珈琲と消えない記憶
ようこそ。
ここは、彷徨う旅人の喫茶店。
珈琲を一杯、ごゆるりとお楽しみあれ───。
───カランコロン
ふと気がつくと、沙織は見知らぬ喫茶店の扉を押していた。
そこは、外の喧騒が嘘のような、こじんまりとしたレトロな空間。
使い込まれた四人掛けのソファー席が二つと、カウンターに並ぶ三脚の丸いスツール。琥珀色の照明が、室内の隅々に柔らかな陰影を落としている。
重い上着を脱ぎ、カウンターの端に腰を下ろした。
慣れない一人暮らしの心細さと、連日の残業。擦り切れた心に、木目調の温かな空間がじんわりと染み渡っていく。
カウンターの向こうには、一人の女性が立っていた。
艶やかな黒髪を首の後ろで緩く束ね、白いエプロンをきりりと締めている。凛とした立ち姿だが、その佇まいはどこか懐かしく、穏やかだった。
「今日のおすすめの珈琲を一杯、お願いします」
「かしこまりました」
微笑んだマスターの瞳があまりに優しくて、引っ込み思案な沙織にしては珍しく、自分から話しかける気になった。
「……今年の春から社会人として働き出したんですけど、毎日が必死で。覚えることばかりで、なんだか置いていかれそうで」
ゴリゴリ、とコーヒーミルを回す一定のリズムが店内に響く。
マスターの手元を見ているだけでも、どこか心が落ち着いた。
他愛のない愚痴を、マスターは急かすことなく、一つひとつ頷きながら受け止めてくれる。
その安心感に背中を押され、沙織は誰にも言えなかった秘密を、思わず口にした。
「……いつも傍にいてくれた誰かを、思い出せないんです」
マスターの手が、一瞬だけ止まった。
「あのっ、頭を打ったとか、記憶喪失とかじゃないですよ?!」
沙織は慌ててバッグを探り、一本のシャープペンシルを取り出した。
使い込まれて塗装の剥げた、淡い水色の軸。
「気がついた時にはずっと持っていたんです。でも、よく見ると……」
差し出したペンのクリップ付近には、黒いサインペンで「しおり」と小さな文字が書かれていた。何度も握られたせいで、今にも消えそうなほど掠れている。
「私の名前は『さおり』です。でも、両親が時々、私のことを『しおり』って呼び間違えることがあって……。普通、自分の子供の名前を間違えたりしませんよね?」
マスターは何も答えず、ただ静かにコーヒーポットを見つめている。
その瞳に、一瞬だけ深い夜のような陰が落ちた。
「いつも誰かが、すぐ傍で励ましてくれていた気がするんです。両親でも、友達でもない、もっと近い誰かが……。私には、もしかしてお姉ちゃんがいたんじゃないかって」
言葉にしてしまうと、途端に現実味がなくなって恥ずかしくなる。
「……変ですよね、いないはずの家族の気配を探すなんて」
自嘲気味に笑う沙織に、マスターがゆっくりと顔を上げた。
「───もしも、本当にお姉様がいらしたとして」
黒曜石のような深淵を思わせる瞳が、じっと沙織を見つめる。
「その方が、自分がいなくなることで残された家族が壊れてしまうのを恐れたとしたら……。彼女は最後に、願ったのかもしれません。
『私のことを悲しまないように、家族全員の記憶を消してください』と」
マスターの声は、祈りのように静かに店内に溶けていった。
「あなたたちの幸せを、何よりも守りたかったのでしょうね」
沙織は、霧が晴れていくような心地でマスターを見つめた。
……そうか。私は、愛されていたんだ。
「……珈琲をどうぞ」
差し出されたカップから、香ばしくも甘い湯気が立ち上る。
そっと口に含むと、芯のある苦味の後に、まろやかなコクが広がった。
沙織の好みをすべて分かっているかのような、完璧な一杯。
会話が途切れた店内には、ただ時計の針を刻む音だけが流れている。
けれど、もう寂しさはなかった。沙織は時間をかけて、大切にその温もりを飲み干した。
「ごちそうさまでした。……不思議ですね。明日からまた、頑張れそうな気がします」
沙織は水色のシャープペンシルを宝物のように握りしめ、晴れやかな足取りで店を後にした。
───カランコロン。
閉まった扉を、懐かしそうにマスターは見つめた。
「……まさか、完全に記憶が消されていなかったなんて。沙織……」
束ねた髪を揺らし、彼女は誰にも聞こえない声で呟く。
「迷いのなくなったあなたは、もうここに辿り着けないけれど。
いつも、あなたの幸せを願ってる───」
───ここは、彷徨う旅人しか辿り着けない異界の喫茶店。
次はあなたのご来店を、お待ちしています。
(終)




