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『魂に条文を刻め ――契約魔術師は地獄の王都で生き残る』  作者: ベルガマスク


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第3話 「法典庫は、息をしている」

 階段を降りるたび、空気が冷たくなる。


 地下の湿気と、金属の錆の匂い。壁は石で、ところどころに黒い染みがある。水ではない。乾いた血の色だ。踏みしめる足音が、やけに大きく反響する。


【納税猶予:残り 2秒】

【納税猶予:残り 1秒】


 首輪が焼けるように熱い。喉に刺さる棘がうごめき、今にも締め上げようとする。俺は思わず首を掴んだ。指が触れた瞬間、増幅された痛覚が爆ぜる。


「――っ!!」


「触るな、バカ。痛覚増幅中だろ」


 前を行くミラが低く吐き捨てる。暗闇の中でも彼女の動きは迷いがない。まるでこの地下を自分の部屋みたいに知っている。


 猶予が切れた。


 ……なのに、首輪は締まらない。


 代わりに、空気の奥で何かが“こちらを見た”感覚がした。冷たい視線。胸の内側がざらつく。


【回収判定:保留】

【理由:担保血印/登録不全/照合中】


「照合中……?」


 俺は息を吐く。痛い。生きてるだけで痛い。だが、“保留”という文字が、今は救いに見えた。


 ミラは立ち止まり、俺の掌を見る。


「血印が効いてる。徴収人は機械だ。規則に縛られてる。だから照合で時間が稼げる」


「……いつまで」


「さあね。数分か、数十秒か。運と、あなたの“条文の筋”次第」


 階段を降り切った先は、狭い通路だった。天井が低い。壁には鉄の杭が打ち込まれ、その先に薄い鎖が垂れている。鎖の先端には――小さな札。


 文字が刻まれている。


【沈黙】

【跪け】

【視線を上げるな】


 俺の背中に嫌な汗が浮いた。


「……これ、何だ」


「警告。ここは“法典庫”への道。見張りは人じゃない。規則で殴ってくる」


 ミラは鎖の札に指を触れず、距離を取って歩いた。俺も真似する。近づくだけで、皮膚がちりちりする。言葉が刃になって飛んでくる予感。


 通路の端に、鉄扉があった。扉には鍵穴がない。代わりに、中央に円形の凹み。その周りに小さな文字がびっしり刻まれている。


「読むなよ」とミラが言う。


「……読むな?」


「読んだら同意したことになる。ここの罠の基本」


 俺は反射で視線を逸らした。だが遅かった。目尻で文字の一部が入る。


『当庫に入る者は――』


 瞬間、頭の中にまた“同意”を取られる感覚が走った。滑るように、言葉が脳へ入ってくる。


【警告:暗黙の同意が発生しかけています】


 俺は歯を食いしばって、目を閉じた。心臓が跳ねる。怖い――はずなのに、その怖さも少し薄い。


 ミラが俺の額を指で弾いた。


「やっぱり落ち人って危なっかしい。いい? この世界の法は、読むだけで刺さる。納得しなくても、読んだ瞬間に“契約”が成立する条文がある」


「そんなの……詐欺だろ」


「詐欺を合法化したのが、この王都」


 ミラはフードの奥から、小さな布袋を取り出した。中身は灰色の粉。


「目を開けるな。口も開くな。息も浅く」


「無茶言うな……」


「できる。死にたくないなら」


 ミラは扉の凹みに灰を押し付けた。灰が、指紋みたいに広がる。すると扉の文字が一瞬だけ光り、暗く沈んだ。


【認証:無効化(30秒)】


「……灰?」


「“無主物”の灰。所有者のないものは契約主体になれない。主体になれないものの同意は取れない。だから認証が崩れる」


 ミラの声は淡々としていた。ぞっとするほど合理的だ。倫理じゃなく、仕様で世界を攻略している。


 扉が、重い音を立てて開いた。


 中は――図書館だった。


 だが、普通の図書館じゃない。


 書架は天井まで伸び、並ぶのは本ではなく“皮”。革表紙ではない。もっと生々しい、肌の色。背表紙に縫い目が見える。ページをめくる音が、どこからか絶えず聞こえるのに、誰もいない。


