第4章 少女の奮闘
『眠り姫の塔』、三十三階。
少年は肩で息をしながら剣を構えていた。
「シュウ……」
その後ろで、黒髪の少女の呟きが漏れた。
シュウの背中からは、真っ赤な血が流れ落ちていた。
三十三階。別名『ゴーストフロア』。
他の階は獣のようなモンスターが蔓延っているが、この階だけは幽霊が占拠している。剣が通用するかな、と思いながら踏み出そうとしたシュウだったが、上着の裾を後ろから軽く引っ張られた。
振り返ると、アイがそわそわと視線を泳がせている。
「あの……ここで待っててもいい?」
俯いてもごもごと言うアイを見つめること、数秒。
「……幽霊が怖いのか?」
「ちっ……がうもん! そんなんじゃないもん! 全然違うもん!」
噛み付かんばかりの勢いで反論されたが、それでは肯定しているようなものだ。「ただちょっと会いたくないだけだもん……」とまたゴニョゴニョ言っているアイを見て、しょうがないなぁといった様子でシュウは溜め息をついた。
「ここに一人でいる方が危ないんじゃないか?」
『怖い』ではなく、あえて『危ない』と言った。『怖い』ではまたアイが噛み付くだろう。
「そ、れは……そうだけど……」
「ほら、そこ掴んだままでいいから」
いまだ掴んだままだった服の裾をシュウは指差す。
アイはこくんと頷いた。
*
『眠り姫の塔』では最初に武器を選べる。刀だったり、槍だったり、様々だ。
シュウは武器に剣を使う。細身の刃は白銀に輝き、柄は漆黒に蛇の模様が入っている。その剣で数多のモンスターを倒してきた。
ゴーストフロアの敵には物理攻撃が効かない。
ではどうやって戦うのか。
フロアに隠されているアイテムで武器を強化して戦うのだ。アイテムが入っている箱の中には炎や氷が入っていて、それを武器に纏わせることができる。魔法の存在しない『眠り姫の塔』で、唯一魔法のようなものを使えるフロアなのだ。
という説明をしっかりしたアイだったが。
「いーやー! ムリー!」
「いいから離せってアイ!」
渋々ながらもゴーストフロアに踏み込んだアイとシュウだったが、早々に出くわした幽霊にアイの絶叫が響き渡った。服の後ろを引っ張られながらも、炎を纏わせた剣で幽霊を切っていくシュウ。動きが制限されているせいで間一髪だ。
「おいアイ! 敵が出てきたときくらい離せって!」
切った幽霊が消えた後、後ろを振り返ってシュウは言う。目に入ったアイは、シュウの服を掴んだままぎゅっと目を瞑って小さく震えていた。
「ごめん……むり……」
小さな声でそう言われてしまっては、なにも言い返すことができない。シュウは軽く溜め息をついた。
「ほら、手!」
差し出された左手にアイはきょとんとする。呆れたようにシュウは続けた。
「繋いでてやるから、敵が出てきたら後ろでしゃがんで目ェ瞑って耳塞いでろ。そんで歌でも歌っとけ」
ぽかんとするアイ。たっぷり十秒費やして、その意味を理解した。と、同時に口の端が上がる。
「あっはははは! なんで歌!?」
「……! 気が紛れた方がいいだろ! 別に歌じゃなくてもいいよ!」
笑い続けるアイに、シュウはしかめっ面を浮かべた。励ましたつもりだったが、こうも笑われては面白くない。そっぽを向いたシュウだが、ふいにその手を取られた。
アイは下から覗き込むようにして柔らかく笑った。
「ちゃんと握っててね?」
シュウの左手にはアイの右手がしっかりと重ねられていて。
二人は再び進み始めた。
*
幽霊を出くわす度にアイは言われたとおりにしていた。しゃがんで大きな声で調子っ外れに歌っている様子は傍から見れば笑えるが、あれだけ笑われた後だと何とも言えない。
とうとうゴーストフロアのボスまで辿り付いた。今までの比ではないほど巨大な黒い影にシュウは一瞬怯む。だが後ろにはアイがいる。引く訳には行かない。
気持ちを奮い立たせて、剣を構え直した。
「……いや……」
アイが一、二歩下がる気配がした。
「いや……! いやいやいや! やだ怖い!」
悲鳴のようなその声にシュウは振り返った。見るとアイが自分の髪の毛を掴んで叫んでいるところだった。その目からは涙が止め処なく溢れていて、視線はボスの幽霊に向けられている。
「アイ! 落ち着け! どうした!」
「やだ! やだやだ! あの人……また私を……!」
――あの人? アイは何のことを言っているんだ?
