第8話 「主体の条件」
班十三の持ち場は、いちばん臭い場所だった。
下水の流れが集まる溝の脇。魂を絞った残り滓――骨と肉と髪と、名前のない“物”が運ばれてくる。運ばれるたびに、労務者たちの目が一瞬だけ生き返る。拾えるものがあるか。売れるものがあるか。生き延びる金があるか。
そして今、その目が俺とユノに刺さっている。
監督セレウスが「責任は相沢レイが負え」と宣告した瞬間から、班十三の“事故”は全部俺の事故になった。事故は罰則になる。罰則は税になる。税は命を削る。
ユノは俺の背後に隠れるように立っていた。震えている。泣けない目。
リセが、作業台に肘をついて言う。
「七日で主体にするなら、順番がある」
俺は頷く。喉はまだ痙攣している。声が出ない。だから、骨片に短く書く。
『順番?』
「一。特定。二。契約能力。三。納税手段。四。監督の承認。――全部、穴だらけ」
リセは指を折る。
「特定はできた。名前“ユノ”。ここまでは簡単。問題は二。未成年は契約能力が弱い。監督や上層はそこを盾にして、勝手に代理契約を結ぶ」
――つまり、“同意がない契約”が合法になる領域がある。
吐き気がする。吐き気はある。でも怒りは薄い。
リセが続ける。
「だから三から潰す。納税手段。主体になっても税が払えないと回収される。払えない主体は、ただの的だ」
俺は骨片に書く。
『労務で代替?』
「それが基本。でも労務は監督の鎖。監督が気に入らなきゃ即“過失”を作られる。――別の納税手段が必要」
別の納税手段。金税はない。肉税は地獄。魂税は死。
残るのは、評価。信用。契約の価値。
俺は骨片を握り、ゆっくりと周囲を見た。第七層は腐っているが、腐っているからこそ“抜け道”もある。
作業台の端に、小さな欠片が落ちていた。
骨でも肉でもない。黒い板。薄い金属のようで、触れると冷たい。表面に、微細な文字の跡がある。読めない。だが、文字が“刻まれていた”という事実だけはわかる。
――法典の欠片。
ミラに渡すと契約している“報酬”。だが、今はそれ以上の意味がある気がした。
リセがそれを見て、小さく息を呑む。
「……拾うな」
俺は骨片に書く。
『なぜ』
「それは上層の“帳”だ。触っただけで契約が刺さる欠片がある。第七層に落ちてくるのは、事故じゃない。“投棄”だ」
投棄。上層が捨てる法。
捨てられた法でも、刺さる。
だが――刺さるなら、逆に使える。
俺は右手の握力が落ちていることを思い出し、左手で慎重に欠片をつまんだ。触れた瞬間、冷気が皮膚の奥へ入り込む。
【注意:未認証媒体】
【読み取り禁止:暗黙同意の危険】
読まない。見ない。
でも“書く”ことはできるかもしれない。
俺は欠片を裏返した。裏面は無地に近い。刻める余白がある。
リセが低く言う。
「……やる気か」
俺は頷く。
ユノが小さく言った。
「……ぼく、どうしたら……」
その声に胸が動くはずだった。動かない。
だから俺は、理性で手を伸ばす。
ユノの手を取って、欠片の上に置く。ユノの指が震える。
そして、俺は短く刻む。
『第十一条 ユノは班十三に所属する労務者である』
『但し、本所属は“保護”を目的とし、徴収・譲渡・売却の対象とはならない』
欠片が、微かに熱を持った。
【警告:上位媒体への刻印】
【対価が増大する可能性】
続けるしかない。
『ユノの納税手段は“労務”ではなく、“欠片の運搬”とする』
『但し、欠片の運搬は相沢レイの監督下でのみ成立する』
――納税手段を労務から外す。
“欠片の運搬”という名目で、ユノが第七層の雑務を担う主体になる。監督の鎖ではない。俺の鎖だ。危険だが、監督の裁量から一歩遠ざけられる。
欠片が鳴った。
【条文化:成立】
【適用範囲:班十三/労務区画(限定)】
【期限:3日】
【対価:視力の低下(3日)】
視界の端が滲んだ。輪郭が少しだけ曖昧になる。暗い第七層で視力低下は致命的だ。だが、期限は三日。七日のうちの前半を稼ぐには足りる。