 そして、空気が――“呼吸”していた。


 ふっ……、はっ……。


 どこかで巨大な肺が動いているような、湿った音。


 俺は喉が鳴るのを必死で抑えた。


「……ここ、何なんだよ」


「法典庫。王都の法が保管される場所。正確には、“法が生まれる場所”」


 ミラは書架の間を進む。俺も後ろをついていく。棚に近づくと皮膚がざわつく。誰かの視線じゃない。文字の圧力だ。


 書架の一つに、札がかかっている。


【税法】

【身分法】

【徴収令】

【例外集】

【但し書き集】


 俺は最後の札に目を留めた。


「但し書き集……?」


 ミラが振り返る。フードの奥、見えない目が笑った気配。


「そう。あなたが欲しいのはこれ。条文化持ちは、但し書きの使い方で生存率が変わる」


「……俺、まだ使い方がわからない」


「だから教える。けど、まず最初に――」


 ミラは棚から一冊を引き抜いた。


 皮の表紙に、こう書かれている。


【登録法】

【落ち人条項】


 俺の背中が冷たくなる。


「……俺の首輪の登録を解除できるって言ってたな」


「できる。合法的に。あなたが“無主物”じゃなくなればいい」


「……所有者になるってことか?」


「違う。“主体”になる。所有者と主体は違う。主体は、契約できる存在。契約できるなら、登録を拒否できる余地が生まれる」


 ミラは本を開いた。

 ページは紙ではなく薄い膜。文字が、脈打っている。読みたくないのに、目が勝手に吸い寄せられる。


 俺は必死で視線を逸らしたが、ミラが読む音が耳から入る。


「落ち人条項――『落ち人は王都に落着した瞬間、暫定的に無主物と推定する』」


「推定……?」


「そう。“推定”は反証できる」


 ミラは続けた。


「反証の方法は二つ。

 一、王都内の既存主体が落ち人を“扶養”する契約を結ぶ。

 二、落ち人自身が、王都の法の下で“主体として認められる契約”を成立させる」


 俺は息を吸った。痛みが刺さる。それでも。


「……二だな」


「うん。私があなたを扶養するのは割に合わない。あなたも信用できないし」


「手厳しいな」


「生き残るための礼儀」


 ミラは本を閉じ、別の棚へ向かう。

 俺は気づいた。彼女の動きが、少しだけ急いでいる。焦り。緊張。それが声の端に混じっている。


「……時間がないのか」


「鋭い。法典庫の無効化は30秒。さっきの灰の認証を見張りが検知する。もうすぐ来る」


「見張りって……徴収人みたいなやつか?」


「もっと厄介。“条文を執行する”だけじゃなく、“条文を増やす”やつ」


 ミラは棚から薄い冊子を抜く。


【主体認定手続】

【簡易契約式】


 その瞬間、背後で“呼吸”が止まった。


 すべてのページをめくる音が、一斉に止む。


 静寂。


 そして、遠くで、足音。

 人間の足音じゃない。紙が擦れる音。無数のページが床を歩くような、ざざざ、という音。


 ミラが低く言う。


「来た。目を合わせるな。相手は――」


 書架の影から、何かが現れた。


 人の形だ。だが皮膚がない。代わりに全身が紙でできている。顔は白紙で、そこに文字が走っては消える。腕の先は羽ペン。指先から黒いインクが滴り落ちる。


 それが、声を出した。


「無許可閲覧。無効化行為。違反」


 そして、白紙の顔に、文字が浮かぶ。


【罰則:記憶没収】

【対象:付近の主体】


 俺の頭が冷たくなる。


 記憶没収。

 さっきから削れている記憶が、丸ごと“没収”される?


