貴人牢に収監された悪女の様子がどうにもおかしい
マルティナ・グライドン公爵令嬢。
それは社交界で稀代の悪女と名高い女の名前だった。
この国の王太子であるセルゲオ王子の婚約者であった彼女だが、その身分に甘やかされて育った彼女はとんでもない女に育った。
我儘で高飛車で高慢。唯一の至高は己のみ。王族にすら敬意を払うことなく、贅に贅を重ねることばかりを好む恥知らず。
食事はどんなに豪奢であっても気に入らなければすぐにひっくり返し、紅茶の温度は熱すぎてもぬるすぎても侍女に投げつけて癇癪を起こす。
派手なドレスとアクセサリーが大好きで、毎日のように高価なドレスやアクセサリーを作らせる。が、それもすぐに飽きて着用しないものもクローゼットの奥に数多あるのだとか。
そのくせ他人に自分のものを奪われることは我慢ができず、自分よりも目立つものも大嫌いだった。
彼女が嫌う筆頭が彼女の胎違いの妹だろうか。
ラフィーナ・グライドン公爵令嬢。
可憐で愛らしい、儚い見た目の彼女の妹は社交界で『グライドン公爵家の真珠姫』と呼ばれる麗しいご令嬢だった。
マルティナは彼女のことを蛇蝎の如く嫌い、ドレスに飲み物をかけたり、アクセサリーを取り上げて壊すのは日常茶飯事。時には鞭を打ったり身体的にも虐げることがあったという。
マルティナの我儘ぶりに辟易としていたセルゲオ王子は、そのうちマルティナの仕打ちに健気に耐え続けるラフィーナに惹かれるようになる。
それがマルティナの逆鱗に触れたのだろう。
彼女はついに心身をいたぶるだけに飽き足らず、ラフィーナの毒殺を目論んだ。
それはセルゲオ王子によってすんでのところで看破され、マルティナは悪事を暴かれて断罪された。
こうしてマルティナは次期王太子妃という地位を失い、この石塔の貴人牢に押し込められることになったのである。
と、ここまでが世間一般で認識されているマルティナなのだが、
「――…………」
「今日からマルティナ・グライドン公爵令嬢はこちらで過ごしていただくことになります」
一般牢と違って貴人が過ごすための一室となっている牢は清掃が行き届き、簡素だが調度品も多少置いてある。
といっても寝台と食事をするためのテーブルや椅子程度のものだが。
それでも今まで豪奢な生活をしてきた令嬢にとってはあまりに質素でここで過ごすことは屈辱以外の何ものでもないはずだ。
貴人牢に通されたマルティナも部屋の中を見た瞬間、口元を両手で押さえ込み、呆然と固まっていた。
その間にトマスはさっさと彼女を置いて扉を閉めて固く施錠をした。
「食事の時間は日に二回。午前と午後、七時にお持ちします。着替え等をお望みでしたら侍女を呼びますので牢の外の私にお申し付けください」
「ま………待って!」
牢の外からそう呼びかければ、マルティナが慌てて施錠した扉に取り縋る音が聞こえた。
「待って……! 食事が……日に二回!?」
「ええ。規定によりそう定められております。差し入れ等があるならばその限りではありません」
「嘘でしょう!? 食事が日に二回だなんて……――」
取り乱すマルティナの声にトマスはうんざりと扉を。向こうにいるはずのマルティナを透かし見るように睨んだ。
噂に聞いていた通りの我儘を喚かれると思ったからだ。
きっと彼女がここにいる限り、延々と癇癪を聞く羽目になるのだろう――と職務とはいえ看守の役割に気が重くなったのだが、
「なんて贅沢なの……!? 日に二回もお食事ができるなんて、そんな……信じられない! ね、ねえ、本当に二回なの? あ……あっ、まさかカビたパンがひとかけらだけだとか、虫のたかった腐肉だとかが出されるのかしら?」
「――……いえ、ごく普通に食べられるパンやスープが出されますが」
大体カビたパンがひとかけらだとか、虫のたかった腐肉など一般牢の囚人にも出したりしない。
マルティナの言動にトマスは顔をしかめるが、マルティナはトマスのことなんかまるで気にせず「ほぁあああああっ!」と淑女らしかぬ素っ頓狂な声を上げていた。
「う、う、う、嘘でしょう……! こ、ここ、こここ、ここって天国なのかしら???」
「ごくごく普通の貴人牢ですが」
動揺しすぎて鶏のようになっているマルティナへトマスは淡々と告げる。
なんか聞いてた話と違うな。
マルティナの様子にトマスはただただ眉をひそめることしかできなかった。
・ ・ ・ ・ ・
マルティナが収監された翌日。
