第9話 「帳の区画」
“帳”の区画へ行け。
セレウスの命令が頭の中に残っている。声は薄いのに、規則のように消えない。
翌朝――という感覚が曖昧だった。第七層に朝はない。光は届かない。時間は鐘と通知でしか測れない。
【追加労務:帳の区画】
【集合:即時】
【対象:相沢レイ(主体)】
ウィンドウが出た瞬間、班十三の空気が変わった。
労務者たちが視線を逸らす。
逸らすのは優しさじゃない。関わりたくないだけだ。帳の区画に行く者は、帰ってこないことが多い。
リセが俺の腕を掴む。
「行くな」
俺は声が出ないまま首を振る。行かない、という選択肢はない。拒否ボタンがない。拒否は違反だ。違反は回収だ。
ユノが俺の袖を掴んだ。指が細い。弱い。でも必死だ。
「……いっしょに、いく」
その言葉に、理性が即座に否定を出す。ユノは今、三日だけの暫定主体。担保は俺。帳の区画で事故が起きれば、ユノまで巻き込まれる。
俺は骨片に短く刻む。
『来るな』
ユノは首を振る。
「……こわい。でも、ひとりはもっとこわい」
怖い、と言えるのは強さだと知る。俺の中の恐怖は薄い。だからこそ判断が冷たくなる。冷たい判断は時に正しい。時に残酷だ。
リセが息を吐き、決断したように言う。
「……じゃあ私が付く」
「お前、班を抜けたら――」
「抜けない。監督に“取引”する」
リセは俺に耳打ちする。
「帳の区画は監督の縄張りじゃない。上層の“会計役”の縄張りだ。監督はお前をそこに投げて、価値を測る。帰ってきたら高く売る。帰らなければ損失ゼロ」
その分析は冷たい。だが正しい気がした。
リセは俺の手に、昨日の法典欠片とは別の小さな欠片を押し込んだ。黒い金属片。端に刻印。見ない方がいい。
「これは?」
「“無主物証明”の札。拾った欠片は危険だ。帳の区画では“拾得”が罪になる。拾った瞬間に所有と同意が発生する。――だから、最初から無主物だと証明できるものがいる」
ミラが灰で扉を無効化したのと同じ発想。主体になれないものは同意を取られない。なら、拾った欠片を“主体にしない”ための札が必要。
俺は頷き、左手で札を握った。視力はまだ滲む。味覚は死んだまま。嗅覚は少し戻ったが、臭いが戻るのも地獄だ。
帳の区画への通路は、班十三の持ち場よりさらに奥だった。
溝の水音が大きくなる。腐臭が濃くなる。壁には鎖ではなく、紙が貼られている。紙の端が湿って剥がれ、文字が滲んでいる。
――読むな。
視線を逸らし、ただ歩く。歩くことだけに集中する。第七層では、それが祈りになる。
通路の終わりに、扉があった。
鉄扉。鍵穴。だが鍵はない。代わりに、扉の中央に細い溝が走り、その溝の中に黒い液体が流れている。
血……? いや、インクだ。
インクが流れる扉。
扉そのものが筆記具みたいだ。
扉の脇に立っていたのは、人間だった。
背が高い。痩せている。顔色が白い。目は黒い。瞳孔が小さい。胸に銀の札――監督とは違う刻印。
“会計役”。
その男は、俺を見るなり言った。
「相沢レイ。条文化持ち。暫定主体。労務評価担保付き。――確認した」
俺は声が出ない。喉の痙攣はまだ続いている。
会計役は眉を上げる。
「声が出ない? 便利だな。余計な同意を取られずに済む」
皮肉なのか本音なのかわからない。たぶん両方だ。
会計役は扉を指した。
「帳の区画は、拾得物の“計上”を行う。拾得は罪だが、計上は合法。だから――拾う前に計上しろ」
拾う前に計上。
つまり、拾ったものの所有者を先に決めてしまう。所有者が決まれば責任が決まる。責任が決まれば税になる。
会計役は言った。
「お前は今日、欠片を拾い、分類し、上に送る。価値がある欠片は私が買い取る。価値がない欠片は燃料になる」
燃料。魂の燃料。骨の燃料。法の燃料。
扉が開いた。
中は――白かった。
第七層の黒と腐臭から切り離された、異物のような白。壁も床も天井も、白い紙で覆われている。紙が波打っている。呼吸しているように。法典庫と同じ“生き物”の感じだが、もっと乾いている。
床には、黒い欠片が散らばっていた。大量。足の踏み場がない。欠片の上を歩けば、カチカチと音が鳴る。まるで骨を踏んでいるみたいだ。
奥には巨大な棚。棚に刺さる無数の帳簿。帳簿の背表紙に、数字と文字。
【魂税収入】
【肉税収入】
【労務評価】
【徴収損失】
【例外処理】
例外処理。
但し書きの墓場。
会計役が言う。
「ここでは法が“金”になる。金が“法”になる。お前はその循環の一部だ」
俺は左手でリセの札を握り直した。無主物証明。これがないと、欠片に刺される。
リセが小声で言う。
「目を合わせるな。会計役は監督より賢い。条件を増やしてくる」
ユノが震えながら、足元の欠片を見た。危ない。読むな。触るな。だが、ここでは拾わなければ仕事にならない。
会計役が紙片を投げた。紙片には短い文。
『計上式:拾得物は“王都の資産”として計上する』
読むな――と言いたい。だが、読まなければ作業ができない。
俺は紙片を視界の端で捉え、直接読まないようにして骨片に書く。
『計上式を骨に刻め』
リセが理解し、代わりに言葉を口にした。彼女の声は出る。
「拾得物は王都の資産として計上する」
その瞬間、空気が鳴った。
【計上:成立】
【所有者:灰の王都】
【責任:会計役/監督】
――所有者が王都になる。責任が俺じゃない。
これで、欠片を拾っても“拾得罪”にならない。
会計役が薄く笑った。
「学習が早い。声が出ないのを他人に代読させたか。――面白い」
俺は欠片の山へ足を踏み入れた。
拾う。
分類する。
上に送る。
その作業の最中、足元の欠片が不意に光った。
青白い光。
ウィンドウが勝手に開く。
【契約提示:上層雇用】
【条件:条文化能力の提供】
【対価:主体の恒久化/感情の回復(部分)】
上層雇用。主体の恒久化。感情の回復。
――甘い。毒だ。
会計役が俺を見て、静かに言った。
「拾ったな。価値のある欠片だ」
リセが息を呑む。
「……それ、誘いの欠片だ。上層の“募集”」
会計役が続ける。
「選べ。拒否すれば欠片は燃料。受ければお前は上層へ行く。上層へ行けば、ユノの担保も不要になる。――だが、上層の契約は一度結べば切れない」
俺の目の前で、選択肢が浮かぶ。
【同意】
【拒否】
拒否すれば燃料。
同意すれば上層。
そして、同意の対価に“感情の回復(部分)”。
この世界は、俺の欠損を餌に釣ってくる。
ユノが小さく言った。
「……だいじょうぶ?」
俺は答えたい。
でも声が出ない。
だから、欠片の上のウィンドウを見つめながら、左手で骨片に短く刻んだ。
『但し書きが必要』
同意か拒否か、二択に見せている。
なら、第三の選択肢を作る。
同意しない。拒否もしない。
“保留”を合法化する。
俺は、条文化の滲みを骨片に流し始めた。
(つづく)