シュウは混乱しながらもアイを抱き締めた。浅い呼吸を繰り返していたアイだが、シュウに抱きかかえられて徐々に落ち着いていく。
正気を取り戻したアイの、その目に映ったものは。
「シュウ!」
短く放たれた言葉にシュウははっとした。アイを抱えたまま左に転がる。さっきまでいた場所に死神が持つような大鎌が突き刺さっていた。その先は敵の幽霊と繋がっている。どうやらボスは自分の体の形を変えられるようだ。
「っつ……」
シュウの下でアイが小さくうめき声を上げた。
「アイ……大丈夫か……」
「なんとか……シュウは?」
腕を付いてその身を起こす。暗がりの中、その表情はよく見えない。
「平気だ……」
そして立ち上がって幽霊に向き合うと、剣を構えた。
「そこにいろよ」
「シュウ……」
シュウの肩は上下に大きく揺れていた。アイは両手を見た。その手はべっとりと血で濡れている。自分の血ではない。シュウの背中に手を回していたときに付いたものだ。シュウはアイを庇ったときに幽霊に切られていたのだ。
DDSに痛覚は存在しない。だがダメージは蓄積され、体力がゼロになったときにゲームオーバーとなる。そしてまた、セーブしたところから再スタートとなる。
今もシュウは痛みこそ感じてはいないが、体力は大幅に削られていた。荒い呼吸がそれを物語っている。
「シュウ! 一旦引こう!」
アイは思わず叫んでいた。そこにさっきまでの取り乱した様子はない。壁際のロウソクに照らされた、シュウの背中の赤から目を逸らせなかった。
「ダメだ……!」
シュウと幽霊は両者一歩も譲らず相手の出方を伺っていた。
「どうして……」
そこでアイははっとした。幽霊が出す黒いもやはアイの背後まで取り囲んでいて、すでに退路は絶たれていた。
シュウはまだいい。体力がゼロになってもまたセーブポイントからやり直せるから。
だがアイは? ログアウトできないアイの体力がゼロになったらどうなるか、シュウにもアイにも分からなかった。
「シュウ! 私のことはいいから!」
叫ぶアイにシュウの表情は険しくなる。
「いいわけ……あるか!」
そして均衡は崩された。その刃に炎を纏わせると、シュウは駆け出した。幽霊は影をすっと動かし、鎌と剣が交差して鋭い金属音を立てた。
「シュウ!」
すぐにお互い刃を離し、シュウはもやの本体へと切りかかる。だがしかし幽霊の方が一歩早く反応し、その鎌で易々と止めた。
付いては離れ、離れては付いてを繰り返し、両者一歩も引かない。だがシュウの背中の傷のダメージは確実に積み重なっていて、その背からは血が滴り落ちていた。
「シュウ……」
アイの呟きは弱々しいものだった。今のところお互いの力は互角だが、傷を負っている分、シュウの方が分が悪い。何か突破口はないものか。
その時アイは気が付いた。壁際のロウソクの火を使えば――。
ここの仕掛けを思い出した。今なら周りのもやも薄い。
「シュウ! 下がって!」
アイは立ち上がって床を踏みしめると、シュウに向かって叫んだ。
「下がるっつったってお前……」
シュウがちらりと視線を寄越すが、アイは構わず壁際に走り寄った。そしてロウソクの燭台をロウソクごと引く。ジジッと嫌な音がした。
「いっけぇぇ!」
それを合図に壁に並んだロウソクの火がボッと繋がっていく。炎に囲まれそうになったシュウは慌ててアイの元まで下がった。その間にも炎は連なって大きくなり、幽霊の元までたどり着くとより一層大きく燃え広がった。その炎に幽霊は飲み込まれていく。
アイとシュウは熱風に煽られながら、それを黙って見守った。炎が収まると、そこには幽霊の姿はなかった。