なんか聞いてた話と違うな、という感覚はどんどん深まっていく。
朝、トマスは厨房にてマルティナの食事を引き取ってから石塔の貴人牢へと向かう。
「おう、おはようさん、トマス」
「おはようございます、先輩。グライドン公爵令嬢の様子は?」
「ああ、ずっと静かなもんだよ。ありゃ相当牢屋行きが堪えたんじゃないか?」
夜勤を担当した看守がそんなことを言いながら引き継ぎをしてくれる。
そうして彼は引き継ぎを終えると「ま、我儘姫さんの相手は大変だろうが頑張れよ」と言い残してひらりと手を振って帰っていった。
その背を見送ってから、トマスは固く施錠した扉を叩く。
「グライドン公爵令嬢、お食事の時間です」
「ふぇ……?」
と、声をかければ、牢の中でふにゃふにゃの声が聞こえ、それから不意にバサッ! と毛布を跳ね上げる音が聞こえた。
「きゃあ、申し訳ありません! も、ももも、もしかしてもう七時なのですか……!?」
「ええ、そうですが」
「ひゃぁあああああ、申し訳ありません、申し訳ありません! わ、わたくし、朝寝坊だなんてはしたない真似を……!」
そうしてバタバタと牢の中で大慌てをしている音が響く。
扉に備え付けられた食事を差し入れるための窓を開けば、マルティナは扉の前できちっと正座をしていた。これから土下座でもしそうな姿勢だった。
「看守さん、申し訳ありませんでした。起床時間から三時間も寝過ごすだなんて……罰は何でも受ける所存です。どうぞ鞭打ちでも食事抜きでも反省文でも何でもお申し付けくださいませ」
「………えっと」
否、本当に土下座をした。
ピシッとお手本のような美しい土下座をするマルティナにトマスは戸惑う。
「…………その……囚人の起床時間は基本的に朝食の時間です。ですが間に合わなかったからといって特に罰を与えられることはありません。一般牢ならばともかく、ここは貴人牢ですから」
「な、なん、ですって……」
トマスの返答にマルティナが愕然とした顔を浮かべた。
トマスはマルティナの様子に戸惑いながらも朝食を差し入れた。
マルティナの愕然とした顔がまた大きく驚きに変わった。
「カトラリーがある!!!」
「ありますよ。一般牢の囚人ならばともかく、貴人である方にカトラリーを使わせずに食べさせることはいたしません。きちんと返却だけはしていただきますが」
「なんてことなの……パンは白くて柔らかい……スープはあたたかな湯気が立って、具もこんなにたくさん……ハムにチーズにオムレツまで……! こ、こんなご馳走を……わたくしが食べてもいいというの……!?」
「グライドン公爵令嬢のお食事ですので、どうぞお食べください」
差し入れられた食事をマルティナが震える手で受け取る。
そうして彼女は慣れた様子でテーブルまで食事を運ぶと、椅子に腰掛けてまずはその食事をじっと見つめるところから始めた。
毒でも警戒している、というわけでもなさそうだ。
本来ならば食事を差し入れたらきっかり一時間後に食器の返却を催促する時以外に窓は閉めておくところなのだが、マルティナの様子があまりにおかしいのでトマスはついつい彼女のことを覗き続ける。
「――いただきます」
やがてマルティナが食事前の祈りをし、おごそかにカトラリーを手にした。
一部の隙もない優雅な仕草は王族や他国の親善大使を前で食事をするような気品に満ちていた。
我儘な悪女の片鱗すらなく、彼女はピンと背筋を伸ばしたままゆっくりと食事を味わう。
黙々と食べ続ける彼女がやがてつぅ……と頬に一筋の涙を落とした。
まるで長らく砂漠で彷徨い続けて死に瀕し続けた人間がオアシスを見つけて久しぶりに水を口にし、生あることを実感したような涙だった。
「――……ご馳走様でした。シェフの方にお伝えしていただける? “大変素晴らしいご馳走で、マルティナは感動いたしました。ありがとうございます”と」
食事を終え、食器を窓に返却するマルティナにトマスは戸惑う。
そんなことをシェフに伝えたら間違いなく彼女が皮肉を言ったと受け取るに違いない。
「ところで本日、わたくしは何をすればよろしいのでしょう? 何か課題やお仕事はありますか?」
「…………いえ、グライドン公爵令嬢は囚人ですので、貴人牢の中で大人しくお過ごしください。危険物でなければ差し入れも認められておりますので、本を読むなり編み物をなさるなどはしても構いません」
「お好きに……! そ、それではまさか、あの……二度寝なんかも認められるのでしょうか……!?」
