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第16章 目覚める少女

 薄闇に閉ざされた空間だった。それほど広くない。教室二つ分くらいだろうか。

 壁際にはところどころにロウソクが灯されており、それがこの空間をぼぅっと浮き上がらせていた。

 ソウがはっと指を指した。

「シュウ、あれ……」

 広間の中央には寝台が一つだけ置かれていた。白い寝台は薄暗がりの空間に光って見える。

「いかにも『眠り姫』だな」

 シュウはそっとベッドに近付いた。

 案の定、そこに横たわっていたのはアイだった。最初に出会ったときの姿ではなく、シュウたちと変わらない歳に見える。病院で見た顔と同じだった。その胸は静かに上下していた。

 シュウは壊れ物を扱うかのように愛花の前髪に触れた。その額の温かさに、アイが生きているということを実感した。

「どうやったら起きるんだろう」

 静かに触れても起きない愛花を見て、シュウは呟いた。

「物語の定石では、王子様のキスだけど」

 ソウの言葉を聞いてシュウはびくっとした。

「キス! と、か!」

 シュウは顔が熱くなるのを感じた。その顔は真っ赤になっている。

 そんなシュウを見てソウは笑う。

「シュウは純粋だなぁ! 箱入りだから仕方ないか」

 その言葉にシュウはむっとした。

「キスくらいできるし!」

 そうしてアイの枕元にかがむ。


 ――間近で見ても可愛いな……。肌とか真っ白だし、鼻筋も通ってるし。あ、まつげ長い。唇もきれいな色をしている。


 唇。

 シュウは赤く色付いたアイの唇を見つめた。形のいいその小さな唇は、瞳と同じくしっかりと閉じられていて、ともすれば人形のようにも見える。でも規則的な寝息がアイが生きていることを実感させる。

 シュウはこの唇が自分の唇に触れることを想像した。

 そしてはっとする。


 ――意識したらダメだ……! 心臓がバクバクいってきた……。いやでもソウの手前、今さら引けないし……。えーい! いけ! 俺!


