第6話 「但し書きの値段」
骨片に指を当てた瞬間、黒い滲みが指先から溢れた。
――短く。範囲は狭く。対価を見る。
ミラの声が、仕様みたいに頭の奥で反復する。
檻の前で震える子どもは、俺を見ていた。大きすぎる目。涙が出ない。泣く水分が残っていないみたいな乾いた顔。
「……たすけて……」
胸が動くはずだった。
でも動かない。
恐怖も、怒りも、悲しみも薄い。冷たい計算だけが滑る。
助けたい気持ちがないわけじゃない。
ただ、その気持ちが“薄い”。
薄いまま、意思決定を迫られる。
セレウスが微笑んだまま言う。
「やれ。未納の魂税だ。君の労務だ」
労務者の視線が刺さる。
早く処理しろという視線。
変なことをするなという視線。
そして、面白がる視線。
リセが、低い声で囁く。
「新入り。迷うな。迷ったやつから死ぬ」
痩せた男が笑う。
「ほら書けよ。書けるんだろ。納税残高、減るぞ?」
俺は、骨片に条文を書き始めた。
『第八条 当該労務区画内における“未納の魂税”は、即時に徴収される』
ここまでは、さっきと同じ。
同じでいい。既存の秩序に沿うほど、対価は軽い。
だが――ここから。
俺は“但し書き”に指を止めた。
助けるなら、定義を弄る。
徴収の否定ではなく、徴収対象の外に出す。
子どもは、労務者じゃない。
檻の中の“未納者”。
つまり、徴収の対象。
でも――。
俺は条文化の“適用範囲”を睨む。
労務区画(限定)。
期限、たぶん十秒程度が限界。
対価は……次に出る。
セレウスの杖が、床を鳴らした。
「躊躇するな。規則は規則だ」
その“規則”という言葉が、俺の中で一つの鍵になる。
規則には例外がない。
なら、規則そのものに“条件”を埋め込む。
俺は書いた。
『但し、徴収対象が“労務徴発の告知を受けた者”である場合、徴収は本日中は猶予される』
――告知。
俺が今朝、ウィンドウで受け取った“労務徴発:集合”。
あれは主体にしか出ない、とミラは言っていた。
だが、条文化は現実の解釈をねじ込める。なら、ここで「告知を受けた」とみなせる状態を作ればいい。
つまり――この子どもに、告知を“受けさせる”。
瞬間、骨が熱を持った。
【条文化:成立】
【適用範囲:労務区画(限定)】
【期限:10秒】
【対価:声帯の痙攣(12時間)】
喉がひくついた。
声を出そうとすると、針が刺さるみたいに痛い。
痛覚増幅のせいで、その痛みが暴力的に増幅される。
「……っ」
俺は声を殺した。出せない。叫べない。命令できない。
その代わり、目の前のウィンドウがもう一つ現れた。
【労務徴発:集合】
【対象:未登録者(暫定)】
【時刻:黎明(本日)】
【集合地点:第七層入口】
子どもの目の前にも、同じウィンドウが浮かんだ。
子どもはそれを理解できない。ただ、光に怯えたように瞬きをする。
セレウスの笑みが、一瞬だけ止まった。
「……面倒なことを」
だが、規則に縛られているのは俺だけじゃない。
セレウスもまた、王都の法の下の“監督”だ。
条文化が成立した以上、彼はそれを“無視”できない。
空気が鳴った。
徴収が、止まる。
子どもの胸を抉ろうとしていた目に見えない力が、わずかに引き戻された。
子どもは生きている。まだ。
労務者たちがざわつく。
「……今、何した」
「徴収が止まった?」
「新入り、ガキを……?」
痩せた男が怒鳴った。
「ふざけんな! 猶予? そんなの出したら、こいつが暴れたとき誰が――」
リセが即座に言い返す。
「黙れ。猶予は十秒だ。新入りは“時間”を買っただけ。何をする気か見てろ」
