第5話 「肉税」
第七層の空気は、舌に絡みついた。
生温い。湿っている。腐った水と鉄と、甘い腐肉の匂いが混ざり合って、吸うだけで肺が汚れる気がする。階段を降りるほど、地上の音が消えていった。代わりに、下から響くのは規則的な水音と、どこかで途切れ途切れに鳴く人間の声。
「班十三、止まるな」
監督――セレウスの声は冷たい。声量は大きくないのに、背中に刺さる。周囲の労務者が反射的に歩幅を合わせるのを見て、俺は理解した。
この男は、殴らなくても従わせられる。
階段の終わりに、扉はなかった。代わりに、黒い膜が張られていた。水面みたいに揺れ、触れた瞬間、皮膚が粟立つ。
前の労務者が膜を潜る。次々と吸い込まれていく。俺の番になった。
膜に触れた瞬間、視界が一瞬だけ真っ暗になり、次の瞬間――
広い空間に出た。
天井は低い。無数の管が走り、そこから水が滴っている。床は石ではなく、ぬめる黒い何か。ところどころに溝があり、黒い液体が流れていた。下水だと理解するより先に、鼻が拒絶した。
そして、労務者たちが向けられる先。
“作業場”だ。
鎖で区切られた区画。区画ごとに、台。台の上には布。布の下の形が、人間だとわかる。数が多い。多すぎる。
セレウスが言った。
「今日の仕事。分別」
労務者の誰かが、掠れた声で答える。
「……骨、肉、髪、爪……」
「そう。税の残りを分類して上に送る。金税ではない。肉税だ。魂税が先に取られた残りを無駄にするな」
俺の喉が鳴った。吐き気がこみ上げる。けれど、感情は薄い。身体の反応だけが暴れる。
布が剥がされる。
中から出てきたのは、皮膚が灰色に乾いた遺体だった。目は開いたまま。口も開いたまま。叫び声が固定されたみたいな顔。
遺体の胸には、穴がある。心臓があった場所が空洞だ。魂を抜き取るときに一緒に持っていかれたのか、それとも――
俺は目を逸らしかけた。だが、逸らすことに意味がないと悟る。ここでは、見なければ死ぬ。
セレウスが俺を見た。
「新入り。お前は“主体”だな。番号、特別枠だ」
特別、という響きが嫌だった。特別は狙われる。
「特別枠って何だ」
「徴発契約に但し書きが付いている。お前は“条文化持ち”だ。隠しても無駄だ」
周囲の視線が集まる。労務者の目。飢えた目。希望の目。憎しみの目。
セレウスは淡々と続けた。
「お前の仕事は、分別ではない。法的処理だ」
「……法的処理?」
「この区画は“残滓”だけじゃない。まだ魂税が完全に抜けていない者が混じる。半端な魂は腐る。腐った魂は暴れる。暴れた魂は事故になる。事故は損失だ」
セレウスが杖で床を鳴らす。
奥の檻が開いた。
中から引きずり出されたのは、人間だった。まだ生きている。痩せて、目が虚ろで、手足が震えている。首輪がある。だが、俺の見た首輪とは違う。輪の内側に、文字が刻まれている。読んではいけない。けれど、見える。
男は呻いた。
「……やめて……俺は……納めた……」
セレウスは微笑む。
「納めた? 納税証明は無効。君の魂はまだ残っている。残っているなら、徴収しないのは法違反だ」
――合法的な拷問。
俺の手が震えた。痛覚増幅が刺さる。だが震えの理由が痛みなのか、嫌悪なのか、自分でも判別がつかない。
労務者の一人が俺の横に寄ってきた。階段で囁いた痩せた男だ。歯が欠けた笑みで言う。
「やれよ、新入り。お前が書けば対価はお前持ち。俺らは助かる」
「助かる……?」
「半端な魂が暴れると、巻き込まれる。昨日も死んだ。だから、さっさと“処理”しろ」
俺はセレウスを見る。セレウスは俺を見返す。目が笑っている。
「契約は簡単だ。『残存魂は徴収される』。それだけでいい。お前は条文化ができる。合法に、迅速に」
ミラの言葉が蘇る。
――条文は短く。範囲は狭く。対価を見ろ。
――そして、但し書き。
俺は羊皮紙を取り出そうとして、やめた。ミラが言った。紙は命。ここで無駄にするな。
俺はポケットの骨片に指を当てた。
骨の冷たさが掌の縫い跡を刺激し、痛みが跳ねる。それでも指先から黒い滲みが流れた。
俺は書く。
『第七条 当該労務区画内における“未納の魂税”は、即時に徴収される』
『但し、徴収対象が“主体”である場合、徴収は猶予される』
書いた瞬間、空気が鳴った。骨が熱を持つ。
【条文化:成立】
【適用範囲:労務区画(限定)】
【期限:10秒】
【対価:嗅覚の鈍麻(7日)】
匂いが遠のいた。腐臭が薄くなる。吐き気が軽くなる。便利だ、と冷たい自分が言った。嫌悪が薄い。便利さが残る。
セレウスが目を細めた。
「但し書きか。賢い。主体だけは守ったな」
次の瞬間、檻の男の胸がへこんだ。
目に見えない何かが、内側から引き抜かれる。男の口が大きく開く。声は出ない。魂が吸われるとき、音は出ないらしい。皮膚が一瞬だけ青白く光り、すぐに灰色に戻った。
男は崩れ落ちた。死体になった。
周囲の労務者が息を吐く。安堵の息。助かったという息。誰も悲しまない。悲しむ余裕がない。
セレウスが頷く。
「上出来だ。これで事故が減る。損失が減る。――よく働いた、納税者」
そして、俺の目の前にウィンドウが浮かぶ。
【労務評価:加点】
【納税残高:減少】
【次回徴発:追加可能性】
加点。減少。追加可能性。
俺は冷たく理解した。
ここでは、善行も悪行も同じだ。
“評価”に変換される。
評価が税になる。税が命になる。
痩せた男が肩を叩こうとして、俺の縫い跡を見て手を止めた。
「……お前、使えるな。次は俺らのためにも書けよ」
その瞬間、別の労務者が小さく笑った。女だ。目が鋭い。腕に古い傷跡。彼女は俺を見て言った。
「使える? 違う。あいつは“狩られる”。条文化持ちは、上層が欲しがる」
痩せた男が唾を吐いた。
「黙れ、リセ」
女――リセが言う。
「黙らない。新入り、聞け。第七層には“回収屋”がいる。ギルドの犬だ。条文化持ちを見つけたら、契約で縛って上に売る。肉税より高い値がつく」
俺は骨片を握り締めた。痛い。掌が裂ける。血がにじむ。匂いは薄い。嗅覚が鈍ったからだ。
セレウスが杖を鳴らす。
「私語をするな。労務中だ。――次」
別の檻が開く。
今度は、子どもが引きずり出された。
小さい。骨ばっている。目だけが大きい。首輪は同じ。文字が刻まれている。読むな。読むな。読むな。
子どもは震えながら俺を見る。
「……たすけて……」
その声が、胸を打つはずだった。
でも胸は動かない。
感情鈍麻。不可逆。
それでも、理性は告げる。
――このまま処理すれば、俺の納税残高は減る。生き延びる確率は上がる。
――助ければ、規則違反。回収される確率が上がる。
世界は、選択肢を提示する。
どちらも汚い。
ミラの声が脳内で囁く。
――但し書きは、刃よりも深い。
――抜け道は、そこにある。
俺は骨片に指を当てた。
短く。範囲は狭く。
対価を見る。
そして――子どもを見ないように、条文を刻み始める。
(つづく)