 シュウの唇がアイのそれにそっと触れた。

 初めてのキスは、柔らかかった。感じたことのない感触に、シュウは驚く。

 シュウはそっと顔を離してアイを見る。相変わらず心臓の音が煩かった。

 しかしアイは静かなままだった。

「王子様のキス、ならず……か」

 シュウはソウを振り返った。

「『ならず』じゃねぇよ! すっげー緊張したのに!」

「あ、やっぱ初めてだった?」

「うっせーよ!」

 もうヤケクソだった。言われたとおり、初めてだった。

 シュウはがしがし頭をかいて、愛花を見下ろした。何事もなかったかのように眠っている。おとぎ話のようにはいかないようだ。

「どうしたらいいんだろうなぁ」

 シュウはベッドの柵に手をついた。


 ガコン


 聞き覚えのある音がした。

 ゴゴゴゴゴっと地響きがする。

「なんだ!?」

 ソウは初めて聞く。シュウは二度目だ。愛花と初めて会ったとき――

「うわぁぁぁぁ!!」

 あのときは泉だった。今はベッドが動き、深い穴が現れる。

「シュウ!!」

 シュウはその穴に真っ逆さまに落ちていった。


   *


 真っ黒い空間にいた。

「他にパターンないのかよ!」

 ついさっき、階下で同じ体験をした。さっきは落ちたわけじゃないが。

 シュウはきょろきょろ左右を見渡す。

「いた」

 シュウの視線の先には小さな少女がいた。シュウに背中を向けてしゃがみ込んで、肩を震わせている。肩下まで伸ばした黒髪が、震える度に一緒に揺れる。

 シュウはそっと近付いた。

「アイ」

 少女はびくっと肩を震わせた。恐る恐るといった感じで、シュウを見上げてくる。その瞳は涙に濡れている。

「探したよ。一緒に帰ろう」

 少女は不思議そうな顔をした。

「お兄ちゃん……だれ……?」

 ここからかよ、とシュウは頭を抱える。一緒に過ごした時間をゼロにされるなんて嫌になる。それでも見捨てるつもりはなかったが。

「俺は斉藤秀二。シュウだ。お前を助けに来た」

 アイは不思議そうにきょとんとする。

「だめだよ」

 目は潤んだまま、真剣な顔で少女は言う。

「なんで」

「だめだもん! だめだもん!」

 シュウははぁっと大きく息を吐き出した。相変わらず強情なアイに、シュウは思わず深い溜め息を付いてしまった。

「だからなんで……」

「まだ途中なんだもん!」

 シュウははっとした。初めて会ったときのアイの言葉を思い出した。


『見つかった!』


 アイは、ずっと見つけてほしかったのだ。


『私はここだよ』

『早く見つけて』


 言葉にせずともずっとそう言っていた。

 家にも学校にも居場所がなくて、でも自分はここにいるんだよ、とずっと叫んでいた。

 ならば掛ける言葉はひとつだろう。


「見つけた」


 そう言った瞬間、アイの目が見開かれた。

「ずっと愛花を探してたよ。一緒に帰ろう」

 そう言っていまだ屈み込んだままのアイに手を伸ばした。

 アイはその手をじっと見つめている。

「愛花」

「……の?」

「え?」

「わたし……いらない子じゃないの……? ここにいてもいいの……?」

 家にも学校にも居場所がなくて、愛花は小さくなって蹲っていた。その姿にシュウは見覚えがあった。少し前までの自分だ。

 やっと本当の愛花を見つけられた気がした。シュウは大きく頷く。

「当たり前だろ」

 涙目で見上げるアイが、シュウの手を取った。シュウはぐいっと引っ張り上げて、抱き止める。

 顔を上げたアイは十六歳の姿になっていた。背中までの黒髪はさらりと揺れて、くっきりとした二重の瞳は相変わらず涙に濡れている。

「やっと見つけた」

「さいっ……斉藤くん……!」

「うん」

 泣きじゃくるアイはシュウにしがみ付いた。そんなアイの背中をシュウは優しい手付きで撫でる。

「斉藤くん……! 斉藤くん斉藤くん斉藤くん……! ごめん、なさ……」

「謝らないでいいよ」

「だって……」

 潤んだ瞳でアイはシュウを見上げた。

「がんばったな」

 そう言うとアイはますます泣き出した。

 シュウはその背中を優しく撫でてあげる。アイはシュウの胸に顔を埋めた。

 その顔は見えない。すべてを洗い流すかのようなその涙に、シュウはぎゅっと小さな体を抱き締めていた。


   *


 どれくらいそうしていただろうか。ようやくアイは顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってしまっている。

 アイははっとしたように、慌ててシュウの胸から離れた。

「ごめっ……! 私っ服汚しちゃったかも……」

 あたふたする表情も可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みだろうか。

 それくらい大したことじゃない。アイは手で目をこすっている。

「だからいいって。ほら、そんなこすったら腫れるぞ?」

 そう言ってシュウはアイの手を掴んだ。

「……! 見ないでー……」

 泣き腫らした顔を見られるのがよっぽど嫌らしい。シュウはくすっと笑った。

「分かったから。ほら、とりあえず座れよ」

 シュウは先に座って隣を叩いた。アイも並んで座る。


「そういえばなんで俺の前に現れたんだ?」

 ずっと疑問に思っていたことだった。初めに出会ったあの泉。

 あの出会いがなければシュウが部屋を出ることも、兄と話すことも、誰かのために頑張ろうと思うこともなかった。

 アイは小さく微笑む。

「私ね、斉藤くんのこと知ってたんだよ」

「え?」

「クラス違うし校舎離れてるけどね。斉藤くん有名人だもん。すっごく頭いいのにすっごく人嫌いだって」

 シュウは苦虫を噛んだような顔をした。確かにそうだったが、改めて言われると釈然としない。

 アイはふふっと笑いながら続けた。

「私も最初は怖い人なのかなって思ってた。話したこともないのにね。……でも一年の二学期終わり頃だったかなぁ? 北風が強かったから。誰かが窓を開けた拍子に私が持ってたプリントが飛んでっちゃったんだよね。撒き散らしちゃったからすっごく焦って。でも誰も拾ってくれないし。その時通りかかったのが斉藤くんだったんだよね」

