第1章 少女の目覚め
八畳の暗い部屋に、パソコンの画面だけが光っている。その前に座る少年は、背もたれに身を預け硬く目を閉じていて、起きる気配もない。一見、ただ寝ているだけのように見える。
その頭にはヘッドフォンのようなものを付けており、そこから伸びるコードはパソコンに繋がっていた。
*
二十一世紀に入って数十年。コンピュータの進化は更に加速し、前時代には不可能と言われたことを実現可能にした。空飛ぶ車はまだないが、人間と見紛うばかりのロボットは実用間近だ。
時代を発展させたものの一つにDDSがある。
ダイビング・ドリーム・システム。略してDDS。脳波を利用して人為的に夢を再現できるシステムだ。好きな夢を見ることはもとより、夢の中で様々なことをできるようになった。また、それはグローバルネットワークに接続して、夢を他人と共有することができた。
とりわけそのシステムの開発を競ったのはゲーム会社だった。画面上でしか行えなかったゲームが生身とほぼ同じ状態で体感できる。それが子どもから大人までの人気に火を点け、DDSの爆発的な売上げと繋がった。
ゲームもソーシャルネットワークも夢の中で行える。現代病であった睡眠障害が解消される、と医学会からの呼び声も高かった。
まさに夢のようなシステム。それがDDSだった。
*
空は灰色に染まっていた。まだ昼間だというのに、辺りには不穏な空気が立ち込めている。
そこにあるのは空まで届く、巨大な塔。天辺は雲に隠れて見えない。
ここは通称『眠り姫の塔』。DDSを利用したRPGの一つだった。よくあるRPGで、塔に捕らわれた眠り姫を、モンスターを倒しながら救出するというものだ。単純なゲームではあるが、公開から半年経ってもいまだ攻略した者はいなかった。
それだけ掛かっても攻略できないのならば飽きられそうだが、倒したモンスターを自分の装備にカスタムできる仕組みは、主に中高生に受けて人気を博していた。
また、塔に掲げられた眠り姫の肖像画は美しく、人気の一因となっていた。
その日、シュウも『眠り姫の塔』に来ていた。
ここ二ヶ月、このゲームにハマって毎日のようにプレイしている。誰も攻略できていないこのゲームに、負けず嫌いの血が燃えた。
といっても、シュウがDDSのゲームを始めたのは三ヶ月前のことだ。最初の頃はスポーツゲームや格闘ゲームをしていたが、向いていないことに気付き、RPGでもやってみるかと思った矢先にこの『眠り姫の塔』と出会った。
誰も攻略したことのないゲームに我こそ、と意気込んだがそう甘くはなかった。アイテムを集めるのも一苦労だった。それでもひたすらモンスターを倒していくというのが性に合って、いまだ続けていた。
「おっシュウおはよー」
後ろからそう声を掛けてきたのは、スキンヘッドに筋肉隆々の、いかにも格闘派といった色黒の男だった。
「おう、ジェイクはよ……ってもう昼だぞ」
彼はこの眠り姫の塔に来て初めて出会った人物だった。初心者丸出しだったシュウに、色々教えてくれた兄貴分だ。
もっともDDSでは現実世界と同じ容姿である必要はないから、リアルの名前も姿も知りはしないが。シュウも金髪で精悍な顔つきの青年の姿だった。現実とは似ても似付かない。
「今日は休みだったんだよ。お前こそいつもいるじゃねーか」
シュウは苦虫を噛んだ顔をして、うるせーよ、とだけ言った。
事実、シュウは昼夜問わずDDSに入り浸っていた。
自宅警備員、つまるところヒキコモリがシュウの今の職業だった。三ヶ月前から高校に行けなくなってしまった。それから食事と休憩以外はDDSの世界に入り浸っている。
「俺のことはいいんだよ。それよりどこまで進んだ?」
シュウはわざとらしく話題を変える。この話には触れてほしくなかった。
「おう。今は二十三階だ」
「まじかよー! 俺まだ十五階」
「早い方じゃねぇか。始めて二ヶ月だろ? 筋いいんじゃねえの」
その言葉にシュウは苦笑した。
今、先頭のプレイヤーは五十七階にいるらしい。『眠り姫の塔』は全七十七階。シュウにとっては、文字通り雲の上だった。
「そんで、今日はどーすんの?」
「まだ今のとこでレベル上げしようかなって思ってる。ちょっと上げとかないと次の階上がってすぐ敵出てくるらしいし」
ジェイクはそっか、と笑った。
「西の小部屋は行った? あそこ回復の泉あるし、レベル上げんのにはちょうどいいと思うよ」
「まじか。サンキュー」
ジェイクはこういった細々したことをよく知っている。その情報にシュウはいつも助けられていた。
ジェイクと別れて、シュウは西の小部屋へ向かった。
*
シュウは一心不乱に剣を振っていた。
