第8章 少年は過去に潜る
あの日から、家の中の空気が少し変わった気がする。
相変わらず母親と顔を合わせることはないし、父親もいつ帰ってきているのか分からない。
それでも、秀二は変わり始めていた。
その日、秀二はパソコンではなく机に向かっていた。机の上には分厚い本が広げられている。
本の表紙には『こども植物図鑑』とある。
『憧れの間』をクリアしてからこっち、一緒に見たひまわりがなぜだか頭にこびり付いて離れなくて、調べたくなったのだ。
オンラインで調べることもできたが、ふと昔買ってもらった本のことを思い出した。どこにしまっていたか忘れていたが、父の書斎にあるんじゃないかと思って探してみた。書棚の一番下に、それは確かにあった。
「まだ……取ってたんだな……」
秀二は古びた本の表紙を撫でて、そう呟いた。
それは秀二が初めてねだったものだった。
幼稚園の頃だ。みんなで園内にどんな草花があるか探そう、と幼稚園の先生が言った。みんな、思い思いに探し回った。これはこんな名前、これは一年中咲く、など先生はいろいろ教えてくれたが、分からないものもあった。秀二はそれが気になって、両親と一緒に出かけたときに図鑑をねだったのだ。
初めて親に買ってもらったものが嬉しくて、秀二は大切に抱き抱えて持って帰ったことを覚えている。
「そういうこともあったんだよな……」
図鑑から顔を上げて、秀二はポツリと言った。
ずっと厳しいだけの親だと思っていた。図鑑だって勉強のためと買ってくれたのかもしれない。だけど少なくとも、子どものわがままを聞いてくれるということはあった。
愛情、だったのだろうか。あの人たちなりの。
一緒に図鑑をめくった日のことを思い出す。
秀二は図鑑を手に、書斎をあとにした。
*
シュウの顔には焦りが浮かんでいた。少し、呼吸が浅くなってきている。
暗闇、ところどころに光が漏れる空間で、シュウは剣を持つ腕を力なく落としていた。
「どこだよちくしょー!!」
アイの姿はそこにはなかった。
六十階に辿りついた二人を待ち受けていたのは、輝くばかりのフロアだった。
「……プラネタリウム?」
ぽつりとシュウが言う。
そこに広がるのは満天の星空。天井も、壁も、瞬く星で埋め尽くされていた。
「ううん、違うよシュウ。プラネタリウムみたいだけど、ここは本物の星空。この中に、上に行くための鍵が隠されているの」
うっとりと星空を見上げながら言うアイを、シュウは呆気に取られた表情で見つめた。
「この中って……どんだけあると思ってんだよ……」
シュウの言うことももっともだ。本物の空となれば、銀河系だけでも一兆個以上ある。とてもゲームの域を超えているだろう。
そんなシュウを見て、アイは笑った。
「もちろん本物の宇宙ほどじゃないけどね。ここは神話になぞらえられてるんだよ」
そう言ってアイは近くにあった小さな星に触れた。
「こういう小さな星は飾り。十二星座の神話で考えればいいんだよ」
アイの手のひらの星は輝きを潜めて、小さな手の上に収まった。
「星座って言われたってお前……」
「シュウは何座?」
「さそり座だけど」
「秋生まれなんだ。私と正反対」
「アイは?」
「私は……」
そこで言葉がつっかえた。アイが困った表情になる。思い出せないのだろう。
シュウはガシガシ頭を掻いた。
「とりあえずは春生まれってことだな」
そう言うとほっとした顔になった。
「うん」
アイは小さな星を握り締めた。
「で、十二の星座の中に鍵が隠されてるのは分かったけど、どうやって探せばいいんだ?」
「それは……」
その時だった。眩い光が視界を掠める。あまりの眩しさにシュウは目を覆った。
