。
でもすべては自業自得だ。好きだからといって、人の私物を勝手に触ることは誰にも許されない。はあとついたため息は、グラウンドでソフトボールをしているクラスメートの声にかき消された。
「ちーひーろー! ぼーっとするなあ!」
その声に顔を上げると、ピッチャーをしている麻理子ちゃんが私を見て大きく手を振っている。
そうだ、今は体育で、私はサードを守っていて、ランナーは2塁。確かにぼーっとしてはいけない状況だと、麻理子ちゃんに向かって手を振る。
「次アウトとるよー!」
と、麻理子ちゃんは片手でキツネを作って高く掲げる。何だかそのポーズ、私は恥ずかしいんだよな、と同じようにするも胸のあたりで掲げるに留める。
バッターボックスに入った敵チームの女の子は、すらりと身長が高くいかにも運動ができそうな感じ、いや打ちそうな感じだ。麻理子ちゃんが力を込めて投げたボールは、ぽわんと弧を描き、同時にボールがバッドにあたる音が気持ちいいくらいに響く。
「ちひろおおおおおー!」
麻理子ちゃんがそう叫んだのは、ボールが私のほうに飛んできたから。
後ろ足になりながらボールの行方を追うも、だめだ間に合わない、私はくるりと体の向きを変え今度はボールを追いかける姿勢になった。白い球は地面にバウンドし、さらに向こう側へ転げていく。
ああだから、運動は苦手だ。私は死にものぐるいで、走っていた。
ようやくチェンジとなり、まだバッターはまわってこない春香とベンチに座って一息つく。同じチームの子たちはゲームの行方に夢中だ。
「千紘?」
春香は長くて綺麗な髪の毛を、一つにまとめ直しながら言った。
「私、キャッチャーだったから、すごくよく見えてたんだけど」
「……うん?」
「もちろん千紘の様子もよく見えてたんだけど、その向こう側もよく見えてたのね?」
その向こう側。
私たちがソフトボールをしている向こう側では、男の子たちがサッカーをしている。お、江畑くんがシュートを決めた。
「麻理子がしょっちゅう千紘のこと呼んでたでしょ? そしたらね、大谷くんが振り返って見てるんだよ、千紘のこと」
ぐっと息が詰まる。そんなわけない。大谷くんが私を見ているなんて、そんなことあり得ない。
でもこの頃よく目が合う。授業中や、お昼休み中、掃除中。一日に何度も。だからもう見ないようにしようって思っているのに、意識すればするほど。
「……う、そだよ。それ私じゃないって」
「でも、麻理子が千紘を呼んだら振り向くの。他の子の名前じゃ、振り向かないのに」
確かに麻理子ちゃんは、私以外の女の子の名前も呼んでいた。何だか自分の都合のいいように解釈してしまいそうで怖い。自惚れてしまいそうで怖い。
「春香……もうその話いい。やめやめ」
「いいの? 本当に?」
諦めると決めたのだから、いいのだ。私が強く頷くと、春香は口を尖らせる。
「私、嘘は言ってないからね。大谷くんは千紘を見てた。これは事実だから」
「……どんくさいなあって思ってたんじゃないの? 私の運動音痴が面白いんじゃない」
大谷くんのことをそんなふうに言いたいわけじゃないのに。また自己嫌悪だ。
それ以上、春香は何も言わなかった。
体育が終わり、次は4時間目。
着替えと移動を含めたら休憩時間ぎりぎりになる。私が席に座って次の授業の準備をしていると、さっきまでパタパタと下敷きをあおいでいた江畑くんの動作が止まったのが分かった。
「江畑、絆創膏持ってる?」
机の中から数学の教科書を取り出そうとしていた私の手が止まった。
江畑くんに話しかけているのは、大谷くんだった。二人は別に仲が悪いわけじゃないけれど、つるんでいるグループは別で。ちょっと珍しい光景だった。
「んなもん俺が持ってるわけないじゃん」
江畑くんは笑いながら答える。
「お前サッカー部じゃん。持ってねえの」
「ないない。部室行けばあるけど。保健室で貰ってこいよ」
「今から行ってたら授業間に合わない」
どうしよう、絆創膏、持っている。机の横にかけた鞄の、ポーチの中。
でも頼まれてもないのに、渡したら迷惑だよね。何会話聞いてるんだって、思われるよね。私はうずうずとしている手を机で隠し、必死で俯いていた。
「ねえ、三波さん」
私の名前を呼んだのは、江畑くんだった。
ぼうっとしている私をよく助けてくれる江畑くん。席が近くなって初めて仲良くなった。クラスの中の男の子で一番親しいのは、おそらく彼だ。
「絆創膏持ってない?」
顔を上げると、江畑くんと大谷くんは私を見ている。
こんなに近い距離で大谷くんと目が合ったのは、あの日以来だ。まっすぐに私を見ている彼の瞳を怖いと思った。私はこの目に軽蔑されている。
「……あ、えっ……と」
「ん?」
江畑くんが私の声を聞き取ろうと顔を寄せてくる。その向こうで、大谷くんが私を見ている。
「ごめ……持って、ない」
「あ、そっかー。他をあたれ、修」
江畑くんはあっけらかんと大谷くんにそう伝える。なのに大谷くんは動かない。私を見ている。
怖い。何かを言いたそうにしている気がして、怖い。
私はおもむろに立ち上がり、机と椅子の合間をすり抜け教室を出る。もうみんな廊下に出ていないのに、どこへ行く気なんだろう。でも逃げなきゃという気持ちが、抑えられない。
「おい」
低い声に呼び止められた。
「三波、授業始まるだろ、どこ行くんだ」
数学の先生だった。当たり前だ、もうチャイムは鳴っているのに。
「すみ、ません……あのトイレに」
「そいういうことは休憩時間に済ませろ。早く行け」
「はい……すみません」
私は長い廊下を駆け抜ける。のぼせ上がった頭を冷やすように。