動いていないと思考に飲み込まれそうだった。現実世界のことなんて考えたくもなかった。
――母の涙
――兄の後ろ姿
――無機質な顔の並ぶ教室
その全てをなぎ払うように、剣を振るった。
モンスターを全部倒して、剣を降ろした。シュウの息は上がっている。肩は大きく上下している。でもそのおかげで、さっきまで考えていたことは思考の彼方へ追いやられていた。
シュウは回復の泉へ足を向けた。噴水のように湧き出る水に直接口を付けて、水を飲む。
その時、泉の淵に何かあるのに気が付いた。右手の人差し指に触れたそれは、見てみるとスイッチのようなものだった。こんなものがあるなんて聞いたことがなかった。シュウは少し悩む。これを押したらどうなるだろうか? まぁヤバそうになったらリアルに戻ればいいかと思って、シュウはそれを押した。
ガコンと大きな音がして、泉が動き出した。シュウは慌てて一歩下がる。現れた空間にいたのは――
髪の長い少女が横たわっていた。小学生くらいだろうか。小さく丸まって、気持ち良さそうに寝息を立てている。
一瞬、新たなモンスターかと思ったシュウだが、よくよく見れば人の形をしている。プレイヤーのようだ。
「おい、大丈夫か?」
シュウは肩を揺すった。少女はうーんと唸って、ぱちっと目を開けた。
「わぁ! 見つかった!」
そう言って飛び起きた少女の頭は、シュウの顎にクリーンヒットした。お互い痛みに悶絶する。若干涙目になりながらも、一足早く回復したシュウが声を掛けた。
「いってぇなぁ……。おい、大丈夫かお前」
少女は額を押さえながら涙を浮かべていた。
「うん……大丈夫……。あー見つかっちゃったぁ」
「お前、プレイヤーか?」
少女は首を傾げた。
「ん? 私はここででかくれんぼしてただけだよ? 隠れてる間にいつの間にか寝ちゃったー」
『眠り姫の塔』のキャラクターではないということだろうか。少女の説明は的を射ない。
「誰としてたんだ?」
ここは戦闘を重ねていくゲームだ。小学生の女の子がひとりでやっていたとは考えにくい。しかしその質問に、少女は首を傾げた。
「うーんと、誰だったっけ? 思い出せないや」
そう言ってへらっと笑った。シュウは溜め息をつく。
「まぁいいや。気をつけて帰れよ」
シュウは少女に背を向けて立ち去ろうとする。
「あっ待ってお兄ちゃん!」
少女がそう叫ぶ。シュウは怪訝な表情で振り返る。その後ろで――
ガコン!
今、まさに潜り抜けようとした入り口のブロックが降ってきた。そのまま歩いていたら脳天直撃だった。シュウの背中に冷たい汗が流れる。
「この泉が開いたままだと上からブロックが落ちてくるんだよー。ギリギリセーフだったね」
少女は立ち上がって、泉のスイッチを押しながら言った。泉は元の位置に戻っていく。ガチャガチャ音を立てながら、入り口のブロックも上に戻っていった。
「お前……先頭のプレイヤーか?」
塔の構造に詳しいとなれば先まで攻略しているやつだろうか。シュウの考えは単純にそう至った。
「セントー? なにそれ?」
だが違うらしい。シュウは肩をすくめた。
「ま、こんなガキが攻略しきってるワケないよな」
「あ、この塔のことならいろいろ知ってるよ?」
さらりと少女は言う。シュウは眉をひそめた。
「先頭プレイヤーでもないのになんで知ってんだよ。第一、お前みたいな子どもがモンスターとかやっつけれるワケねーだろ」
そう言うと少女は首を傾げた。
「うーん、モンスターとかは怖くて無理だけど、いろいろ知ってるのは本当だもん」
少女は頬をぷうっと膨らませて言った。
「お兄ちゃん、この塔の中を探検してるの?」
「探検っていうか……まぁ似たようなモンだな」
少女の顔が輝いた。
「ほんと? じゃあ私が道教えるから、一緒にかくれんぼしてた人探してよ!」
「はぁ? なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」
「でもお兄ちゃん、この塔のこと詳しくないでしょ? 私なら危ないところ教えてあげれるよ?」
その言葉にシュウは言葉を詰まらせた。確かにさっきのは助かった。だが会ったばかりの、しかも子どもの言うことを全面的に信用するには、まだ気が早い気がする。
まぁ一人連れ歩くくらいは支障がないだろう、とシュウは少女に向き直る。
「んじゃあ、その一緒にかくれんぼをしてたっていうヤツを見つけるまでな」
そう言って手を差し出した。少女はまたくしゃっと笑った。
「私はアイ。よろしくね」
シュウはその手をじっと見下ろした。そんな風に手を差し伸べられたのは、いつ以来だったか。
「あぁ。……シュウだ」
それだけ呟いて、シュウはその手を握った。