 全然記憶になかった。多分、散らかっているのが嫌だったんだろう。あの頃は誰かのために、と思うような人間じゃなかった。

「もたもたしてるのが目障りだっただけかもしれない。でも手伝ってくれたっていうのが印象に残っちゃったんだよね。それ以来、なんだか目で追っちゃうようになってた」

 他意があるのかないのか。はにかみながら話すアイに、シュウは頬を少し赤らめて顔を背けた。深い意味はないのかもしれない。

「……ごめんね」

 ふいにアイが言った。その声はとても小さく、消え入りそうだった。しかし二人きりのこの空間で、しっかりとシュウの耳へと届いた。

「なんで」

 シュウの視線が刺さってアイは小さくなる。シュウは責めてるわけじゃないのに、と顔を歪ませた。

「怒ってるわけじゃないんだ。でもアイは謝るようなことはしてな……」

「だって!」

 シュウの声を遮ってアイは叫ぶ。

「だって……私は斉藤くんをこんなことに巻き込むつもりじゃなかった……」

 そう言ってまた俯いてしまった。ぎゅっと両手を握って、今にも泣き出しそうな雰囲気を醸し出している。

 シュウはその手をそっと掴んだ。

「巻き込まれたなんて思ってないよ」

「でも!」

「こんなことを言うのは柄じゃないんだけど……俺らは、出会うべくして出会ったんじゃないかなって思ってる」

 アイはさておき、シュウはここに来るまでアイという存在を知らなかった。親とも兄ともクラスメイトともうまくやれていなかった自分。今だってそんなにうまくやれているとはいえないけれど、歩み寄ろうとする気持ちを知った。それを教えてくれたのは他でもない、アイだ。

「アイを救いたい、救いたいってずっと思ってた。でもそれは、俺のためでもあったんだよ。ここでどんなに力を尽くしても現実で救われるわけじゃないけど……。だけどアイと出会ったことで俺は一歩踏み出せた。兄さんとまた話せるようになったし……。だから俺はアイの力になりたい。いやだって言っても傍にいるからな」

 一息にそう言うと、アイはまた泣き出してしまった。その姿を見て、シュウはアイの身体をそっと抱き締めた。そこにはさっきキスしたときのような迷いはない。

「きっと、しんどくなるときもあると思うよ……?」

「うん」

「いやになるときもあると思うよ……?」

「うん」

「それでも、いいって言うの……?」

「だからいいって言ってる」

 シュウはきっぱりと言い放った。アイの瞳から、後から後から涙が零れてくる。アイは弱々しい手で、シュウの身体を抱き締め返した。

「ありがとう、斉藤くん」

 ようやく届いた、と思った。塔の階下で小さなアイと出会ってから、長い時間が経っていた。笑ったり、泣いたり、怒ったり、いろいろなことを一緒に感じてきた。それでも気持ちが繋がったと、ようやく感じ取れた。


 きっと、これからが大変だろう。イジメのこと、親のこと、立ち向かうにはまだ力が足りない。でも二人は気付いた。もう一人じゃない。それが人を強くするということに、出会えたからこそ分かった。

