第2話 「但し書きは、刃よりも深い」
鎧のない鎧――首のない徴収人が、俺の目の前で止まった。
胸の内側で揺れる青白い火が、呼吸みたいに明滅する。その火がこちらを“見ている”気がした瞬間、首輪が熱を持ち、棘が喉を締め上げる。
「回収」
機械みたいな声。感情がない。だからこそ、逃げ道がないと直感した。
俺は羊皮紙に指を置いた。書けば助かるかもしれない。けれど――また寿命か、記憶か、感情か。さっき穴が空いたところが、まだ冷たい。
【警告:対価の不足】
【次の条文化の対価候補:感情/記憶群/肉体機能】
“感情”。
俺は自分の胸を確かめる。怖いはずなのに、怖さが薄い。焦っているはずなのに、焦りが薄い。心臓は鳴っているのに、心が追いつかない。
――もう、削られ始めてる。
「書くな。まだ払える対価を知らないだろ」
横から落ちてきた声。
黒いフードの女が立っていた。顔は影に沈んでいる。だが指先だけが、死人みたいに白い。彼女は俺の羊皮紙を見て、鼻で笑った。
「条文化を“条文”だけだと思ってる時点で、死にたいの?」
「……条文以外があるのか」
「ある。条文、例外、但し書き。世界はその三つで回ってる。――特にこの王都はな」
徴収人が一歩進む。石畳がきしむ。足音の代わりに、金属の軋みが腹の奥に響く。
「回収対象:未登録。未納」
フードの女が、俺の耳元で囁く。
「いい? 徴収人は“法”そのものだ。真正面から『回収するな』なんて書いたら、対価が跳ね上がる。法を否定するってのは、それだけ重い」
「じゃあ……どうする」
「否定しない。肯定した上で、条件を狭める。――但し書きで、な」
理解した。
この世界の闇は、“合法”で殺してくる。だから、こちらも“合法”で逃げるしかない。
俺は羊皮紙に指を当てた。指先から滲む黒が、インクみたいに流れる。怖い。けれど、怖いと感じる余裕がもう少ない。
「……例外を、作る」
「違う。“例外”じゃない。徴収人には例外がない。だから、徴収の定義を弄る」
女は淡々と言った。
「この王都の税は魂。納税証明が無効なら回収。じゃあ何をすればいい? ――納税証明を“仮”でも成立させるか、未納の定義から外れるか」
「仮の……納税?」
「そう。『今すぐ払う意思がある』ってことを、法に認めさせる。逃げる時間を買う」
徴収人が腕を上げた。指のない手。そこから黒い霧が伸び、俺の胸に触れようとする。
触れられたら終わる。さっき執行官の魂が抜けた映像が頭に貼りついて離れない。
俺は、書いた。
『第三条 当事者が“納税の意思”を表明した場合、徴収は猶予される』
『但し、猶予の対価は“担保”の提供を要する』
書き終えた瞬間、世界が再び鳴った。
空気が裂け、見えない線が張られる。徴収人の腕が止まった。
【条文化:成立】
【適用範囲:半径三歩】
【期限:30秒】
【対価:痛覚の増幅(24時間)】
「……は?」
対価が痛覚?
次の瞬間、首輪の棘が刺さる痛みが、十倍に跳ね上がった。喉が裂ける。目の奥が焼ける。息を吸うだけで針が肺に突き刺さるみたいだ。
「ぐっ……ああぁっ……!」
俺は膝をついた。吐き気がこみ上げる。けれど意識は飛ばない。飛べない。痛みだけが鮮明すぎる。
フードの女が舌打ちした。
「痛覚増幅か……運が悪い。でもまだマシ。寿命よりマシ」
徴収人の青白い火が揺れた。まるで“処理中”の機械みたいに。
「猶予:承認。担保:未提示」
女が小声で言う。
「担保を出せ。今すぐ。何でもいい、こいつが“税の担保”として認めるものなら」
「何でもって……金なんか……!」
俺は必死に周囲を見る。逃げ惑う人々。地面に伏せる影。崩れた執行官の皮袋。血。短剣。
――短剣。
執行官の腰から落ちている。俺は痛みに耐えて手を伸ばし、刃を掴んだ。冷たさが、痛みを少しだけ紛らわせる。
「担保……これで……!」
俺は羊皮紙に追記した。
『担保は“血印”を以て代替できる』
『但し、血印は当事者の血によってのみ成立する』
書いた瞬間、痛みがさらに鋭くなった。
――対価が上乗せされたわけじゃない。痛覚が増幅されているから、ただの動作も地獄になる。
俺は短剣で、自分の掌を浅く切った。
血が出た。赤い血。生きている証拠。
その血を羊皮紙に押し付ける。
“血印”。
同時に、空中に青いウィンドウが浮かんだ。
【納税猶予:成立】
【担保:血印(本人)】
【猶予期限:30秒】
【回収停止】
徴収人の腕が下がった。
青白い火が、こちらから視線を外したように揺れる。
俺は息を吸った。痛い。地獄みたいに痛い。でも――生きてる。
「……助かった、のか……?」
「“延命”しただけ」
女は俺の襟を掴み、乱暴に引き上げた。信じられない力だ。細い腕なのに、骨が軋む。
