第9章 少女の涙
いつか来るとは思っていたが、とうとうこの時が来てしまった。
目の前に立ちはだかる男は、威圧感たっぷりに言った。
「てめーが噂の新人か。こんなに早くここまで来るなんて、イカサマしてんじゃねーのか?」
六十二階。とうとう先頭のプレイヤーに追い付いてしまった。
アイという秘密兵器がいるからズルと言ってしまえばそこまでだが、ちゃんと各階のボスは倒してきた。しかしこれだけ早ければとおかしいと言うプレイヤーもいるだろう。
シュウは溜め息をついて相手を見やる。身長はシュウとそこまで変わらないが、筋肉の付き方がリアルのジェイクと同じだ。
「別に悪いことはしてませんよ」
その言い方が悪かったようだ。相手は顔を引きつらせた。
「はっ! その言い方じゃなんかしてるみてーじゃねぇか! 言い訳は対戦で聞いてやるよ!」
『眠り姫の塔』はプレイヤー同士の対戦は禁止されていない。むしろ勝ったらザコキャラを倒すよりかは経験値をもらえる。しかし負けた場合、強制ログアウトさせられて一日ログインできなくなる。リスクは大きく、対戦を受けるにはどうしても少し慎重になる。
しかしこの対戦は避けられないだろう。
シュウは剣を構えた。
「手加減はしねぇからな!」
相手も剣を抜いて吼えた。
同じ頃。本やコンピューターのコードで散乱した部屋で聡は顔を強張らせていた。その手には小学校の卒業アルバムが握られている。
「これは……早く秀二に知らせないと……!」
放り出したアルバムには、パソコンの画面に映し出された人物と同じ顔の写真が写っていた。
「おぅ……りゃ!」
やはり先頭プレイヤーというだけあって、並大抵の強さじゃなかった。シュウは交わった刃を思いっきり突っぱねて、距離を取った。相手の息も上がっている。
「腕だけはイカサマじゃねーみたいだな」
「イカサマなんて、してねーよ!」
そう言ってシュウは駆け出した。相手もまた同じように駆け出し、交わった刀に火花が散る。
アイは、そんなシュウを物陰から見守っていた。シュウに「危ないからここにいろ」と言われたのだ。
ここに来るまでもそうだった。塔内に詳しいとはいっても、戦いにおいては全く役に立たない。ボス戦のときは陰に隠れていた。
盗み見たシュウの顔には焦りが浮かんでいて、いつも以上に苦戦しているようだった。アイはぎゅっとワンピースの裾を握った。
その時だった。相手の目に汗でも入ったのだろうか。一瞬、相手に隙ができた。シュウはその瞬間を逃さない。身を低くすると、一閃に相手の脇腹に剣を向ける。
二人の動きが止まった。しかしそれは一瞬のことで、相手はゆっくりと膝を付いた。それを横目にシュウは剣を鞘に収める。
「シュウ!」
シュウの勝利を確信して、アイが駆け寄ってくる。いいと言ってから出てこいと言ったのに、と思いながらもシュウはひとつ息をついた。
「おい……」
物陰から飛び出てきた少女に、相手の目は見開かれた。
「なんで……その子がここにいるんだよ……」
相手の体は消えかけている。敗者のペナルティだ。強制ログアウトされるのだろう。小さな声にシュウは目を向けた。
消えかけた手でアイを指差す。
「その子は……眠り姫じゃねぇか!」
その叫びと共に相手は消えた。
場に静寂が満ちた。さっきまで相手がいたところをしばらく見つめて、二人はゆっくりとお互いを見た。
「え……?」
「シュウ!」
アイの掠れた声とソウの慌てた声が重なった。
「ソウ……今……」
「なぁ大変だ。アイちゃんは……」
そこで一旦切って、上がった息を整える。
「アイちゃんの正体は、眠り姫だったんだ」
シュウは塔の入り口にあった肖像画を思い出していた。初めて会ったときは幼くて気付かなかった。だが成長した彼女と、あの絵はよく考えてみれば同じ顔だった。
どうして気付かなかったのか。
記憶の渦に飲み込まれていた。
――誰もいない家
――ひとりで食べるごはん
――泣いていた友達
――教科書を埋め尽くす『死ね』の文字
――学校のスリッパで帰る通学路
――突っ込んできたトラック
「いやぁぁぁぁ!!」
振り向くとアイが頭を抱えて、膝を付いていた。
「アイ!?」
二人は慌てて駆け寄るが、アイの顔は涙で濡れていて、目は焦点が合っていない。ここではないどこか見ている。
「アイ! 落ち着け!」