 ミラが囁く。


「ここからが本番。簡易契約式で、あなたを主体にする。主体になれば、罰則の対象をずらせる」


「ずらす……?」


「“主体”が変われば、没収される記憶の帰属も変わる。今のあなたは無主物。没収されても誰も文句を言わない。だから全部持っていかれる」


 紙の人形が一歩進む。羽ペンの指先が、空中に線を引く。線が文字になり、文字が鎖になる。


 俺の首輪が震えた。棘が歓喜するみたいに蠢く。


【回収判定:再開】

【照合完了:未登録=回収対象】


「……くそっ」


 俺は羊皮紙を握り締めた。痛い。掌の切り傷が裂ける。血が滲む。


 ミラが冊子を俺に突きつけた。


「書け。簡易契約式は短い。これで主体になる」


「相手は誰だ。俺が契約する相手が必要だろ」


「相手は――“王都”そのもの。法典庫は王都の臓器。ここで結べば通る」


「……王都と契約?」


「そう。王都に“納税する主体”として認めさせる。代償は重い。けど、ここで死ぬよりマシ」


 紙の人形が腕を上げた。

 鎖が伸びる。

 俺の頭の中の何かが、引っ張られる感覚。


 俺は叫ぶように書いた。


『第五条 相沢レイは灰の王都に対し、納税義務を負う主体として認定される』

『但し、納税の履行は“将来の労務提供”を以て代替する』


 書いた瞬間、全身を刺す痛みが跳ね上がる。

 そして、通知。


【条文化:成立】

【適用範囲:王都(局所)】

【期限:1日(暫定)】

【対価:感情の鈍麻(不可逆)】


 不可逆。


 俺は、息を呑む……はずなのに、息を呑む衝動が弱い。胸が揺れない。心が追いつかない。


 恐怖が、薄くなる。

 怒りが、薄くなる。

 嬉しさも、たぶん。


 でも――首輪の熱が引いた。


【魂登録:無効】

【状態:主体(暫定)】

【納税手段:労務(予約)】


 紙の人形の白紙の顔に、文字が走る。


【対象変更:主体=相沢レイ】

【罰則:記憶没収 → 労務徴発】


 鎖が、形を変えた。

 記憶を引き抜く鎖ではない。

 足首に巻き付く、働けという鎖。


 俺は、膝をついた。痛い。苦しい。――でも、苦しいという感情が薄い。


 ミラが低く言った。


「成功。あなたは“人”になった。代わりに――今日から奴隷じゃなく“納税者”だ」


「……違いがあるのかよ」


「ある。納税者には、但し書きが使える。奴隷は、条文を読むだけで死ぬ」


 紙の人形が、こちらに羽ペンを向けた。


「労務徴発。明日。黎明。集合地点:第七層」


「第七層……?」


 ミラの声がわずかに硬くなる。


「……最悪の区画。下水と死体と、徴収の残り滓が集まる場所」


 紙の人形は仕事を終えたように、ざざざ、と音を立てて書架の影へ溶けていく。呼吸が戻り、ページをめくる音も戻った。法典庫は何もなかったように日常へ帰る。


 俺は羊皮紙を見た。

 自分が書いた第五条。

 その文字が、まだ脈打っている。


 俺は、確かめるように言った。


「……俺、感情が鈍くなったのか」


 ミラは一瞬だけ黙った。

 そして、淡々と答える。


「うん。でも、そのおかげであなたは死ななかった。ここでは、それが正解」


 俺は笑いたかった。

 怒りたかった。

 怖がりたかった。


 でも、どれも薄い。


 ただ一つだけ、冷たい理解が残った。


 この世界で生きるには、

 人間性を担保に差し出す。


 ミラが言う。


「帰るよ。明日、あなたは徴発される。第七層で生き残る方法を、今夜中に叩き込む」


 俺は立ち上がった。足が震える。痛覚は地獄のままだ。けれど、心は静かすぎる。


 扉へ向かう。

 灰の王都へ戻る。


 背後で法典庫の“呼吸”が、わずかに笑った気がした。


(つづく)

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