「来い。猶予が切れたら回収だ。担保は“税の予約”でしかない。今のお前は、予約客だ」
「……予約客って、何だよ……」
「死ぬ順番待ちってこと」
女はそう言って、路地裏へ引きずり込む。石壁の隙間に、細い暗闇が口を開けていた。
路地に入った瞬間、外の喧騒が遠のく。代わりに、息を潜めた臭いが濃くなる。汗、カビ、血、そして香の匂い。
女は立ち止まって俺の首輪を指で叩いた。
「それ、執行官の首輪だね。登録が途中で止まってる。珍しい」
「……止めた。条文化で」
「やっぱりね」
女はフードの奥で笑った気配を見せた。
「自己紹介しとく。私は“写本屋”……まあ、法典の盗人みたいなもん。名前は――」
言いかけて、女は黙った。フードの影が少しだけ揺れる。
「……今は、ミラでいい」
「ミラ……」
「で、あなた。落ち人。条文化持ち。痛覚増幅中。担保血印済み。――最悪の状態だね」
俺は壁にもたれた。動くと痛い。息も痛い。存在するだけで痛い。
「最悪って……」
「まだ落ちる。王都の仕組みを説明する」
ミラは指を立てた。
「この王都には税が三つある。金税、肉税、魂税。金がないなら肉で払う。肉がないなら魂で払う。払えないなら徴収人が来る」
「……肉税って、何だ」
「臓器、血、労働。合法だよ。契約書があるからね」
胃がひっくり返る。さっき見た痩せた子どもたちの目の意味が、遅れて理解できた。あれは、飢えじゃない。売られる側の目だ。
「そして重要なのは、条文化持ちは“希少”で“高価”ってこと」
ミラが続ける。
「この王都の上層――法務院とギルドと貴族は、条文化を独占してる。条文を書ける者は、法を作れる。法を作れる者は、徴収から逃げられる。逃げられる者は、人を徴収できる」
俺は唾を飲んだ。痛くて咳き込みそうになるのを必死で堪える。
「……じゃあ俺は、狙われる」
「うん。首輪の登録が止まってても、目撃者はいる。執行官も死んだ。徴収人も反応した。噂はすぐ回る」
ミラは俺の手元の羊皮紙を見た。掌の血が乾き始めている。
「でも、まだ道はある。あなたの武器は“但し書き”。ただし、使い方を間違えると、あなたはあなたじゃなくなる」
俺は震える声で聞いた。
「……対価、選べないのか」
「選べる。でも“高い条文”を書くほど、候補がえげつなくなる。寿命、記憶群、感情、肉体機能……。そして最悪は――」
ミラは言葉を切った。
フードの影が、ほんの少しだけこちらへ傾く。
「“同意”。あなた自身が、自分を削ることに慣れた瞬間。対価が軽く感じ始めたら、終わり」
俺は息を止めた。
確かに、さっき「寿命30日」と出たとき、俺は笑った。怖いはずなのに、笑えた。
それが、すでに“慣れ”の始まりだとしたら。
ミラが言う。
「さて、取引しよう。私はあなたに但し書きを教える。その代わり――あなたは私に“条文”を一つ書いて」
「……何を」
「あなたを守る条文じゃない。私のための条文。私は写本屋。法典を盗む。だから――」
ミラは淡々と告げた。
「『私はあなたを売らない』って条文を、私に結ばせて。契約として。あなたの合意で」
俺は理解した。
この世界では、善意は信用できない。
だから、信用は契約で買う。
俺は羊皮紙に指を置いた。痛みが走る。黒い滲みが流れる。
『第四条 ミラは、相沢レイを第三者に売却・引渡し・通報してはならない』
『但し、相沢レイが先にミラを害した場合、この限りでない』
ミラが小さく笑った。
「いい但し書き。抜け道の方向が正しい」
【条文化:成立】
【適用範囲:当事者間】
【期限:30日】
【対価:記憶1件(軽微)】
また、何かが抜け落ちる。
今度は小さい。けれど確かにある。
――自分の好きだった飲み物の味、みたいな些細なものが消えた気がした。
ミラは頷いた。
「じゃあ、あなたを生かす。まずは首輪の“登録”を解除する。解除できなきゃ、税の担保が切れた瞬間に回収だ」
「解除……そんなことできるのか」
「できる。合法的に、ね」
ミラは路地の奥へ歩き出した。
暗闇の先に、地下へ降りる階段がある。
「どこへ行く」
「法典庫」
「……そんなの、王都の中枢じゃないか」
「そう。だから盗む。法は盗める。条文は奪える。奪った法で、生き延びる」
ミラは振り返らずに言った。
「あなたは今日、二つのことを学んだ。
一つ――この世界に救済条項はない。
二つ――救済条項は、“書ける”」
階段の下から、冷たい風が吹き上げた。
その風の中に、鐘の音が混じっている。
さっきの鐘だ。徴収の鐘だ。
猶予が――切れる。
【納税猶予:残り 5秒】
首輪が再び熱を持つ。棘が蠢く。
ミラが言った。
「走れ。痛くても走れ。痛みは生きてる証拠だ。――死んだら、証拠すら残らない」
俺は歯を食いしばった。
そして、暗闇へ飛び込んだ。
(つづく)