「え? ええ、まあ、どうぞ」
「そ、そんな……! 二度寝も許される……!」
トマスの返答にマルティナは何度目かの衝撃を受けた顔でそう呟いた。
そうして彼女は衝撃によろよろとよろめきながらもいそいそと寝台へと向かう。
「……あ、あの、わたくし、本当に二度寝をしてしまいましてよ! 後で怠惰だなんだと怒らないでくださいましね……!」
「え、いえ、二度寝くらいどうぞお好きに……」
寝台へと向かったマルティナが改めて念を押すようにトマスに告げるので、トマスは戸惑いつつもそう返して返却された食器を引き取って窓を閉めた。
窓を閉めた後で「二度寝なんて初めてですわー!」とはしゃいだ声が聞こえ、それから静かになる。
トマスは念の為に食器が揃っているかを二度、三度と確認して、すべて揃っていることを確認しても不安になって改めてそっと窓を開いてマルティナの様子を確認した。
寝台には毛布にくるまって大人しく寝息を立てるマルティナの姿が見える。
「…………あれ、本当に噂の悪女か……?」
もしかしたら影武者か何かかもしれない、と過ったが、彼女は王太子自らが側近と共に断罪した夜会会場から引き渡してきた女だ。
影武者だとは考えにくい。
そうなるとやはり噂の方が間違っているのではないか。
そんな疑念がトマスの中に芽生え始めていた。
・ ・ ・ ・ ・
疑念が確信に変わったのはマルティナが収監されて一週間が経った頃。
この一週間、マルティナは悪女とはほど遠い様子を見せていた。
日に二回の貴人にしては簡素な食事に毎日美味しそうに舌鼓を打ち、よく寝て、大人しく過ごしていた。
我儘や癇癪など一度も起こしたことはない。
お陰様でトマスはもちろん、石塔の看守を勤めるものたちは稀代の悪女の噂を訝しむようになっていた。
そんな疑念を確信を変えたのはこの石塔に唐突にやってきた“グライドン公爵家の真珠姫”ラフィーナだった。
「まあ、なんて惨めなのかしらお姉様」
面会の通達もなくいきなり石塔に押しかけてきたラフィーナは連れてきた側近に命じて勝手に貴人牢の扉を開けさせ、マルティナに向かってそんな蔑みの言葉をかけた。
“グライドン公爵家の真珠姫”の儚さなど皆無の顔にトマスはギョッと目を剥いた。
ラフィーナはトマスなど目に入らない様子で言葉を続ける。
「元王太子妃がとんでもない凋落ぶりよね。今どんな気分?」
ニヤニヤと笑うラフィーナにマルティナはきょとんと目を丸くする。
そして彼女は何とも言えない表情で視線を落とした。
オロオロと視線を彷徨わせるばかりのマルティナにラフィーナは彼女が恥辱に打ち震えているのだろうと思ったらしい。勝ち誇ったようにマルティナのことを鼻で笑った。
「アハハ、いい気味! 今や私が王太子妃よ! あんたは絶対に私には勝てないの! このままこの石塔で誰にも省みられずに醜く朽ち果てればいいわ!」
そうして言いたいことだけ言って、ラフィーナは側近と共に去っていった。
まるで嵐のよう。
トマスは開け放たれたままになっている扉にそっと近づき、その扉を閉めた。
あの様子を見る限りマルティナは冤罪で貶められたようだが、看守として罪人を逃せばトマスの咎になってしまう。
「………言えない」
扉を閉める直前、マルティナが小さく呟いたのをトマスは聞く。
「……今の環境の方が遥かに天国だって、ラフィーナには言えないわ……っ」
フルフルと声を震わせるマルティナの言葉に、トマスは彼女が今までどれほど過酷な環境にいたのかと思いを馳せることしかできなかった。
・ ・ ・ ・ ・
その過酷な環境の片鱗を垣間見るようになったのはマルティナの収監からひと月が経った頃。
その頃には王城の業務が滞っているような噂が聞こえるようになり、同時にグライドン公爵家の醜聞までもがひそやかに噂されるようになっていた。
ちょうどその頃からだ。
マルティナを押し込めた牢にトマスが普段会うことのない貴人たちが次々に訪れるようになったのは。
それはマルティナに対して高圧的にイキリ散らす王太子セルゲオやグライドン公爵だったり、彼らの使いである侍従だったり。
内政を司る宰相や軍事を取りまとめる騎士団団長であったり。
時にはトマス自身が王太子の側近に書類を押し付けられてマルティナの元へと届けるように命じられることもあった。