「倒した、の……?」
「あぁ」
まだ熱の残る中、二人は立ち尽くしていた。
三十三階 『ゴーストフロア』 クリア
「ていうかシュウ! 傷!」
「お前こそ火傷しただろ!」
お互い満身創痍なのに口を切ったら言い合いが止まらない。と、シュウがへたりと座り込んだ。
「やべ、血ィ流しすぎたかも」
「シュウー!」
「シュウ!」
シュウの視界はそこで暗転した。
*
夢を見た。
いや俺は『眠り姫の塔』にいたはずだ。夢の中で夢を見るなんておかしいだろう。
でもこれは夢だと分かった。兄さんが笑って俺の隣で過ごしている。こんな風景は、現実ではもうあり得ない。
俺の兄、優一はその名のとおり優秀な子どもだった。教育熱心な母の育てを受けて小学生の頃から塾に通っていたし、学校では勉強も運動も常に一番だった。友達も多く、俺にも優しい良き兄だった。
それが崩れたのは兄さんが大学二年、俺が中学一年のときだ。
「母さん、俺結婚するから」
秋が深まり始めた頃、兄さんが家に連れてきたのは同じ大学で同い年の女の子だった。リビングのソファに俺、父さん、母さん、そして兄さんとその彼女と向かい合って座っていた。
あの兄が連れてきた彼女だ。父さんと母さんに品定めされている最中の発言だった。
父さんと母さんは予想通りの反応をした。
父さんは兄さんを殴り飛ばした。母さんはヒステリックに叫んでそして泣き始めた。兄さんの彼女だけがおどおどとどうしたらいいか分からない表情をしていて、兄さんはいつも通りの飄々とした顔だった。
デキ婚らしい。よくある話だ。ただ、まだ在学中だったこと、そしてうちの家庭環境が悪かった。
兄さんは勘当されて家を出た。二人でどうするのかと思ったら、優秀な兄さんのことだ。きっぱりと大学を辞めて、さくっと公務員試験に受かっていた。
元々「俺は医者には向いていないんだよ」とこぼしていた。願ったり叶ったりだろう。
でも、出て行く前に俺に言った一言で、兄さんを応援することができなくなってしまった。
「ごめんな」
ただその一言だ。
深い意味はないのかもしれない。あっさり家を出て行くことへの謝罪だったのかもしれない。
元々幸せな家庭だったわけじゃない。だけど、兄さんがいなくなったことで、この家はバランスを崩してしまったような気がした。俺に対する母さんの期待は大きくなっていった。
『いい成績を』
『いい大学へ』
『兄のようにならないように』
繰り返される言葉は、黒く体に刻み込まれるようだった。俺は勉強にのめり込むことで、その影を見ないふりをした。
あれから三年。兄さんとはずっと会っていない。
*
ぽたり、と水滴が落ちた。
「シュウ!」
泣き腫らした顔のアイが、そこにはあった。アイの後ろには天井が見えて、そこでシュウは今の状況を思い出した。ボス戦に勝ってぶっ倒れたのだった。
「あー……アイ、大丈夫だったか?」
「私の心配してる場合じゃないでしょ! 回復の泉ですぐ治ったよ! ほらもっと飲んで!」
アイが零さんばかりの勢いで回復の水を差し出してくる。
「ほんとに危ないところだったんだぞー?」
「ソウ……」
そこにはへらっと笑うソウがいた。
「来るのがおっせえんだよ」
シュウは寝転がったままで悪態をつく。ソウはからからと笑った。
「俺じゃ戦えないからしょうがねーじゃん」
シュウははたと気付いた。
「そういえばなんでこの階に来れてんだ? お前まだそんなレベル高くないだろ」
「入るだけなら俺のココ使えばヨユー」
そう言ってソウは自分の頭を叩いた。以前、ジェイクが「こういうのはソウの得意分野」だと言っていた。そういうことなのだろう。
