第4話 「第七層へ」
痛みは眠りを許さなかった。
横になっても、首輪の棘が喉を撫でる感覚が脳を叩く。掌の傷が脈打ち、呼吸をするたび胸が刺さる。痛覚増幅の二十四時間――その仕様は、容赦がない。
それでも、意識は奇妙に澄んでいた。
恐怖が薄い。焦りも薄い。代わりに、冷たい計算だけが回る。
薄暗い地下室。壁は湿り、床は藁。天井の隙間から、灰色の光が細く落ちている。ここがミラの“隠れ家”らしい。隠れ家というより、逃げ場だ。王都ではそれ以上のものは贅沢らしい。
ミラは、俺の前に木箱を置いた。中には紙束と、黒い粉と、糸と針。それから――小さな骨片。
「起きてる?」
「寝られると思うか」
「そう。なら学習開始」
ミラは淡々と言って、紙束を広げた。薄い羊皮紙の切れ端。どれも端が焦げ、血で汚れている。
「これ、何だ」
「但し書きの“型”。写本屋の商売道具。あなたは条文化の才能があるけど、型を知らない。型がない条文は高い対価を払う」
俺は言い返しかけて、やめた。怒りが薄い。反論の熱も薄い。代わりに疑問だけが残る。
「型があると、対価が下がるのか」
「下がる。世界は“既存の秩序”に沿った条文を好む。新しい法は重い。既存の解釈に寄せれば軽い。――だから王都は腐る」
ミラは一枚の紙を指で叩く。
「第七層、知ってる?」
「さっき言ってた。下水と死体と……徴収の残り滓」
「それだけじゃない。第七層は“徴収の現場”だ。徴収人が回収した魂を加工して、上層へ送る。王都の燃料工場」
胃がひっくり返るはずなのに、反応が薄い。吐き気はある。だが、吐き気に感情が乗らない。身体だけが嫌がっている。
「……俺はそこへ徴発される。労務として」
「うん。あなたは暫定主体。納税手段が労務。つまり、働いて税を納める。逃げたら即回収。サボったら追加徴収。死んだら――」
ミラは言葉を切った。
「死体から肉税を取られて、魂税で残り全部」
冷たい世界だ。けれど、冷たいと感じる心が薄い。俺はただ頷いた。
「……生き残るには?」
ミラは三本指を立てた。
「一つ。徴収人の規則を利用する。
二つ。労務契約の“但し書き”を作る。
三つ。人間を信用しない。契約で縛る」
「全部、契約か」
「この世界では、契約だけが暴力に勝つ」
ミラは骨片を俺の前に滑らせた。白く乾いた、小さな骨。指の骨に見える。
「これ、昨日の執行官のもの?」
「違う。第七層の“税の残り”。魂を絞った後に残る骨。魂は燃料になる。骨は証拠になる。――証拠は価値になる」
俺は骨片を指でつまんだ。増幅された痛覚が走る。だが、心は静かだ。
「これをどうする」
「これに条文を書く。あなたの羊皮紙は有限。第七層では紙が命。骨は捨てられてる。だから書ける」
「骨に……条文化ができるのか」
「できる。媒体は何でもいい。言葉が刻めれば」
ミラは俺の手元の羊皮紙を指さした。
「そして一番大事。あなたの条文は“範囲”が狭いほどいい。半径三歩とか、当事者間とか。王都全体に効かせようとするな。対価が跳ねる」
「昨日の主体認定は王都(局所)だった。あれは……」
「危険な賭け。運が良かっただけ。次は死ぬ」
ミラは息を吐いた。ため息に見える。でも声は淡々としている。感情の色が薄い。
「あなた、感情鈍麻のせいで無茶しそう。だから言っておく。
“死ぬことが怖くない”のは、才能じゃない。欠損だ」
俺は一瞬だけ、胸の奥がざわついた……気がした。だがすぐ消えた。
そのとき、外で鐘が鳴った。
低い鐘。徴収の鐘とは違う。もっと規則的で、通知みたいな音。
【労務徴発:集合】
【時刻:黎明】
【集合地点:第七層入口】
ウィンドウが、俺の目の前に浮かぶ。拒否ボタンはない。同意を取る気もない。ただの命令。
ミラが立ち上がった。
「時間」
「お前は来ないのか」
「私は写本屋。第七層は出入り口が少ない。見張りも多い。私が行けば足がつく」
「じゃあ俺は一人で?」
「一人じゃない」
ミラは木箱から、小さな紙片を取り出して俺に投げた。紙片には短い文が書かれている。