セレウスが、ゆっくりと杖を持ち上げた。
「条文化持ち。君は自分が何をしているかわかっているか」
声を出せない俺は、頷くことしかできない。
喉が痙攣して、息を吸うだけで痛い。
セレウスは冷たい声で続けた。
「猶予を与えた以上、次の処理が必要だ。猶予の対価はどこから出る。労務契約の枠外だ。なら――」
杖の先が、子どもを指した。
「この子は“労務者”として徴発された。徴発された者には、労務者の義務が生じる。義務が生じるなら、管理が必要だ」
セレウスは笑った。
「つまり、首輪が必要になる」
背筋が冷える――はずなのに、恐怖が薄い。
けれど理性は、危険を正確に理解する。
首輪をつけたら、この子は確実に搾取される。
助けたつもりが、別の檻に移すだけになる。
リセが囁いた。
「……やるな。監督は“合法”で回収する気だ。お前の但し書きに、但し書きを重ねてくる」
ミラの言葉が蘇る。
――この世界は、条文を増やすやつが強い。
猶予の十秒が削れていく。
残り、五秒。
俺は、骨片に二つ目の刻みを入れるしかないと悟った。
声が出ない。
なら、文字だけで殴る。
俺は書いた。
『第九条 労務徴発された未成年者に対する首輪の装着は、監督の裁量によらず禁止される』
『但し、当該未成年者が自ら同意した場合はこの限りでない』
書いた瞬間、視界が揺れた。
【警告:対価が高額です】
【条文化:成立】
【適用範囲:労務区画(限定)】
【期限:3秒】
【対価:記憶群(中規模)】
“記憶群”。
俺の中の何かが、まとめて剥がれ落ちた。
友人の顔。
大学の廊下。
自分の名前を書いた文字の癖。
――そういう、まとまりのある時間が、丸ごと消える。
思い出せない、じゃない。
存在が欠ける。
息が止まりそうになった。
止まりそうになった、という“反射”だけが残る。
悲しみも怒りも薄い。
ただ、冷たい空洞だけが広がる。
でも――。
セレウスの杖が止まった。
彼は苛立ったように舌打ちする。
「禁止、か。……面倒だ。君の条文化は、監督権限の外に刺さる」
周囲の労務者が息を呑む。
誰もが理解した。
この新入りは、規則に穴を開けられる。
だから――狙われる。
痩せた男の目が変わった。
欲望が濃くなる。
リセの目が鋭くなる。
警戒が濃くなる。
そして、セレウスが結論を出す。
「なら別の処理だ。首輪が付けられないなら、管理対象から外す。管理対象から外すなら――」
杖が床を鳴らす。
「“回収屋”に引き渡す。ギルドの処理だ。私は損失を負わない」
その言葉が落ちた瞬間、空間の端に気配が生まれた。
影から出てきたのは、二人。
黒い外套。胸にギルドの紋章。
顔は覆面。目だけが光る。
回収屋。
リセが小さく呟く。
「来た……早すぎる」
回収屋の一人が、子どもを見て笑った。
「未成年の未納者? いいね。肉税にも魂税にもなる」
もう一人が、俺を見た。
目が細くなる。
「――ああ。こっちが本命か。条文化持ち。噂どおりだ」
喉が痙攣して声が出ない俺は、骨片を握り締めた。
痛覚が跳ねる。
だが、それだけだ。恐怖の熱が上がらない。
回収屋が言う。
「契約しよう。お前は俺たちに付く。そうすれば、この子は“処理”しない。保護する」
甘い言葉。
でも、この世界の甘さは毒だ。
ミラが言った。
善意は信用するな。契約で縛れ。
なら、逆だ。
こちらが契約で縛る。
俺は骨片に、最後の空白を探した。
短く。範囲を狭く。対価を見る――。
回収屋の手が、子どもの肩に触れた。
「時間だ。選べ」
俺は、静かに文字を刻み始める。
(つづく)