ユノの目の前に、ウィンドウが浮かぶ。
【所属:班十三(保護)】
【納税手段:欠片運搬】
【期限:3日】
ユノが息を呑む。
「……これ、ぼくに……出た……」
リセが、わずかに口角を上げた。
「第一段階クリア。特定→所属→納税手段。次は――四。監督の承認」
その瞬間、背後から杖の音が鳴った。
――コツ。
空気が凍る。
セレウスが立っていた。いつから見ていたのか。笑っている。だが目が笑っていない。
「面白いね、相沢レイ」
俺は声が出ない。代わりに欠片を隠そうとして、視力の滲みで手元が狂う。欠片が床に落ち、乾いた音を立てた。
セレウスの目が細くなる。
「上位媒体を拾ったのか。大胆だ。――だが、無許可の刻印は違反だよ」
俺の目の前にウィンドウが浮かぶ。
【監督指摘:規則違反の疑い】
【処分候補:追加徴発/評価減点/回収屋への引渡し】
リセが低く言った。
「監督は承認じゃなく、没収で来る」
セレウスが続ける。
「君は便利だ。だからこそ、自由にさせたくない。君が作った“保護”の所属は、私の管轄に刺さる。なら――承認する代わりに条件を付ける」
条件。
この世界で条件は首輪だ。
セレウスは杖の先で、ユノを示した。
「ユノを主体にしたいなら、担保を出せ。主体には責任が伴う。責任は担保で裏付ける。――法の基本だろう?」
担保。
金?ない。肉?地獄。魂?死。
残るのは、俺。
セレウスが、穏やかに笑う。
「相沢レイ。君の“労務評価”を担保にしろ。君の評価をユノに移す。ユノが失敗すれば、その分君が減点される。君が減点されれば、徴発が増える。――そうすれば私の損失はない」
つまり、ユノの主体化と引き換えに、俺の鎖を太くする。
リセが、俺の袖を引く。
「断れ。監督の担保は終わらない。要求が増える」
だが、断れば――ユノは七日後に回収される。
回収屋が待っている。
この三日だけの保護では足りない。
俺は欠片を拾い上げ、左手で短く刻む。
『第十二条 相沢レイの労務評価の一部をユノの担保として供する』
セレウスが微笑む。
「いい子だ」
だが、俺は但し書きを続ける。
『但し、担保の範囲は“本日から三日間”に限る』
『且つ、担保の減点上限は“一日一回”とする』
セレウスの笑みが、わずかに歪んだ。
「……上限を付けたか」
欠片が鳴る。
【条文化:成立】
【適用範囲:当事者間(相沢レイ/セレウス/ユノ)】
【期限:3日】
【対価:味覚の鈍麻(30日)】
味が消えた。
口の中がただの湿った肉になる。食べても食べなくても同じ。生きる喜びがまた一つ薄くなる。
セレウスの目の前にもウィンドウが出たのだろう。彼は一瞬だけ黙り、そして頷いた。
「承認しよう。三日間だけね」
ユノの目の前に、新しい通知が浮かぶ。
【主体:暫定承認(監督付担保)】
【期限:3日】
――主体になった。三日だけ。
七日には足りない。だが、足場はできた。
セレウスは去り際に、囁くように言った。
「ところで相沢レイ。上層は“条文化持ち”を欲しがる。回収屋よりも、もっと高い買い手がいる」
胸が動かない。だが理性が警鐘を鳴らす。
「明日の労務。追加だ。君は“帳”の区画へ行け。欠片の回収係」
帳。
法の帳簿。
上層へ繋がる胃の奥。
リセの顔色が変わった。
「……やめろ。帳の区画は、人が消える」
セレウスは笑ったまま去っていく。
「消える? 正確には“整理される”んだよ」
杖の音が遠ざかる。
残されたのは、ユノの震えと、俺の静かな計算だけ。
ユノが小さく言った。
「……ぼく、こわい」
俺は“怖い”と言ってやりたかった。
でも感情が薄くて、うまく同じ重さで言えない。
だから、欠片に短く刻む。
『三日で次の契約を作る』
ユノは読めないかもしれない。
でも、俺は自分に刻む。
三日で、七日を作る。
監督の鎖を外す。
回収屋の手を切る。
そして――“帳”の区画で生き残る。
上層が捨てた法の欠片が、まだ冷たく手の中にあった。
その冷たさが、まるで未来の死体みたいだった。
(つづく)