これって明らかに国家機密の書類だよなあ。俺なんかが触れていい書類じゃないと思うんだけど……などと思いながらも下っ端の看守が逆らえるわけもなく、トマスは命じられた通りにマルティナへと書類や仕事をするための備品を届ける日々を送った。
そんなある日のことである。
「ねえ、看守さん」
貴人牢の扉が控えめに叩かれて、トマスは顔をしかめて窓を開いた。
「いかがいたしましたか?」
「きっともう間もなく騎士団長様がいらっしゃると思うの。いらっしゃっても驚かないでちょうだいね」
「――……はい」
彼女の言葉にトマスは渋面を浮かべる。
もう看守ではなく彼女の予定を管理する執事にでもなってしまった気分だ。
マルティナの収監されている部屋だってもう貴人牢ではなく、ただの執務室だ。
ここまで来ればトマスだってうっすらと察する。
今、この国を動かしているのが王太子やその婚約者となったラフィーナではなく、ここに収監されているマルティナだということぐらい。
いいや、今だけではない。きっと前々からこうだったのだろう。
おそらくは国王が病に倒れて起き上がれなくなってから、王太子が振るわねばならない采配を彼女が陰ながら行ってきたのだとトマスのような下っ端にも十分に察することができた。
「…………ごめんなさいね」
と、ふと扉の向こうでマルティナがそうトマスに声をかけた。
「色々と戸惑っているでしょう? 本当ならばこんなに騒がしい場所ではないはずですものね」
その声にトマスは何を返したらいいのか戸惑ってしまった。
看守業務は本来ならばこうやって囚人と無駄なお喋りをすることは推奨されない。
けれども彼女は普通の囚人ではないわけで。
「真面目な方、無理に返事はしなくていいわ。これはわたくしの独り言ですの」
と、トマスの逡巡を察したようにマルティナが言った。
その一言にホッとしつつ、トマスは彼女の言葉に耳を傾ける。
「わたくしね、ここに閉じ込められてからようやく自分の置かれていた環境が異常だと理解しましたの」
自分の状況を整理するようにマルティナはゆっくりと語る。
幼い頃からお前は王太子妃になるのだからと厳しく父親から育てられた。
その一方で胎違いの妹は甘やかされて何事も優先されてきた。
彼女が欲しいと言えば、誕生日に贈られたドレスを、母親の形見のアクセサリーを、大切にしてきたぬいぐるみだって譲らなくてはならなかった。
何か口答えすれば食事は抜かれ、鞭で打たれ、狭くて埃っぽい部屋に閉じ込められた。
した覚えのない悪評は「ラフィーナのためなのだから」と笑って受け入れるように命じられ、成長してからは王太子の失態もマルティナのせいになった。
それでもマルティナはそれが異常だとは気がつけなかった。
何せそれがマルティナの日常であったから。ラフィーナの、グライドン公爵家の、そして王太子セルゲオの尻拭いをすることに何の疑問も抱かなかったのだ。
「でもここに入れられて、気がつきました。わたくしのいた環境は囚人よりもひどいものだったのですね」
王太子妃教育ばかりか、公爵家の、そして王太子の仕事を肩代わりする。そればかりか失態ばかり撒き散らそうとする父や妹、そして婚約者のフォローで馬車馬のように働き続ける日々は食事も睡眠もまともに取れない日々だった。
体調が悪くとも押し寄せる業務は待ってくれず、誰もマルティナのことを慮ってくれなかった。
だが、けれどもここに入ってゆっくりと休養をするようにたっぷりと眠り、まともに食事を摂ったことでようやく頭が回って気がついた。
自分の置かれた環境の異常さに。
そして、
「わたくし、二食昼寝付きよりも三食昼寝付きの野望が沸いてしまったのですわ」
「三食昼寝付き……」
茶目っ気たっぷりに笑うマルティナの言葉をトマスは繰り返す。
それはどういう、と聞き返す前に不意に石塔の階段を騒がしく駆け上ってくる音にハッとした。
「マルティナ様、お迎えに参りました!」
石塔を駆け上がってきたのは騎士団長だ。
一度剣に手をかけて緊張を漲らせていたトマスは、彼の姿に剣から慌てて手を離す。
「マルティナ様をお出ししろ。すでに彼女は罪人にあらず。このような場所に押し込められる謂れはない」
そうして騎士団長が掲げた書類はマルティナを解放しろという勅書だった。
トマスはそれを見て慌てて腰に下げた鍵を手に取って、彼女を閉じ込めた貴人牢の扉を開く。
「お迎えありがとうございます、エドワード様。首尾はいかがでしょう?」
「は、滞りなく。反逆者どもはすでに捕らえております」
「まあ、優秀で助かりますわ」
反逆者?
