第10話 「保留条項」
青白い欠片が、床の上で脈打っていた。
上層雇用。主体の恒久化。感情の回復(部分)。
甘い餌。毒の匂い。
俺の目の前に浮かぶ選択肢は二つだけ。
【同意】
【拒否】
二択は罠だ。
この世界はいつもそうだった。読むだけで刺さる。触るだけで契約が成立する。拒否すれば罰、同意すれば鎖。
だから――第三の選択肢を作る。
保留。
ミラの声が遠い仕様のように響く。
――否定するな。定義を弄れ。範囲を絞れ。
――但し書き。
会計役が静かに言う。
「迷うな。欠片は燃料にも資産にもなる。迷いは損失だ」
リセが俺の腕を掴む。
「新入り、誘いの欠片は“待たない”。規定時間で自動同意が走ることがある」
自動同意。
最悪だ。だが、十分あり得る。
ユノが震えながら言う。
「……やめたほうが……いい?」
俺は答えられない。声が出ない。代わりに、骨片に黒い滲みを落とし始める。
短く。範囲を狭く。
当事者は――俺と、この欠片の“提示者”。提示者は上層の誰か。だが名前がない。なら“提示主体”として定義する。
そして何より、成立のタイミングを捻る。
俺は骨片に刻む。
『第十三条 本欠片により提示された雇用契約(以下「本契約」)は、相沢レイが“主体としての恒久化”を確認した時点で成立する』
『但し、相沢レイが確認前に死亡・回収された場合、本契約は成立しない』
骨片が熱を持ち、空気が鳴った。
【警告:上位契約への干渉】
【対価増大の可能性】
だが、まだ足りない。
“確認”の定義が曖昧だと、相手に奪われる。相手は「確認した」とみなして強行するだろう。
俺は続ける。
『確認とは、相沢レイの魂登録が“恒久主体”として更新され、その更新通知が相沢レイ本人に表示されることをいう』
――通知。
通知が出なければ、成立しない。
通知はシステム側の出力で、相手が勝手に捏造できない領域……のはずだ。
会計役が小さく笑う。
「うまい。成立条件を“システム通知”に寄せたか」
リセが息を詰めた。
「……会計役、読めてる。つまり成立してる?」
まだだ。これは契約の成立条件を変更する条文化であって、相手がそれを受け入れる必要がある。だが――この世界には“黙示の同意”がある。欠片は提示し、俺が触れている。その状態を利用できる。
俺は最後の一刺しを書く。
『相沢レイが本欠片を保持した状態で“同意/拒否”の選択を行わない場合、本契約は自動的に本条項に従って保留される』
――二択を無効化し、未選択を「保留」という法的状態へ落とす。
骨片が強く鳴り、青白い光が一瞬だけ増した。
【条文化:成立】
【適用範囲:当事者間(相沢レイ/提示主体)】
【期限:24時間】
【対価:睡眠の喪失(24時間)】
目の奥が乾く。眠気が消える。
痛覚増幅の地獄の中で眠れないのは――拷問だ。だが、期限がある。24時間。つまり、明日までに“恒久主体”の確約を取るか、欠片を捨てるか、燃やすか、第三の出口を作るか。
欠片の上の二択が、変化した。
【保留(24時間)】
【保留解除】
会計役の目が細くなる。
「……面倒な条文だ。だが成立した以上、提示主体は今は強行できない」
リセが小さく呟く。
「生き延びた……。でも、24時間後に何が起きる?」
会計役が淡々と言う。
「24時間後、保留が切れる。切れた瞬間、提示主体が“回収”に来ることが多い。上層は契約を失うのが嫌いだからな」
回収。
上層の回収。
第七層の回収屋より厄介だ。
ユノが俺の袖を掴む。
「……どうするの……?」
俺は骨片に短く刻む。
『恒久主体化が必要』
会計役が、まるで待っていたように言う。
「恒久主体が欲しいなら、方法がある」
俺は彼を見る。目を合わせるのは危険だ。だが視力が滲んでいても、彼の顔の“空白”がわかる。人間の皮を被った帳簿。
「上層の契約を結ばずに恒久主体になるのは難しい。だが不可能ではない。――帳の区画には“例外処理”がある」
会計役は奥の棚を指した。
【例外処理】
そこだけ、棚の紙が黒ずんでいる。焼け跡みたいに。
そして、その棚から、かすかに声が聞こえた。
紙をめくる音に混じって、人間の声。
「……助けて……」
声は弱い。だが確かに生きている声。
リセの顔色が変わる。
「……例外処理は、人が“整理”される場所だ。行けば終わりだ」
会計役が薄く笑う。
「終わりじゃない。終わるのは“元の自分”だ。例外処理は、恒久主体を生むための工場でもある」
工場。
魂の燃料工場。
法の工場。
そして主体の工場。
会計役が言う。
「相沢レイ。保留条項を作れるなら、例外処理の手続を“逆利用”できる可能性がある。――ただし成功率は低い。失敗すれば君は欠片になる」
欠片になる。
法として削られ、投棄され、誰かに拾われる。
リセが俺を見た。
「やめろ。賭けが大きすぎる。ユノを連れて帰れ。三日を守れ」
だが、24時間後に上層が回収に来るなら、三日どころじゃない。今の鎖は、もう上層に繋がってしまった。
俺は眠れない24時間を背負ったまま、選択する必要がある。
声が聞こえる。
例外処理の棚の奥から。
「……誰か……」
ユノが怯えながら言った。
「……あのひと、たすけないの?」
助ける。
助けない。
二択。
また二択。
俺は理解した。
この世界は二択で殺す。
なら――二択を壊すしかない。
俺は青白い欠片を懐に入れた。
保留(24時間)の鎖を抱えたまま。
そして、例外処理の棚へ歩いた。
リセが、舌打ちする。
「……バカ。ほんとに欠けてるな」
俺は振り返らない。
怖さが薄いから進める。
薄いからこそ、引き返す理由も薄い。
例外処理の棚の前に立つ。
棚の帳簿の背表紙に、文字がある。
読んではいけない。
でも読まなければ、開けられない。
会計役が、淡々と言った。
「読むな。触れろ。触れた瞬間、手続が始まる。開始すれば、途中で止められない」
止められない。
手続。
工場。
俺は左手を伸ばし、黒ずんだ帳簿に触れた。
触れた瞬間――
視界が、白に塗りつぶされた。
【例外処理:開始】
【対象:相沢レイ/同伴者:ユノ】
【手続:主体恒久化審査(暫定)】
ユノが小さく叫んだ。
リセが何かを叫んだ。
会計役の笑みだけが残った。
白い中で、文字が降ってくる。
条文の雨。
但し書きの刃。
そして俺は、眠れない目でそれを見上げた。
(つづく)