「犯罪じゃねーのかよ」
「ギリギリセーフです」
ソウは両手を挙げてしれっと言った。
案の定、ハッキングしたらしい。頼っといてなんだが、シュウの心に一抹の不安がよぎる。
「それにしてもアイちゃんの慌てっぷり、すごかったなー」
ソウは笑いながら言う。その言葉にアイは慌てた。
「だって……シュウが死んじゃうと思って……」
今になってアイは赤面している。ソウはくすくす笑った。
「俺らはセーブポイントからやり直せるから大丈夫なんだよ」
アイはきょとんとした表情を浮かべた。
「そうなの?」
「アイはどうなるか分からなかったけどな」
シュウは起き上がりながら言った。回復水のおかげで、大分ケガは良くなっていた。
「そういやアイ、お前髪伸びてねぇ?」
シュウはアイの後ろの方を見ながら言う。肩下までだったはずの髪は、起きたら背中まで伸びていた。
「あれ? ほんとだ」
アイは自分の頭を撫でた。さらりと黒髪が落ちる。
「身長といい、髪といい、やっぱアイちゃん成長してるよねぇ」
身長が伸びているのは気のせいじゃなかったようだ。でもどうして――
「そういえばね、また思い出したことがあるの」
アイはシュウの隣に座り込んだまま、じっとシュウの目を見つめた。真剣な表情にシュウは少したじろいだ。髪が伸びて少し大人っぽくなったアイは、もう子どもには見えなかった。
「ここに来る前、事故に遭った気がするの」
「事故?」
そんなシュウにアイは気付かず、そう言った。
「うん。車に撥ねられた記憶があるの。それがいつのことかは思い出せないんだけど……」
もしかして、その事故の影響で記憶喪失になってしまったんだろうか。それなら色々説明がつく。ジェイクが言っていた、アイが植物状態だっていうのもあながち間違いじゃないかもしれない。
「体、大丈夫なの?」
ソウが尋ねた。
DDSではリアルとリンクしていないとはいえ、アイの場合は特殊だ。現実での事故がDDSでの体に影響していないとは言い切れなかった。
こういうところに気付くのもソウらしくて、気付けない自分にシュウはなんだかもやもやした。
「今は平気。でもここって夢の中なんでしょ? 現実ではどうか分かんないけど」
そう言ってソウに笑いかけるアイにまたイライラして、シュウはアイの左頬を抓った。
「いひゃいいひゃい! にゃにひゅんの!」
じんわり涙目になったアイにシュウはぱっと手を離し、そっぽを向く。
「別に」
「『別に』でそんなことしないでよー!」
背中をぽかぽか叩いてくるけど全然痛くなさそうだ。そんなシュウを見てソウはくすくす笑っていた。
「なんだよ」
「いやー、別に?」
さっきのシュウと全く同じことを言ってくる。含みのある言い方に、シュウはぶすっとする。
アイはまだ涙目で頬を擦っている。恨みがましい目をシュウに向けていた。
「そうなるとやっぱ早くかくれんぼの相手を探さなきゃなー」
「アイが事故ったあとに一緒に行動していたってワケだろ? 何かしら知ってるはずだよな」
アイは戸惑った顔でシュウたちの顔を見比べていた。そんなアイを見て、シュウは頭をくしゃくしゃと撫でる。
「絶対見つけてやるから、心配すんな」
アイはされるがまま、髪をぐしゃぐしゃにされている。そう言うシュウの顔を見上げて、ようやくアイはほっとした顔を浮かべた。
隣から痛いくらいの視線が送られる。無視しようかと思ったが、耐え切れずシュウは口を開いた。
「なんだよ」
「べっつにー?」
ソウは相変わらずニヤニヤした顔をしていて、さっきと同じ返事にシュウは今度こそ無視を決め込んだ。