「きゃー!!」
アイの悲鳴が響く。慌てて目を開くと、大分先の方にアイの姿はあった。その体には星の光が巻きついている。
「アイ!」
シュウはそれを追いかけようとする。
「星を! 私の星を探して!」
そう叫ぶ合間にもどんどん引き離されていく。そして見えなくなった。
「アイー!!」
星が瞬く空間に、シュウの叫び声だけが響いた。
「くそ!」
シュウは俯いた。すぐ傍にいながらこのザマだ。守ると言ったのに。
シュウは奥歯をギリッと噛み締めた。
しかし悔やんでいてもどうにもならない。シュウはメニューを起動させた。
「ソウ? 俺だ」
通話ボタンを押した先は聡だ。掴まって良かったとシュウは安堵する。
『おぉシュウ。どした?』
「急ぎで調べてほしいことがある。春生まれのやつの星座と、それに纏わる神話を調べてほしいんだ」
『神話? なに? 星占いでもすんの? お前意外と乙女チックなんだな』
「……怒るぞ?」
『ジョーダンだって! えっと、春の星座は魚座、牡羊座、牡牛座になるかな。で、どうした?』
「いま六十階なんだ。アイが流れ星に連れ去られた。アイの話じゃ星の神話がヒントになってるらしいんだが……」
『あー六十階ね。俺のデータじゃ自分の星座に鍵が隠されてるから、それ見つけて終わりってことになってるけど。アイちゃんが連れ去られたってどういうことだ?』
「俺が聞きたいよ。眩い光がしたと思ったら、流れ星みたいな光の塊に連れて行かれてたんだ」
『なるほどねぇ。あ、これなんかそれっぽい。大神ゼウスがフェニキアのポイニクス王の娘エウロペを攫って、ってある。状況似てない?』
「何座?」
『牡牛座』
ソウは短く答えると、データを送ってきた。
『牡牛座の形と今の時期の方角だ。そこは星だらけだろ? 位置分かるか?』
シュウは天を仰ぐ。そこには満点の星が輝いていて、どれが何座なのか区別も付かない。
「星なんて興味ねぇから……。これどう見ればいいんだ?」
シュウは送られてきた星座早見表の画像を何度も引っくり返す。
『まず磁石を見ろ。今の時期だと牡牛座は南の空だな』
シュウは言われたとおり、南の空を見上げる。目を凝らして早見表と星空を見つめた。
「あった。あれか」
早見表には星々を繋いだ牛の絵も描かれているが、見上げる星空はただの点の集合だ。
「なんでアレがコレになるんだよ……」
『ははっ、昔の人はロマンチストだったのかねー? 早くアイちゃんを迎えに行ってやれ』
シュウは地面を蹴った。
この階全体が無重力空間らしい。シュウの体は星々の間を飛んでいく。流れていく星の狭間に、何か見えた気がした。
――それは小さな女の子が父親らしき人に抱き抱えられている姿
――それはランドセルを背負った少女が緊張した様子で校門を潜る姿
――それはセーラー服の少女が机の前で立ち尽くす姿
それらの風景を黙って見送りながら、シュウは進んでいく。
「着いた」
そして牡牛座の一等星、アルデバランに辿りついた。湖の傍にアイが倒れていた。
「アイ!」
シュウは慌ててアイの元へ駆け寄る。そしてその体を抱き抱えた。
「おいアイ! しっかりしろ!」
シュウはぺしぺしと頬を叩く。アイはうぅっと唸って、ゆっくりと目を開けた。
「シュウ……?」
「大丈夫か!? 怪我はないか!?」
「うん……大丈夫……」
思わずシュウはアイを抱き締める。暖かい感触が腕の中にあった。
「良かった……」
まだぼんやりしたままのアイはされるがままになっていた。
『お二人さーん? いい雰囲気のところ申し訳ないけど、鍵早く探したがいいんじゃない?』
響いてきた声に二人は慌てて身を離した。ソウと通話を繋ぎっぱなしになっていたのだ。
