第7章 少年は愉しさを知る
秀二は無言のままヘッドセットを外した。寝起きだが、あまりすっきりとした目覚めではなかった。
脳波を利用するDDSだが、身体に悪影響を及ぼさないことは立証済みである。でなければこんなにも普及するはずがない。
ではなぜこんなにも体が重いのか。
重いのは体ではなく、おそらく心だ。
アイはどこまでも純粋だ。子どもだからというのもあるが、いつも素直に言葉を返してくる。捻くれてしまったシュウだ。アイのその姿は眩しかった。
そんな感情なんて、もう随分と前に忘れてしまっていた。
*
その瞬間、秀二の表情は固まった。向こうも同じだろうけど、それを見る余裕はなかった。
「しゅ、秀ちゃん……」
秀二の母親がそこにはいた。
アイと過ごし始めたことで、秀二は夜寝て朝には起きるという生活に戻り始めていた。そんなわけで、油断していた。部屋から出た瞬間、洗濯物を抱えた母親と鉢合わせする羽目になった。
「きょ、今日は早起きなのね……! ご、ごはん食べる……?」
息子と話すのはいつ以来なんだろう。ぎこちない親子の様子がそこにはあった。
「いや、いらない……」
ボソリとそれだけ言うと、秀二は足早にトイレへ向かった。母は言葉をかけることもできず、その場に立ち尽くしていた。
トイレの鍵を掛けて、秀二は深々と溜め息をついた。扉に背を預けて、ずるずるとしゃがみ込む。
完全にやらかした。時間の感覚がなくなっていたせいで、まさか母親と顔を合わせることになるとは思わなかった。生活リズムが元に戻るのはいいことだが、これは失態だった。
秀二にとって、母親と話すことは敷居が高い。元々嫌いになった訳ではない。だけど、どう接したらいいか分からなかった。
勉強勉強言うのは母親なりの愛情だということは分かる。頭で分かっていても心が追いつかないのだ。
秀二はがしがしと頭をかいた。
「分かってんだよ……」
その呟きを聞く者はいなかった。
*
シュウの息は上がっていた。
「ちょっ、待てよ……」
そんなシュウには構わずアイは進む。
「ほらほら早く! 次行くよ!」
アイが指差す先には、木の線路上をトロッコが猛スピードで走っていた。
五十七階にたどり着いたアイの目の輝きは、今までの比ではなかった。
「すっっっっ……ごーい!! ねぇ見て見てシュウ!! 遊園地!!」
目の前に広がるのは、まごうことなき遊園地だった。
ジェットコースター、メリーゴーラウンド、コーヒーカップ、観覧車……。塔の中とは思えないほど広大な空間が広がっていた。
「どれから乗る!? やっぱジェットコースター!?」
駆け出そうとするアイの首根っこをシュウはぐいっと掴んだ。アイはぐぇっと声を上げる。
「お前、この前のこと懲りてねーな……。どこにモンスターが潜んでるか分かんないんだぞ?」
モンスターに振り回されたばかりのアイである。アイはけほけほと咳をしながらシュウを見上げた。
「だいじょーぶだよ! この階は楽しいって思ったらクリアだもん」
「ほんとかぁ?」
「ほんとだよ! それになんかあったらシュウが守ってくれるんでしょ? さぁ行こう!」
さらりと言われた言葉にシュウは動揺しかけたが、そんなシュウには気付かずアイはシュウの手を取って駆け出した。
*
そうして数時間後。
「も……ちょっと休もうぜ……!」
シュウはぐったりとベンチに腰を下ろした。
「えー? もうダウンー?」
けろっとした顔で、腰に手を当ててアイは言う。
「もうじゃねーよ! 何回ジェットコースター乗ったと思ってんだよ! 十五回だぞ!? 十五回!! スピード狂かよお前!!」
一気に捲くし立てると、気持ちの悪さが戻ってきたのかシュウはまたぐったりとベンチに倒れ込んだ。吐き気が再び押し寄せてきたようだ。
「ひとりで遊んでていいぞ……」
シュウは顔を上げることもできず、そう言った。
青い顔をしたシュウを見てアイはひとつ息をつくと、くるっと後ろを向いて駆け出してしまった。そんなアイに構う気力もなく、シュウはベンチに横になった。
横になっても吐き気は消えない。アイのあの小さな体に、どうしてあれだけの体力があるのだろうか。シュウは寝っ転がったまま、ぼんやりとそんなことを考えていた。
――あぁ、でも……。
しばらくすると、頬に冷たい感触がした。目を開けるとそこにはアイが立っていた。
「ほら、これ飲んで!」
その手にはペットボトルの清涼飲料水が握られている。
「……サンキュ」
シュウは起き上がってペットボトルの蓋を開けた。アイが隣に座る。
冷たい飲み物を流し込むと、幾分か気分が楽になった。アイは心配そうな視線をシュウに向けていた。
「……なんか、ここだけ『眠り姫の塔』っぽくないな」
黙っているのもなんなので、シュウが口を開いた。アイはシュウから視線を外す。
「そうだよね。本当の遊園地みたい」
「遊園地、行ったことあるのか?」
目を瞬かせてシュウは問う。記憶があったことにも驚きだが、そこにはもうひとつの意味も含まれていた。
「普通あるでしょ? 小さいころ、親に連れてってもらったこととか」
シュウは黙り込んだ。アトラクションの音だけが、辺りに響く。
「……ないんだよ」
「え?」
シュウは大きく息をついた。
「うちの家ってちょっと変わっててさ。父さんは仕事であんまり家に寄り付かないし、母さんは息子がいい大学に入って、立派な医者になることにしか興味がなかったから、家族でどこかに行ったって記憶がなくって」
それが普通だとして育ってきた。夏休み明けに周りの子たちが楽しそうに話すのを横目に、シュウは一人勉強していた。
淋しいという想いが欠落していたのかもしれない。あの頃はそんな環境でも何とも思っていなかった。何も感じていなかった。
今になって、取りこぼしたものの大切さに気付き始めていた。
もう、手に入らないもの。
アイはすくっと立ち上がった。そしてシュウの手を取る。
「シュウ! 行こう!」
「は?」
「こうなったら遊び尽くすよ! 楽しい思い出いっぱいにして帰んなきゃ」
そう言ってずんずん進んでいく。
「ア、アイ! もうスピード系は勘弁だからな?」
「分かってるよ! 観覧車乗ろう!」
そうしてゆっくりと回る観覧車に乗り込んだ。
大きな観覧車は、シュウとアイを緩やかに空へと誘っていく。
二人は黙って遊園地を見下ろした。もうすぐ頂上まで来ようとしていた。
「アイは」
ふいにシュウが呟いた。
「アイは、家族で遊園地に来たことあったのか?」
無理に記憶を取り戻させる気はなかった。だけどさっき言っていた言葉が少し引っ掛かって、シュウは口に出していた。
「さっき言ってたことだよね? んっとね、正直言うと分かんない。でもなんでだろう……。この遊園地、なんだか懐かしい気がするの」
そう言ってアイは外を眺めた。夕日が沈もうとしている。静かに回る観覧車から見る夕日は、どこか心を淋しくさせる。忘れたものがあるような、取りこぼしてきたものがあるような。
観覧車が下り始めた。相変わらず二人の間には会話がなく、しかし穏やかな時間が流れていた。
「楽しかったな」
ふいにシュウが呟いた。アイは目を瞬かせてシュウを見る。シュウの視線は窓の外に注がれていた。アイは小さく微笑む。
「うん」
静かに、静かに時間が流れていった。
五十七階 『笑顔の階』 クリア