アイはシュウの手を振りほどこうとする。かぶりを振るその姿はまるで子どものようで、シュウは抱きしめることしかできなかった。それでもアイはシュウを押しのけようとして、そしてその時初めてシュウの目を見た。
「助けて……斉藤くん……」
そう言ってアイはシュウの手からすり抜けるように消えた。
「アイ……?」
シュウの手が空を切る。
ソウが近寄ってくる気配がした。シュウは膝を付いて俯いたまま言った。
「なぁソウ……。なんで、アイは消えたんだよ……」
ソウが隣に立った。
「なんで、眠り姫って……。なんで……なんで俺の名前知ってんだよ!」
座り込んだままのシュウの横に、ソウもしゃがんだ。
「……アイちゃんの本名は、志嶋愛花。俺の小学校のときの同級生で、今はお前と同じ高校のはずだよ」
そんなやつ知らない。いや、知ろうとしてこなかった。他人なんか興味なくて、自分さえ良ければ、と思って生きてきたのはシュウ自身だった。
「志嶋さんは半年前に交通事故に遭って、今も意識不明らしい」
『眠り姫の塔』ができたのと同じ頃だった。何も考えられないはずのに、シュウの頭は冷静に分析してしまう。乾いた笑いが口から漏れる。
「そして志嶋さんのお父さんは、DDSのゲームを作る会社の社長だ。調べたらこのゲーム、志嶋さんのお父さんが個人的に作ったものみたいだよ」
「なんで、そんなこと……」
「それは本人に聞かないと分からん。ただ、志嶋さんちは父子家庭だったらしい。その辺も関係しているかもな」
シュウは何も言えなかった。
アイは力になってほしいと言った。そんなアイにシュウは何をした? 何ができた?
「あと……」
ソウが言いにくそうに口を開いた。
「デリケートな問題だから慎重に扱えよ? 志嶋さん、クラスでイジメに遭ってたらしい」
記憶が戻ることが必ずしもいいことではなかったのに。アイが本当に望んでたことは何だったのか。
「なぁ」
シュウはうなだれたまま、呟いた。
「アイは……あいつは俺に『助けて』って言ったよな」
ソウは黙って頷いた。
「だったら」
シュウは顔を上げて立ち上がった。天井を見上げる。見ているのは塔の最上階だ。
「やることはひとつだろ」
ソウがニッと笑った。
「行くの?」
「あぁ」
眠り姫は最上階で待つ。
「行くぞ。眠り姫を助けに」
シュウは足を踏み出した。
*
深い、眠りの中にいた。
物心付く前にお母さんは死んでしまっていたから、母親がいないのが寂しいと思うことはなかった。ただ、授業参観のときに私だけお手伝いの下村さんだったのはちょっと悲しくなったりもした。そんなことを言ったらお父さんが悲しむと思ったから、口にはしなかったけれど。
それでも、お父さんはちゃんと愛してくれた。仕事で忙しくてあんまり家にはいなかったけど、お母さんに似て体の弱かった私をいつも気遣ってくれていた。
大きくなるにつれて体は丈夫になっていった。だからお父さんが家にいることは前より少なくなっていった。ひとりでご飯を食べるのも慣れっこになっていた。
高校に入学して、若葉ちゃんという子と友達になった。若葉ちゃんはおっとりしていて、優しくて、可愛い子だった。私は若葉ちゃんが大好きだった。おしゃべりな私に、若葉ちゃんは笑って付き合ってくれた。
それを壊した人たちがいる。
『あいつトロトロしててウザい』
始まりが何だったのかは分からない。だけどいつの間にか若葉ちゃんは、クラスの派手なグループから標的にされてしまっていた。無視から始まり、教科書に落書きされる、靴を隠される、トイレで水を掛けられる――。絵に描いたようなイジメのターゲットにされていた。
若葉ちゃんも最初はがんばって学校に来ていた。だけど、一緒にいた私の教科書も破られたり靴を隠されたりするようになって、若葉ちゃんは次第に休みがちになっていった。そしてとうとう学校に来なくなった。
私が標的にされることなんて大したことじゃなかった。絶対に若葉ちゃんを守ると決めていた。学校に来れなくても、繋がっていられるならそれで良かった。
だけどこれは堪えた。
『もうメールしてこないで』
私の電話に届いた一通のメール。
何も考えられなかった。返事なんてできなかった。決定打を打たれるのが怖かった。
学校のスリッパで帰る通学路、自分の影がやけに長く感じた。
だから気が付かなかった。信号無視で突っ込んでくるトラックに。