「わ、悪い……」
「いや、えっと……私も……」
気まずい時間が流れる。そこに堪え切れなくなったようなソウの笑い声が響いた。
『とりあえずは見つかって良かったね。鍵はありそう?』
ソウの一声に二人はキョロキョロと見渡した。
「それらしきものはなさそうだけど……」
「シュウ、そういえばよくこの星だって分かったね」
アイがシュウの袖を引いた。
「あぁ、ソウが牡牛座じゃないかってアタリを付けてくれたんだよ」
『そうそう。この階は自分の星座と神話がヒントだってあったから』
当たり前のように言っているが、もはやどこからの情報なのか。シュウは突っ込みすらしなかった。
「でもなんで俺の星座じゃなくてアイの星座だったんだ?」
『うーんなんでだろ? アイちゃんがイレギュラーだから?』
三人は首を傾げた。
「ここって何座なの?」
「あ? 牡牛座だよ」
そう言うとアイは顎に手を当てて、考え込んでしまった。
「アイ?」
シュウが顔を覗き込むと、アイははっとして慌てて手を振った。
「ううん何でもない! 私やっぱり春生まれだったんだね!」
『うん、四月が五月みたいだね。牡牛座の神話じゃ、ザゼウスがエウロペを連れ去った先で幸せに暮らしたってあるけど……』
「そう! だからあの湖の先に鍵があるんだよ! たしか!」
アイが指差した先にはきらきらと水面が輝いている。湖の向こう側が遠くに見えた。
二人は歩き出した。神話のように水面を行くわけにはいかないから、ぐるりと湖を迂回する。
「そういえばここに来るまでに変なもの見たんだよ」
「変なもの?」
シュウは頷く。
「女の子の成長過程というか……」
「なにそれ! 怖い話?」
アイはけらけらと笑っていた。
「そうじゃなくて!」
『そのデータ解析してみてもいい?』
ずっと黙っていたソウが口を開いた。
「おぉいいぞ。ていうかそんなこともできんだな」
『時間掛かるかもしんねーけど。ちょっとそれ気になるわ』
いつもと違う調子のソウの声が引っかかったが、尋ねる前に二人は湖の反対側に着いてしまった。
「これか」
「うん」
そこには牛に跨る女のオブジェがあって、その牛の角に鍵が掛けられていた。
「なんだこのオブジェ」
『なになに?』
「いやこのオブジェ」
そう言いながらシュウは画像をソウに送った。
『あーこれが牡牛座だよ。大神ゼウスは牡牛に化けて、ポイニクス王の娘エウロペを攫ったんだ』
「ひでぇ話だな」
『いや、でも二人は幸せに暮らしたみたいだよ?』
「まじか! 神話って分かんねー!」
「で、でも結ばれたなら良かったんじゃない?」
焦ったように言うアイをちらりとシュウは見た。
「女ってそういうの好きだよな」
「別にいいじゃーん! ロマンチックじゃん!」
『シュウは女心を分かってないねー』
二人から責められて、シュウは膨れる。
「勝手に言ってろ」
ソウは画面の向こうで苦笑しているだろう。アイは口を尖らせていた。
六十階 『星の広間』 クリア
オブジェの牛の右角が光る。その光はふわりと舞って、シュウの手のひらに落ちてきた。光が収まると、シュウの手の中には星の形のペンダントが握られていた。
シュウはじっとそれを見つめると、アイを見やる。黙って見られているアイは、瞬きを繰り返した。
「な、なに?」
「ちょっと後ろ向いてろ」
言われるままに後ろを向くと、すっと腕を回された。
「え、これ……」
「俺が持っとくよりいいだろ。こういうの嫌いか?」
アイの胸元には星のペンダントが輝いていた。
「ううん……嫌いじゃない……」
「そっか」
星が瞬いていた。
二人はそれを、ずっと見上げていた。