 辛くなることもあるだろう。消えてしまいたくなることもあるだろう。そんなとき、きっと思い出す。アイが、シュウが、ソウが、ジェイクがいることを。

 シュウはふっと笑う。

「前みたいに呼んでよ。苗字じゃ落ち着かない」

 アイの顔が真っ赤に染まる。目を忙しなく泳がせたあと、小さな赤い唇を開いた。

「……シュウ」

 それだけ言うと、更に顔を赤くさせて俯いてしまった。シュウは柔らかく微笑む。

「うん。帰ろっか、アイ」

 闇に光が差した――。


   *


「シュウ!!」

 さっきからソウには叫んでばかりだ。

「いきなり消えたからビックリしたぞ……! 大丈夫か!?」

 こっちではそうなっていたのか、とシュウは周りを見渡した。相変わらずそこにはベッドに横たわるアイがいる。こころなしか、周囲が少し明るくなっているような気がした。

「あぁ大丈夫だ。それより……」

 シュウはベッドに視線をやる。穴に落ちる前と同じように、眠るアイの胸は上下していた。

「愛花……?」

 シュウはその顔を覗き込んだ。瞼が揺れる。そしてぱちっとその目が開いた。

「わぁ!!」

「った!!」

 アイが飛び起きた瞬間にシュウの額にぶつかった。初めて会ったときもこんな感じだった。

 しばらく二人で額を押さえて悶絶する。ソウが呆れた表情を浮かべていた。

「久し振り、かな。志嶋さん」

「遠山くん……?」

 シュウはソウの頭をグーで軽く殴った。その顔には嫉妬がありありと浮かんでいる。

「いったー。男の嫉妬はみっともないよ?」

「うっせ」

 シュウはソウを無視してアイを見やる。

「今度は大丈夫か? アイ」

「うん、ちゃんと覚えてるよ、シュウ」

 ――良かった……。これでまた忘れられてたら立ち直れないところだった。

「アイ!?」

「アイちゃん!?」

 シュウとソウの声が重なった。二人の視線の先のアイは、ぽろぽろと涙を溢していた。

「ごめんなさい……!」

 アイは右手で顔を押さえて俯く。余った左手はぎゅっと布団を掴んでいた。

「なんで謝る?」

 シュウは静かに言った。アイは俯いたまま肩を震わせている。

「わたっ……私、のせいで……二人を巻き、込んで……」

 泣いてるせいで言葉は切れ切れだ。アイの涙は止まらない。

 シュウはアイの左手にそっと自分の右手を重ねた。

 ソウは「ひゅー」とか言ってる。シュウは軽くソウを睨んだ。

「アイ」

 アイはびくっと肩を揺らした。でも顔は上げない。

「確かに、さ。アイがいなけりゃここに来ることもなかったよ? でもそれは巻き込まれたわけじゃない。自分の意思で来たんだ。それに……アイのおかげで俺は救われた」

 そこでアイは顔を上げた。潤んだ瞳でシュウを見上げてくる。

「家族とうまくいってなかったんだ。人付き合いもだけど……。まだ兄さんと話せるようになっただけだけどさ、愛花がいたから動き出すことができたんだ。だから……ありがとう」

 アイはその大きな目を見開いてシュウを見ていた。まだ涙のあとが残っていて、シュウは指先で拭ってあげた。

「俺らがやりたくてやったことなんだから」

 ソウもそう言って笑った。

 シュウとソウの顔を交互に見つめるアイの顔は、まるで子どものようで。


 ――あぁ、そうか


 そこでようやくシュウは思い至った。

 シュウもアイも子どものままだったんだ。親に淋しいと言えなかったり、友達に見てほしいと言えなかったり、そういった感情の部分が育てずに子どものままで来てしまった。

 だからアイは小さなアイのままだったんだ。

 そしてシュウも、中身はまだ大人じゃない。

「俺だってまだまだ駄目なとこばっかだけど……。一緒にやっていこう? アイとなら大丈夫な気がするんだ」

 無垢な瞳。曇らせないでいたいと思う。

 今はまだ、そんな力はないかもしれないけど。シュウには魔法は使えない。

「いい、の……?」

「ん?」

「私、またダメになっちゃうかもしれない……。それでも見捨てないでいてくれる?」

「当たり前だ」

 なにを今さら、と言い切ったシュウをアイは見つめる。

「そうそう。しんどくなったら頼っていいんだよ」

 ソウがにこやかに言う。

「帰ろう、一緒に」

 シュウはアイの左手を握り直す。アイはシュウの顔を見つめる。そして同じように握り返してきた。

「うん……!」

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