騎士団長とマルティナの会話にどことなく不穏な気配を感じてトマスは背中に冷や汗を流す。
と、騎士団長のエスコートを受けて石塔を降りようとするマルティナがふとトマスを振り返った。
彼女は公爵令嬢に相応しい気品に満ち溢れた仕草でトマスに向けて一礼をする。
トマスはハッとして慌てて敬礼をして彼女を見送った。
石塔を降りていく足音は少しずつ遠ざかる。
その音が聞こえなくなるまでトマスは敬礼を取り続けた。
長くそうし続けていたのは、ある種の予感があったからなのだと思う。
・ ・ ・ ・ ・
「くあ……」
マルティナが釈放されて、三日。
トマスはいつものように朝に目覚め、身支度を終えてあくびを噛み殺しながら石塔の階段を登っていた。
こうして自分だけの日常を切り取ると、決していつもと変わらない日常。
「おはようさん、トマス」
「おはようございます、先輩」
いつものように夜勤の先輩看守と挨拶を交わし、そしてふたりして貴人牢へと目を向ける。
今は静かな貴人牢。かつてはマルティナを捕らえていたその場所。
「…………今は静かだが、多分起こせば奴さん、また騒ぎ出すぞ」
「…………でしょうねえ」
先輩の言葉にトマスは渋い表情で抱えた朝食の盆を見下ろした。
今、あそこに捕らえられているのはマルティナではない。別人だ。
「まさかここに“グライドン公爵家の真珠姫”をぶち込むことになるとはなあ」
そう、今貴人牢にとらえられているのはラフィーナ・グライドン公爵令嬢。
彼女はマルティナに殺人未遂の冤罪を被せたことでここに収監される羽目に陥った。
そればかりか“グライドン公爵家の真珠姫”の顔を剥がされ、マルティナを虐げ汚名を着せていたこともすっかりと暴かれてしまった。
ここにいるのは我儘で癇癪持ちの愚かな罪人だ。
ちなみに彼女の隣の牢には彼女の父親であるグライドン公爵も捕らえられている。
ラフィーナと同じくマルティナを虐げていた罪。そして公爵の職務を放棄し、手をつけてはならない公金に手をつけて遊び呆けていた罪によって、だ。
きっとふたりはそのうち毒杯を賜ることになるのだろう。
「王太子殿下もそりゃ寝込むわけだよ。庇った女の方が悪女だったってなあ」
先輩看守の言葉にトマスは返答ができなかった。
王太子セルゲオは愛した“グライドン公爵家の真珠姫”の方が悪女なのだと知ってひどいショックを受け、倒れてしまったそうだ。今は離宮で静養をしているという。
マルティナはそんな王太子を許し、王太子妃に返り咲いて献身的に支えて尽くしているという。
が、それもどこまで本当なんだろうか。
あの時、騎士団長がマルティナを迎えにきた時のことを思い出すと、そんな美談には裏側があるのだという予感がしてならない。
あの時の騎士団長は淑女に対する礼以上の敬意をマルティナに払っていたと思う。
思えばマルティナを訪ねてきた宰相もそうだ。
国を動かさねばならない王太子に代わって采配を振るっていた女。そしてあの時聞いた反逆者という言葉。
二食昼寝付きではなく三食昼寝付きの野望――三食昼寝付きだなんて、野望と称するにはあまりにささやかすぎるけれども、仮にもしあの言葉は野望の方に一介の令嬢が望むには文字通りの大きな望みが隠れていたとするのなら。
その点と点を繋げればどことなくその裏側が見えるような気がして、トマスはただ頭を振った。
下っ端である自分はただ職務を全うしていれば良いだけだ。余計な詮索をして知らない方がいいことまで推測はしないほうがいいのだ。
「ま、トマス、今日も頑張れよ」
先輩看守が肩を叩いて激励し、石塔を下っていく。
それを見送り、トマスは深呼吸をして貴人牢の前に立った。
朝食の盆を持ち直し、貴人牢の扉をノックする。
「グライドン公爵令嬢、お食事の時間です」
途端、毛布を跳ね上げる音がした。
いつかの姉と同じような騒がしさだったが、その後に続く声は金切り声だ。
「ちょっとあんた! 私をこんな場所にいつまで押し込めておくのよ!」
これが悪女の正しい反応だよなあ、と苦笑をしながらトマスは朝食を差し入れた。