『第七層 班番号:十三 監督:セレウス』
「監督?」
「労務者を管理する人間。第七層の人間は、徴収人より柔らかいけど、同じくらい危険」
ミラは続けて、もう一枚の紙片を出した。
『第七層 非公式規則:死体に触るな』
「……非公式?」
「公式の規則は読んだだけで刺さる。だから、非公式の規則は“生き残った者の知恵”」
ミラは俺の首輪を見た。棘。金属の輪。昨日より少しだけ冷えている。
「あなた、首輪は解除されたけど痕跡は残る。落ち人だって一目でわかる。狙われる」
「狙うのは……誰だ」
「労務者同士。監督。ギルドの回収屋。貴族の使い走り。――全員」
俺は頷いた。怖さは薄い。でも理解はできる。
「じゃあ、縛る」
「そう。契約で」
ミラは俺の掌の傷を見て、糸と針を取り出した。
「縫う。血が出ると匂いで寄ってくる。第七層は腐ってるから、血は餌」
「自分でやる」
「やれない。痛覚増幅中だろ。手元が狂う」
ミラは俺の手を掴んだ。白い指。冷たい。針が刺さる。痛い。痛いのに、俺は声を出さない。出せない。感情が薄い。代わりに、汗が出る。
縫い終わった後、ミラは俺に骨片を渡した。
「これを持て。書ける媒体。緊急用の条文。
書くなら短く。範囲を狭く。対価を見ろ。
そして――但し書きを忘れるな」
「……わかった」
ミラは頷いた。フードの奥で、何かを言いかけてやめた気配がした。
「最後に、一つ契約を追加」
「もうあるだろ。“売らない”って」
「それとは別」
ミラは俺の羊皮紙を指さした。
「第七層で得た“法典の欠片”を、必ず私に渡す。あなたが生きて帰った証拠にもなる。私の報酬にもなる」
「……取引か」
「取引。友情じゃない。ここではそれが一番安全」
俺は骨片に指を当て、短く書いた。
『第六条 相沢レイは第七層で得た法典欠片をミラに渡す』
『但し、相沢レイが死亡した場合、この義務は消滅する』
【条文化:成立】
【適用範囲:当事者間】
【期限:30日】
【対価:記憶1件(軽微)】
また一つ、何かが消える。
どうでもいいはずの小さなものが、少しずつ消えていく。
それが怖いはずなのに、怖さが薄い。
ミラが言う。
「行け」
俺は立ち上がった。体が痛い。心が静かすぎる。
地下室を出て、灰の王都の道を歩く。人々の目が刺さる。首輪の痕。落ち人。暫定主体。労務者。
そして、第七層入口。
巨大な穴だ。石造りのアーチの下に、黒い階段が口を開けている。下から上がってくる空気が、生温かく腐っている。遠くで水の音。金属の擦れる音。呻き声。
入口には看板があった。
読んではいけない。
だから、目を逸らして通る。
列ができている。痩せた男、片腕の女、顔を覆った少年。全員、目が死んでいる。けれど、目の奥だけが生きている。生存のための光。
俺も列に並ぶ。
監督と呼ばれる男が、前に立っていた。
黒いローブ。胸元に銀の札。
目は冷たい。笑っているのに、笑っていない。
「班十三。前へ」
俺は一歩踏み出した。
男が俺の首輪の痕を見る。
「……落ち人か。主体認定も暫定。面倒だな」
男は俺に紙片を投げた。紙片には番号。
「お前は今日から“税の歯車”だ。余計なことをするな。死体に触るな。規則は守れ。――守れないなら、回収される」
俺は頷く。
怒りも恐怖も薄い。
あるのは理解だけ。
そのとき、背後で誰かが囁いた。
「新入り……骨に文字を書けるか?」
振り向くと、痩せた男が笑っていた。歯が欠けている。目が濁っている。だが、狙いははっきりしている。
「お前、条文化持ちだろ」
――噂は、もう回っている。
俺は骨片を握り締めた。掌の縫い跡が痛む。痛みだけが、確かだ。
監督の男が杖を鳴らした。
「降りろ。第七層だ」
列が動く。黒い階段へ吸い込まれる。
灰の王都の地上の光が、背後で遠ざかる。
下から、呼吸の音がする。
法典庫とは違う。もっと湿って、もっと飢えている呼吸。
俺は理解した。
第七層は、王都の胃だ。
ここで消化され、残滓になり、上層へ送られる。
そして俺も――消化される側だ。
(つづく)




