境界のノイズ
雨が降りしきる夜だった。前線の塹壕は泥濘に沈み、防衛線の向こう側。
敵地との境界からは、時折、鉄の匂いを含んだ風が吹きつけてくる。私は通信兵として、地下の掩体壕に篭り無線機の前に座っていた。ヘッドホンから流れるのは、雑音と時折途切れる味方部隊からの定期連絡だけ。静かな、しかし緊張の張り詰めた夜だった。
「こちら、第一小隊。異常なし。オーバー」
「了解、第一小隊。引き続き警戒を」
私は定型文を返し、周波数を変える。深夜二時を回った頃、無線の向こう側に奇妙な声が混ざり始めた。
最初はただのノイズだと思った。雨の影響で電波状態が悪化しているのだろう。しかし、そのノイズは次第に規則性を帯び、人間の声のように聞こえ始めた。掠れた、しかし確かに言葉を紡いでいるような。
「……聞こえるか……」
男の声だった。低く、疲れ切った声。だがその声には奇妙な反響があった。まるで深い井戸の底から響いてくるような。
「誰だ?所属と名前を言え」
私はマイクに向かって叫んだ。返答はなかった。代わりに別の声が割り込んできた。今度は女の声だった。悲鳴にも似た甲高い笑い声。
「まだ、ここにいるの……? みんな、死んだのに……」
背筋が凍った。私は周波数を切り替え、別のチャンネルを試す。だがどの周波数に合わせても同じ声が聞こえてくる。男の声。女の声。子供の声。
ありとあらゆる声が無線の向こう側から私に語りかけてくる。
「助けて……まだ、終わってないの……」
「誰かここから出して……」
「お前も、こっち側に来るんだ……」
私はヘッドホンを外そうとした。だが手が震えてうまく動かない。その間にも声は続く。次第に、その声ははっきりと私の名前を呼び始めた。
「——おい、聞こえてるのか。お前の名前は確か——」
その声は、私の名前を呼んだ。所属部隊の名前を呼んだ。そして故郷に残した母の名前まで、正確に紡ぎ始めた。
「お前の母さんは、今もお前の帰りを待っているぞ。でもお前はもう、帰れないんだ。ここで俺たちと一緒に——」
「黙れ!」
私は叫び、無線機の電源を切った。静寂が訪れる。雨音だけが掩体壕の外で響いている。ほっと息をついた。
ふいに、無線機の電源は切れているはずなのに、スピーカーから小さな笑い声が聞こえた。
「無駄だよ。もう、ここはあっち側と繋がってるんだ」
私は振り返った。掩体壕の入り口に人影があった。雨に濡れた軍服。見覚えのある顔。
しかし、その顔は半年前に戦死したはずの同期の兵士のものだった。
「よう。久しぶりだな」
彼は、にたりと笑った。その目は虚ろで、しかし確かに私を見ていた。
「お前もこっちに来いよ。みんな待ってるぜ」
私は腰の拳銃を抜こうとした。だが、指が動かなかった。
「——ああ、そうか」
私の口から声が漏れた。
「俺はもう」
無線機からは、再びあの声が聞こえてくる。
男の声。女の声。子供の声。
そして、私自身の声。
次に目を開けたとき、私は無線機の前に座っていた。
マイクを握り、周波数を合わせる。ヘッドホンからは味方部隊からの定期連絡が聞こえてくる。
「こちら、第一小隊。異常なし。オーバー」
「——了解、第一小隊。引き続き警戒を」
私は定型文を返す。だがその声は私のものではなかった。掠れた、しかし確かに、あの世のもののような声だった。
雨が降りしきる夜。防衛線の向こう側から、また、鉄の匂いを含んだ風が吹いてくる。無線の向こう側には、今も、無数の声が響いている。そして私もまたその声の一つとなって誰かを呼び続けている。
「——聞こえるか……こちら、境界線。異常なし。オーバー」




